キリンHDドライ戦争敗勢下の反攻——フルライン戦略の挫折と「一番搾り」の投入

ラガーを守り抜くか、新しい看板を立てるか——シェア6割を失いつつあった「ガリバー」の防衛戦

時期 1990年3月
意思決定者(推定) 本山英世 社長
論点 主力ブランド戦略と首位防衛
概要
1987年発売のアサヒ「スーパードライ」に主力ラガーの牙城を侵食されたキリンビールが、1989年のフルライン戦略の挫折を経て、1990年3月に新ブランド「キリン一番搾り生ビール」を投入し、シェア急落の下げ止まりを図った経営判断。
背景
シェア6割を誇った首位企業が、ラガーという「永遠のドル箱商品」に安住する間にマーケティングの力を衰えさせ、わずか2年で10ポイントのシェアを失った。1989年には24年ぶりの50%割れが必至とされた。
内容
1989年に新商品4種を一斉投入するフルライン戦略で全方位の防衛を試みたが機能せず、1990年は一転してラガーと一番搾りの二枚看板へ絞り込んだ。一番搾り麦汁のみを使う製法をコスト増を承知で採り、通常価格で発売した。
含意
一番搾りの大ヒットで1990年のシェアは49.3%で下げ止まり、守勢は一時止まった。しかしラガー依存の構造と長期低落は変わらず、2001年にはビール・発泡酒合計シェアで首位の座をアサヒに明け渡した。
筆者の見解

全方位の防衛より、一点の集中——守る側の教訓

この判断の推移で目を引くのは、同じ経営陣が2年続けて正反対の答えを出したことである。1989年のフルライン戦略は、他社の主力すべてに対抗商品をぶつける全方位の防衛であり、守るべきものが最も多い首位企業にとって自然な発想であった。それが流通の混乱を招いて挫折し、翌年は一転して一番搾り1本への集中で成功した。全方位に構えるほど焦点は薄まり、絞るほど力が届くという対照は、攻める挑戦者ではなく守るガリバーの側から示された点で示唆に富むとみることができる。

同時に、この反攻には限界も刻まれている。一番搾りはラガーの否定ではなく、ラガーを温存したままの二枚看板であり、ドライが突きつけた市場の地殻変動そのものへの回答は先送りされた。シェア6割時代の生産体制と人員は残り、首位の座は11年後に失われた。ヒット商品は守勢を一時押しとどめても、構造は変えない。一方で、防衛戦の中から生まれた一番搾りは30年を超えて主力ブランドであり続けており、追い込まれてからの集中がかえって長寿の資産を生むことを、この決断は示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

ドライショック——2年で10ポイントを失ったガリバー

1987年にアサヒビールが発売した「スーパードライ」は、ビールの選択基準を一変させた。シェア6割を誇り「ガリバー型寡占企業の代表」と呼ばれたキリンビールは、わずか2年で10ポイントのシェアを失い、1989年には24年ぶりの50%割れが必至と報じられるところまで追い込まれた。同年初に起死回生を期して打ち出した新戦略も効果は限られ、下げ止まりの気配は見えなかった。首位企業の緩やかな後退ではなく、市場の構図そのものが短期間で塗り替わる急落であった[1]

日経ビジネスは1989年6月の特集で、この急落を「成功の復讐」と名付けた。敗因はドライへの対応策の誤りだけではない。ラガービールという「永遠のドル箱商品」に安住するうちに、消費者の多様化や競合の動きをつかむマーケティングの力が衰えていたという指摘であった。あまりの強さゆえに、内側の脆さを見落としていたことになる。守るべきものが最も大きい首位企業が、変化への感度を最も欠いていた[2]

ラガーの牙城と市場の地殻変動

キリンの苦境は、主力商品の強さと分かちがたく結びついていた。1988年度のビール市場では、熱処理のラガーが全体の36%に対し、ドライが34%、生(ドラフト)が26%を占め、味覚の主流はすでにラガーの外へ移っていた。そしてラガー市場の94.4%はキリンが握っていた。ラガーが縮めばキリンがそのまま縮む構造であり、他社が新市場で伸びるほど、首位企業だけが古い地盤とともに沈む力学が働いていた[3]

消費者の側の変化は、競合の目には明確に映っていた。アサヒビールの樋口廣太郎社長は、ラガーが枝豆とピーナッツの時代の味であり、肉中心の食生活で育った世代がアルコール人口に入っているのに同じ味の提案でよいのかという問題意識からスーパードライを生んだと語っていた。シェア6割の企業にとって主力の味を変える判断は既存顧客の離反リスクを伴い、「変えない」ことに合理性があった。その合理性こそが、市場の地殻変動への対応を遅らせた[4]

決断

フルライン戦略の賭けと挫折

キリンの最初の反攻は、全方位の防衛であった。1989年の新年早々、本山英世社長みずから農林水産省の記者クラブに出向き、「ファインピルスナー」「ファインモルト」「モルトドライ」「クール」の4商品を一斉に発表した。市場を味覚で4ジャンルに分け、他社の主力商品にそれぞれ対抗商品をぶつけるフルライン戦略であり、成長とガリバー型寡占の象徴であったラガーを、看板役者からワン・オブ・ゼムへ位置づけ直す決断でもあった。中埜専務(ビール事業本部長)は、ラガーだけにしがみついても他社に食われるので、それなら自分でかじろうという攻守両面の作戦だと説明していた[5]

