スクウェア・エニックス・ホールディングス開発部門を社内に持たず、外部の作者と組む出版社型モデルの選択

不動産会社として登記された会社が、なぜ自前のプログラマーを一人も抱えないままファミコンソフトの最大手になったのか

時期 1982年8月
意思決定者(推定) 福嶋康博 社長
論点 事業モデルと開発体制
概要
1980年に不動産会社として設立された会社が、1981年にパソコンソフト事業へ入り、1982年8月にエニックスへ商号を変更した。福嶋康博社長は社内にプログラム部門を置かず、公募で見つけた社外の作者に開発を委ね、売り上げに応じた著作権料を支払う出版社型の事業モデルを敷いた。
背景
福嶋社長は建築学科の出身で、公団住宅の空き室情報誌などを手がけてきた情報ビジネスの経営者であり、自身は「パソコンは素人」と語っていた。米国のパソコン普及を見てソフトの流通に将来性を見込んだものの、社内に技術者はいなかった。
内容
1982年に賞金100万円のゲーム・ホビープログラムコンテストを開催し、2週間で約300作品を集めた。著作権を買い取る当時の慣行を採らず、売り上げの一定割合を作者へ支払うロイヤルティー方式を採用。堀井雄二氏・中村光一氏らを迎え、1986年5月に『ドラゴンクエスト』を発売した。
含意
1990年3月期の売上高162億円に対し従業員は80人で、ソフト会社というより出版社に近い損益構造であった。一方で発売時期を自社で握れず、2000年の『ドラゴンクエストVII』延期では売上高の大幅な下方修正を迫られた。
筆者の見解

作らない会社が、作る人に権利を残した

この判断でしばしば語られるのは「開発部門を持たなかった」という引き算のほうだが、実際に効いたのは足し算の側だったとみられる。著作権を買い取れば安く済むところを、売り上げに応じた著作権料を払う形に改めたことで、コンテストで見つけた作者はエニックスの外にいたまま次の作品を作る動機を得た。堀井雄二氏が自社を出版社になぞらえたのは体制の説明であると同時に、作者の側から見た取引条件の評価でもあった。技術を持たない経営者が技術者を雇う代わりに選んだのは、雇わずに済む契約の形であった。

軽さの代償は、後年きちんと請求書として届いている。2000年の『ドラゴンクエストVII』延期で、発売日を自社で決められない会社の弱点が株価と業績に出た。それでも1990年3月期の従業員80人・売上高162億円という損益は、ゲーム会社よりも版元の数字に近く、以後のスクウェア・エニックスの決算にこの組み合わせは二度と現れない。福嶋康博氏が虎ノ門で不動産会社を登記してから、社名がエニックスに変わるまでに2年半、社内にプログラマーは最後まで置かれなかった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

不動産会社として登記された出発点

エニックスの登記上の出発点は、ゲームともソフトウェアとも関わりのない不動産会社であった。1980年2月、福嶋康博氏は東京都港区虎ノ門に資本金500万円で株式会社営団社不動産を設立した。事業の目的は不動産の売買と仲介で、この時点でソフトウェアは事業目的にも入っていない。福嶋氏は1970年に日本大学理工学部を卒業したものの就職せず、米国やアジアを旅行して回り、帰国後の1975年に公団住宅の空き室情報誌を発行する営団社募集サービスセンターを設立していた。建物の設計でもソフトの開発でもなく、情報を集めて束ね、売る仕事から出てきた経営者であった[1][2]

事業の中身が変わったのは、米国で見た光景がきっかけであった。福嶋氏はニューヨークをはじめ米国を3カ月歩いて回り、そこでのパソコンブームから「将来は日本でも根づくだろう」と考えた。ソフトそのものより流通のほうが大きくなるという読みで、1981年8月に商号を株式会社営団社システムへ改め、パソコン向けソフトウェア事業へ入った。1982年8月、社名は株式会社エニックスとなる。もっとも当の社長は自分を「パソコンは素人」と言い切る人物で、技術を持つ人間が社内にいるわけではなかった[3][4]

「面白いソフトがない」から始まったコンテスト

ソフトを流す会社を作ってみたところ、流すべき商品が足りなかった。「だが面白いソフトがない。それなら自分たちで作ろう」という発想から、福嶋社長はゲームソフトのコンテストを企画する。パソコンショップなどにポスターを貼って作品を募り、当時30万円が一般的だった最高賞金を、最優秀賞100万円と打ち出した。相場の10倍という金額は「応募したゲームが無断で利用されてしまうのではないか」といった噂を流通業者やマニアの間に呼んだものの、募集からわずか2週間で約300作品が集まった[5][6]

第1回ゲーム・ホビープログラムコンテストの募集は1982年末まで続き、結果は1983年1月15日の朝日新聞紙上で発表された。入賞は13本で、商品化された作品は同年2月中旬から順次発売された。中村光一氏の『ドア・ドア』、森田和郎氏の『森田のバトルフィールド』が並び、堀井雄二氏の『ラブマッチテニス』も入選プログラム賞を受けている。堀井氏と中村氏はこの授賞式で顔を合わせた。商品化した13本のうち6本がパソコン雑誌の人気ベストテンに入り、うち3本が上位を占めた。社内に開発部門を持たない会社が、公募だけで商品の棚を埋めたことになる[7][8][9]

