キリンHD麒麟麦酒、独禁法分割論下の拡販自制とビール外への多角化

勝ちすぎは許されるのか——シェア6割と企業分割論のはざまで、独走企業は成長の置き場所をどこに求めたか

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時期 1972年8月
意思決定者(推定) 高橋社長・佐藤保三郎専務ら経営首脳
論点 シェア抑制と多角化
概要
1970年代前半、国内ビールシェアが6割に達した麒麟麦酒が、公正取引委員会の監視と独禁法による企業分割論を背に、拡販の自制と洋酒・飲料・食品などビール外への多角化に針路を転じた経営判断。
背景
大日本麦酒の分割を免れた麒麟麦酒は家庭用市場を押さえ、1971年にシェア58.9%へ達した。公取委は管理価格の面でビール業界を「赤信号」とみて監視を強め、市場の過半を占める同社への風当たりが強まっていた。
内容
計画生産に沿って拡販を控え、値上げは最後尾、広告宣伝費は3社中最少に抑える売り方を貫く一方、シーグラムとの合弁で洋酒に進出し、清涼飲料・食品・ファインケミカルなどへ重点を移す多角化を決めた。
含意
1975年の「昭和50年度構造計画」でシェア拡大の自粛と第一次多角化が明文化され、「勝ちすぎない経営」が計画として定着した。飲料・食品から後年の医薬参入へつながる多角化は、この判断からはじまったといえる。
筆者の見解

「勝ちすぎの管理」という逆説の経営課題

この判断の核心は、競争の勝利を極限まで追わないという、通常の企業行動とは逆向きの選択を独走企業が自ら制度に組み込んだ点にある。同時代の資料からは、拡販の自制が受け身の萎縮ではなく、品質本位と代金回収の規律、慎重な設備投資という戦前来の体質の延長線上にあったことがうかがえる。分割論という外部圧力は、その体質を「勝ちすぎない経営」として明文化させる触媒になったとみることができる。なお、分割論への社内対応の具体的な経緯は本稿の資料からは確認できず、記録に残るのは販売の現場での自制と経営計画への反映までである。

多角化の初手となった洋酒は、その後も本業に並ぶ柱には育たなかった。それでも、飲料・食品からファインケミカルへ広げた1970年代の布石は、1980年代の医薬参入を経て、半世紀後にヘルスサイエンスを軸に据える事業構成へつながっていく。一方で、シェアを守ることを前提にした組織の運びが、1980年代末の市場変化への対応を鈍らせた面も指摘される。勝ちすぎた企業はどこで成長を探すのか——この問いを1970年代のうちに経営計画へ書き込んだ点に、この判断の射程の長さがうかがえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

分割を免れた独走体制

戦後ビール業界の構図は、1949年の過度経済力集中排除法から生まれた。戦前市場の7割以上を占めた大日本麦酒は日本麦酒(現サッポロ)と朝日麦酒に二分され、合同に加わっていなかった麒麟麦酒は分割を免れた。1950年のシェアはサッポロ37.0%・朝日33.5%・麒麟29.5%の3位であったが、5年後には麒麟36.8%で逆転し、1970年には市場の半分を超えた。1971年には麒麟58.9%、サッポロ22.1%、朝日14.9%、サントリー4.2%という色分けになっていた[1][2]

独走を支えたのは家庭用市場の掌握であった。戦前は業務用が需要の7割を占め、麒麟は家庭用にしか手を伸ばせなかったが、戦後のビールの大衆化と所得水準の上昇で構図が逆転し、1972年時点で需要の内訳は家庭向け70%・業務用30%に変わっていた。瓶ごと家庭に届く市場でキリンブランドは全国に浸透し、同時代の誌面で「10人のうち6人までがキリンを飲む」と評されるほどの定着ぶりを示した[3][4]