しかし賭けは裏目に出た。短期間の多品種投入に酒販店は混乱し、銘柄名を覚えきれず色で注文を取る店まで現れた。1989年1〜5月の販売数量は前年同期比96.9%と純減し、同じ期間にアサヒは138.3%と伸びた。シェアは48.8%と、この5カ月間ですでに50%の大台を割っていた。新商品が伸び悩む一方、缶デザインを替えたラガーが意外に健闘し、脱ラガーを目論んだはずがそのラガーで持ちこたえるという皮肉な結果となった[6][7]

絞り込みへの転換——「一番搾り」の投入

1990年3月、キリンは会社の命運をかけた大型定番商品として「キリン一番搾り生ビール」を発売した。特色を競う変化球ではなく、キリンのイメージをしっかり持った最上の味の生ビールという正面からの設計で、最初に流れ出る一番搾り麦汁だけを使う製法を採った。二番搾り麦汁を使わないためコストアップは避けられなかったが、良いものを安く提供するのが責務だという考えにもとづき、通常価格での発売に踏み切った。防衛の軸を多品種の物量から単一ブランドの品質へ移す転換であった[8]

ブランドの絞り込みは、社内の合意形成を伴っていた。本山英世社長は後に、フルラインとして消費者に投げかけると自然に集約されていくとして、社内投票がラガーと一番搾りに集中したことを明かしている。マーケティングの体制も立て直した。1990年のCMに起用予定だった俳優の勝新太郎氏が直前に逮捕され、数億円をかけたCMがお蔵入りとなる打撃を受けたが、一番搾りでは緒方拳氏を起用した「ガンバレ日本」路線に切り替え、中身・ネーミング・ラベルデザインの三拍子にCMの好評が加わった[9][10]

結果

大ヒットと下げ止まり——「バーディー狙いでイーグル」

一番搾りは発売初年から大ヒットとなり、ビール事業は回復軌道に乗った。1990年の年間シェアは49.3%と、3年続いた急落がようやく下げ止まった。本山英世社長は1991年初の誌上で「今年こそ、シェア5割回復」と宣言し、同年の新商品を高価格の「プレミアム」1本にとどめて一番搾りを育てる方針を示した。一番搾りはホールインワンだと冷やかされるが、バーディー狙いでイーグルが出たものであり偶然の産物ではない、というのが本人の総括であった[11]

敗勢の3年間は、組織の型も変えた。単品大量販売の時代に階層的になりがちだった組織を、結果を重視するフラットな体制へ改め、営業拠点と人員を増やし、販売の現場へ権限を委ねた。本山社長はドライショックが変身の引き金だったことを考えるとアサヒに感謝すべきかもしれないとまで語り、地域ごとの戦況を積み上げてシェアを予測する独自の分析手法の開発など、試行錯誤で経営の技術が磨かれたことを敗勢の収穫に数えた[12]

止まらなかった長期低落と2001年の首位喪失

しかし、シェア5割の回復は実現しなかった。一番搾りが押しとどめたのは急落であって、低落の趨勢そのものではなかった。1990年代を通じてシェアの侵食は続き、1997年には工場従業員1人当たりの生産量がアサヒの6割、生産部門の人員は2.5倍という高コスト構造が公然と指摘されるに至った。ヒット商品による防衛の陰で、シェア6割時代に築いた生産体制と人員の重さが温存されていたことが、次の経営課題として浮かび上がった[13]

2001年、キリンはビール・発泡酒の合計シェアでアサヒビールに2.9ポイントの逆転を許し、48年間守り続けた業界首位の座から滑り落ちた。一番搾り投入から11年後の帰結であった。この間の防衛戦は、広島など4工場の閉鎖と発泡酒「麒麟淡麗〈生〉」への参入という佐藤安弘社長時代の構造改革に引き継がれ、一番搾り自体はラガーに代わる主力ブランドとして定着した。1990年の反攻は、首位喪失を食い止められなかった一方で、その後のキリンを支えるブランドを残した[14][15]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年6月19日号「キリンビール『成功の復讐』に悩むガリバー」
  • 日経ビジネス 1990年1月29日号「キリン、勝新起用の教訓」
  • 日経ビジネス 1991年2月11日号 編集長インタビュー 本山英世氏「今年こそ、シェア5割回復」
  • キリンホールディングス キリン歴史ミュージアム「商品ブランドの歴史:キリン一番搾り生ビール」
  • 日本経済新聞(1997年2月25日)「高コスト構造足かせ、過剰人員の削減不可避」
  • 週刊東洋経済 2002年2月16日号「戦略分析 キリンビール 酎ハイ、アジアにシフト 『王者』復活へ新機運」
  • 日経産業新聞(2004年2月20日)「佐藤キリン会長、前倒し退任」
  • 麒麟麦酒 会社年鑑(連結業績)

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