決断

買い取りではなく、著作権料を払う

コンテストそのものより後々まで効いたのは、集めた作品の権利をどう扱うかという決めごとであった。それまでのゲームコンテストは応募作の著作権を完全に買い取り、販売で得た利益はすべてソフト会社のものとするのが通例であった。福嶋社長はこれを採らず、売り上げの一定割合を著作権料として作者へ支払うロイヤルティー方式を選ぶ。そのうえで応募作を遊ぶ人の立場から徹底して改良させた。出版社では珍しくない手法にすぎないが、当時のソフト業界では画期的な扱いであった[10]

福嶋社長はこの選択を、目先の原価ではなく作り手の動機の問題として説明している。「会社はゲームの利用権を購入した方が安くつく。だがそれでは、作者に次にもっと面白いものを作ろうという意欲は湧きにくい」。売れるほど作者の実入りも増える形にすることが、ヒットを生む方法にあたるという理屈であった。のちに『ドラゴンクエスト』のシナリオを書く堀井雄二氏は、この会社を「自社にプログラム部門を持たず、すべて外注でやっているエニックスは出版社に似ている」と評し、ソフト会社と作者の間に著作物という認識を確立させた点を挙げている[11][12]

黒子として『ドラゴンクエスト』を組む

家庭用ゲーム機への参入時期も、自社で作らない会社らしい決め方であった。エニックスがファミリーコンピュータ向けソフトに乗り出したのは、任天堂のファミコン販売台数が100万台を突破してからで、福嶋社長は「この普及があってこそファミコンソフトビジネスは儲かると確信した」と述べている。1986年5月に発売した『ドラゴンクエスト』は、シナリオを堀井雄二氏、キャラクターデザインを鳥山明氏、音楽をすぎやまこういち氏、プログラムを中村光一氏のチュンソフトが担う分業で作られた。エニックス側の役どころは調整であった[13][14]

制作陣も社内の人事ではなく、社外の縁から集められている。堀井氏はコンテストの入賞者で、集英社『少年ジャンプ』の取材で福嶋社長に会ったところをそのまま誘われた。鳥山氏はその集英社から「パソコン好きの漫画家」として紹介され、すぎやま氏は売り出したソフトに同封したアンケートハガキを送り返してきた一人であった。1986年9月に設立されたスクウェアが社内に開発部門を抱えて『ファイナルファンタジー』を1987年に投入したのとは対照的に、エニックスは社外のつくり手を束ねる側に立ち続けた[15][16]

結果

80人で162億円という損益

このモデルは数字にはっきり表れた。1990年3月期の売上高は162億円、従業員は80人で、本社は新宿のビルの5階にあった。ソフトの企画・販売と出版、キャラクター商品を扱う会社としては、製造業の体裁をまったく取っていない。社内で動くプロジェクトチームはおよそ10で、福嶋社長は同年に年商200億円を目標として掲げ、「そろそろ、株式公開も考えるようになった」と語っている。株式は1991年2月に日本証券業協会の店頭登録銘柄となり、1999年8月には東京証券取引所市場第一部へ移った[17][18][19]

売れ行きも回を追って増えた。1986年5月の第1作は140万本、翌1987年1月の第2作は230万本、1988年2月に売り出した第3作は1本5900円で初日に250万本を完売し、発売日には万人単位の行列と恐喝事件まで起きた。第4作は発売から4カ月で400万本に届く勢いにあった。エニックスは1988年10月からぬいぐるみやノートなど約80種類のキャラクター商品を売り出し、その年商は12億円、攻略本などの出版物は18億円を売り上げている。使用権を貸して在庫の危険を負わない業界の慣行をあえて外し、キャラクター開発はすべて自社の管理下に置いた[20][21][22]

外に置いた開発が握れなくなるとき

弱みが表に出たのは2000年であった。『ドラゴンクエストVII』の発売が3度目の延期となり、決算期をまたいだためにソフトと攻略本、キャラクター商品を含む売り上げが当期から消え、エニックスは業績の大幅な下方修正に追い込まれた。福嶋社長は打ち合わせを毎週火曜日に置き、エニックスの担当者と委託先のゲームデザイナー・プログラマー・コンピューターグラフィックスの代表者を集めて日程をすり合わせていたと説明している。延期の理由はプログラミングが予定に間に合わなかったことであり、開発の現場は社外にあった[23][24]

福嶋社長自身、「ソフト1本の開発状況で業績が大きく振れてしまう会社が上場企業としてふさわしくないという批判も承知している」と語っている。固定費の軽さと引き換えに、発売日という最大の業績変数を社外の手に預ける形が残った。エニックスは2003年4月、内製の開発部門を抱えるスクウェアを吸収合併して社名をスクウェア・エニックスへ改め、社内に開発スタジオを持つ会社となる。プログラマーを一人も雇わずにファミコンソフトの最大手へ届いた経営は、創業から21年で幕を下ろした[25][26]

出典・参考

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