公取委の「赤信号」と分割論の風圧

シェアが6割に近づくにつれ、外からの風圧は強まった。公正取引委員会の幹部は、管理価格の面でビール業界を「赤信号」とみて監視体制をとると公言し、シェアのあまりの伸長ぶりに警戒を示した。流通の側にも、シェアが60%を超えればメーカーの流通支配が強まるとの懸念があった。トップのシェア独占は独禁法上ただちに問題ではないにせよ、自由競争に好ましくない傾向を生みかねないという見方が、同時代の誌面に繰り返し載っていた[5][6]

当事者もこの風当たりを認めていた。専務の佐藤保三郎氏は1971年4月の講演で、大瓶1本140円に固定された価格が「寡占による管理価格ではないか」と指摘されている状況に触れ、市場の半分以上を占める自社にはなおさら風当たりが強いと語った。市場の独占を理由とする会社分割の議論は、のちに独禁法改正をめぐって4年にわたり国会で審議されるまでに膨らんでいくことになる[7][8]

決断

「拡販は控える」——計画生産と自制の売り方

1972年夏、追い上げる3社が生ビールや缶入りで販売攻勢を強めるなかで、麒麟麦酒の応対は抑制的であった。城殿鎮治常務は、需要が予想以上に伸びても計画生産に沿って販売し、拡販は控えると明言した。全体の消費が増えた分は他社に回るという言い方は、シェアを追わないという宣言でもあった。広告宣伝費も3社中で最も少なく、サッポロ32億円・朝日30億円に対し麒麟は24億円にとどまり、その低位は数年来続いていた[9][10]

自制は価格と設備投資にも及んだ。1970年10月の値上げでは、麒麟が一番最後に踏み切るまで駆け込み需要が集中し、同社は出荷を一時停止した。設備投資について佐藤専務は、岡山工場の新設などを、シェア拡大のためではなく品切れで消費者に迷惑をかけないための最低限の供給能力の確保と説明していた。売り急がず代金回収を優先する堅実販売の規律は、戦後の物資欠乏期から続く同社の体質でもあった[11][12]

ビールの外へ——シーグラム提携と多角化の決断

抑制と並行して、成長の置き場所をビールの外に求める決断が進んでいた。佐藤専務は1971年の講演で、3年ほど前から10年、15年先を考えてビール以外の分野への進出と経営多角化の推進を決めていたと明かし、米シーグラム社との提携覚書の締結を認めた。多角化は洋酒で完了するものではなく、従来からつながりのある食品・飲料、さらにビール粕や酵母といった副産物の利用にまで広げる構想であった[13][14]

同時代の誌面も、シェア問題への「解答」を多角化に求める構えと読み解いた。シーグラム社と提携するウイスキー分野への進出に加え、清涼飲料水、ファインケミカル、他の食品業種へ重点を移す計画が伝えられた。高橋社長はウイスキー進出を20〜30年を目標にした長期事業と位置づけ、今後の課題は基本方針の堅実性と積極戦略をどう調整するかにあると語り、独走の代償と向き合う考えを示した[15][16]

結果

キリン・シーグラム設立から「構造計画」へ

多角化の初手は洋酒で形になった。麒麟麦酒は1971年にシーグラムとの業務提携で「シーグラムセブンクラウン」などの輸入洋酒販売を始め、1972年8月3日にはジョセフ・E・シーグラム・アンド・サンズ、シーバス・ブラザーズとの3社合弁でキリン・シーグラム(現キリンディスティラリー)を設立した。静岡県御殿場市に蒸溜工場を建設し、1974年にはシーバス社の原酒をブレンドした国産ウイスキー第1号「ロバートブラウン」を発売した[17][18]

一方、分割論の圧力は判断のあとも続いた。市場独占への懸念は独禁法改正論議と結びつき、シェア問題は4年にわたり国会で審議された。麒麟麦酒は1975年に「昭和50年度構造計画」を発表し、シェア拡大の自粛、設備投資の抑制、第一次多角化という安定成長の方針に「社会的責任の遂行」を並べて掲げた。販売現場の自制にとどまっていた独走への対処は、ここで明文化された経営計画に格上げされた[19]

出典・参考

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