ハローキティの誕生と、自社キャラクターを版権で稼ぐライセンスモデルの確立
他社キャラクターの使用権を借りていた物販会社は、なぜ「かわいい」を自ら生み、版権を貸す側へ回れたのか
更新:
- 概要
- 1974年、前年に社名をサンリオへ改めた物販中心の同社が、社内デザイナーの手でハローキティを生み、自社キャラクターを商品に載せて売り、他社に使用を許すライセンス(版権)で稼ぐ収益モデルを確立した経営判断。1975年に最初の小物が売れ、1976年から自社キャラクターの版権供与を始めた。
- 背景
- 米国のスヌーピーの国内使用権を得て売れ行きを掴んだものの、独占ではなく一部商品の権利にとどまり、収益を自社で囲えなかった。辻信太郎は他社キャラクターに頼る限界を感じ、贈る心に値をつけるギフト事業を土台に、自前のキャラクターを持つ道を探った。
- 内容
- 制作室の20代女性社員が動物や人物を毎日描くなかからキティが生まれた。辻は当初「愛嬌もない」とみたが、試験的に置いた小物が予想を超えて売れた。テスト販売で売れ筋を選ぶ制作体制と問屋を通さない直販網を組み、1976年4月から他社への版権供与を始めた。
- 含意
- 在庫を抱えない版権収入の種がここで蒔かれた。1976年に年商196億円へ伸び、零細企業の分野だったキャラクター商品を企業化して軌道に乗せた。上場時点で売上の2%だった版権収入は、数十年をかけてサンリオの収益の中核へ育っていった。
借りる側から、貸す側へ
この判断の核心は、モノの機能ではなく「かわいい」という情緒に値をつけ、それを自社で生んだキャラクターに載せた点にある。米国のスヌーピーで得た手応えを、使用権を借りる側から自ら版権を貸す側へと裏返した。辻信太郎が愛嬌に乏しいとみた子猫が売れた事実は、どのデザインが当たるかを経営者が読み切れないことも示している。そこでサンリオは、テスト販売で売れ筋を選び直販網で運ぶ仕組みを組み、当たり外れを個人の勘でなく組織で吸収する形にした。生む力と選ぶ力と届ける力の三つを束ねたところに、この事業の性格がうかがえる。
もっとも、この選択は光と影をともに残した。在庫を抱えない版権収入は、上場した時点では売上の2%ほどにすぎなかったが、数十年をかけてサンリオの収益の中核へ育った。一方で、キティという一頭の当たりに収益が偏る弱さは、1990年代の財テク危機や2000年代の低迷を経て、2020年の「第二の創業」まで課題として残る。1974年に社内から生まれた一匹の白い子猫は、会社の原型を形づくると同時に、その原型をどう更新するかという問いも後の世代へ手渡した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
路上物販から出発した会社
サンリオは、1960年に辻信太郎が山梨県で設立した山梨シルクセンターを前身とする。県の特産だった絹製品の輸出を掲げたが、創業直後に不渡手形を掴んで資金が尽きた。辻は繁華街を歩き回るなかで露天商の物売りを目にし、百貨店の入口付近で雑貨を売る路上物販に活路を求めた。問屋価格と小売価格の差を取り込む物販で危機を越え、やがてギフト雑貨とグリーティングカードの企画販売へ事業の軸を移した。1973年4月に社名をサンリオへ改めるまで、同社は絹の物産会社から物販の企画会社へ姿を変えていた[1]。
贈る心に値をつけるという発想
辻信太郎は、商品の機能ではなく贈る行為そのものに値をつける事業をサンリオの核に据えた。安価なコップや文具でも、贈り手の気持ちが乗れば原価を超える価値が生まれるという発想で、少額のギフト=ソーシャル・コミュニケーション・ギフトを商いにした。この核を強めるには、載せるキャラクターの力が要る。同社は米国のスヌーピーの国内使用権を得て売れ行きを掴んだが、独占ではなく一部商品の権利にとどまり、収益を自社で囲えなかった。他社のキャラクターに頼る限界が、自前のキャラクターを求める動機になった[2]。
決断
社内で生まれた白い子猫
自社キャラクターは、制作室の20代の女性社員が毎日のように猫や熊を描くなかから生まれた。そのひとつが白い子猫のハローキティで、1974年に企画された。辻信太郎はこの子猫を前に首を傾げ、スヌーピーのようなとぼけた味も愛嬌もなく、単純な線で描かれた顔が前を向くだけで動きにも乏しいとみた。ところが試験的に小物へ付けて店に置くと、同時期の子熊のキャラクターより売れた。どのデザインが当たるかは、経営者にも読み切れなかった[3]。
版権で稼ぐ仕組みの設計
当たり外れを個人の勘に委ねず、組織で選び取る制作体制がキティの成功を支えた。サンリオはデザイナーとプランナーを各70人前後抱え、毎年2000件を超えるキャラクターを生んだ。社内で候補を絞ったうえで小売店のテスト販売にかけ、一週間ほどの売れ行きで需要を掴み、好成績の商品だけを本格販売に回した。全国に販売店を広げつつ問屋を通さない直販網で中間費を省き、生んだキャラクターを速く安く市場へ届けた[4]。
自前のキャラクターを持ったことで、サンリオは版権を借りる側から貸す側へ回れた。スヌーピーが輸入デザインだったのに対し、キティは自社で開発した資産である。1976年4月、同社は自社開発キャラクターを他社製品に使わせるライセンス供与を始めた。商品を作って売る物販に加え、キャラクターの使用を許してロイヤリティを得る事業を並べたことになる。在庫も開発費も負わずに収益を得る版権の道が、ここで物販と別の柱として立ち上がった[5][6]。
結果
年商200億への急成長
キャラクターを自ら生み、選び、直販で届ける組み合わせが、売上を短期間で押し上げた。1976年8月の日経ビジネスによれば、零細企業の分野だった少女向けのプレゼント商品を企業化した同社は、創立16年目に年間売上196億円・経常利益40億円へ達した。1973年7月期に18.6億円だった単体売上は、キティが売れた1975年7月期に91.5億円、1976年7月期に195億円へ伸びた。前例のないキャラクター商品という事業が、四年ほどで軌道に乗った[7]。
在庫を抱えない収益の種
辻信太郎は、キャラクターと版権を軸にした事業をさらに海外へ広げようとした。同社は米国に現地法人を持ち、キャラクター商品を本場の米国へ逆輸出する計画を立て、翌期の売上を350億円と見込んだ。少額のギフトという当初は大きな商いになりにくいとみられた分野を、辻はやり方次第で伸ばせると語った。1982年4月には東京証券取引所第2部に上場し、キャラクターの企画会社が資本市場から資金を集める道を開いた[8]。
- 日経ビジネス 1976年8月30日号「“小さな女心”つかみ年商200億」(日経マグロウヒル社)
- 日経ビジネス 1977年7月18日号「編集長インタビュー 辻信太郎 円高でも文化なら輸出できます」(日経マグロウヒル社)
- 『サンリオの奇跡 : 夢を追う男たち』(角川文庫, 1982年)
- サンリオ 有価証券報告書【沿革】