カシオ計算機個人向け電卓「カシオミニ」の12,800円での発売
事務用の高級機か、一家に一台の日用品か——電卓の常識をどう壊したか
- 概要
- 1972年8月、カシオは表示を6桁に絞った個人向け電卓「カシオミニ」を12,800円で発売し、事務用が中心だった電卓を家庭でも買える日用品へ変えて、パーソナル電卓の市場を切り開いた経営判断。
- 背景
- 電卓は8桁以上の事務用で価格は3万円以上というのが常識で、後発の参入が相次いで価格競争が激しかった。カシオは新しいものをつくって売るのではなく、利用者の求める商品で需要そのものを掘り起こす路線を掲げていた。
- 内容
- 機能を6桁に割り切り、特注のLSIで原価を下げて1万円台を実現した。「おもちゃみたいな電卓」との社内外の批判を押し切り、学生・サラリーマン・主婦までを対象に、ソロバンに代わる日用品として売り出した。
- 含意
- 減益を受け入れてでも価格を下げて需要を起こす路線がここで定着し、以後の電子腕時計や電子楽器へと続く需要創造型モデルの基軸となった。
値段を下げて、まだない需要を起こす
カシオミニの判断は、既存の電卓を安く売る値下げ競争とは性格が異なっていた。表示を6桁に絞るという機能の割り切りと、特注LSIによる原価づくりを組み合わせ、事務所ではなく家庭という買い手を新たに立ち上げた点に核心がある。奪い合いになりがちな市場で、まだ電卓を持たない層へ商品を届けて需要そのものを起こすという発想は、後発でも市場を取るための一つの型であったとみることができる。
その代償として、価格の王道は減益と隣り合わせであり続けた。安さを競う限り利幅は薄くなり、モデルの切り替えと原価の管理を絶えず求められる事業でもあった。それでもこの選択が意味を持ったのは、量産で鍛えた半導体の調達力が、電卓の枠を越えて時計や楽器へと生き続けたためであった。価格で需要を起こし、その規模を技術の厚みに変えるという循環を、カシオはこの一台で自らのものにしたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
価格が下がり続ける電卓市場
電卓は1965年ごろに日本で生まれ、以後は毎年およそ3割の割合で価格が下がっていった。全企業の出荷額は1967年の109億円から1970年には1180億円へと三年あまりで十倍を超え、後発メーカーの参入が相次いで技術と価格の競争が激しくなった。かつて40万円近くした計算機が、同じ機能でその10分の1の水準まで下がり、大企業しか買えなかった商品が中小企業にも手が届くようになっていた。値段を下げれば需要が広がり、広がった数量がさらにコストを下げるという循環が働いていた[1][2]。
樫尾忠雄氏は、この市場でのカシオの立ち位置を、新製品を出せば売れるという発想とは切り離して語った。求めたのは、どうすれば社会に役立つか、利用者が何を望み、どのような商品なら多くの人に使ってもらえるかという問いであった。事務用の高級機を各社が競う一方で、まだ電卓を持たない広い層に手が届く商品をつくれば、奪い合いではない需要を自ら起こせるという読みがそこにあった[3]。
決断
6桁・12,800円という割り切り
1972年8月、カシオは「カシオミニ」を12,800円で発売した。表示を6桁に絞って機能を割り切り、特注したLSIで原価を抑えることで、8桁以上・3万円以上という事務用の常識を大きく下回る価格を実現した。狙った買い手は学生・サラリーマン・外交員・主婦と広く、ソロバンの代わりに一人ひとりが持つ道具として売り出した。必要としている人に製品を届けるのがメーカーの使命だという考えのもと、家庭向けという未開の層へ正面から入っていく商品であった[4]。
この価格には、社内外から厳しい声が向けられた。業界からは、なぜ市場を混乱させる価格で出すのかという批判が寄せられ、「5万円以下の電卓を市販するなんて、まったくメチャクチャですわ[6]」と同業者が反発したとも伝えられる。技術を売り物にしてきた会社が安物を売るのかという見方に対し、樫尾社長は、これは決しておもちゃではなく需要にかなった高品質の製品だと反論した。批判を承知のうえで押し切ったところに、この決断の性格があらわれている[5]。
結果
一家に一台の需要と傷だらけの王座
発売後の反応は計画を大きく上回った。当初見込んだ月産5万台では追いつかず、年内に50万台を届けよという注文も入り、月産20万台超を求められる状況になった。樫尾社長は、3000万世帯のうち2〜3割が買えばきわめて大きな需要になると見て、テレビのように一家に行き渡る商品像を描いた。日経ビジネスによれば、当時の常識を破った12,800円のカシオミニは、わずか1年半で200万台を超えるベストセラーとなり、後に続く電卓ブームの口火となった[7]。
もっとも、この地位は減益と背中合わせであった。日経ビジネスは、電卓を価格競争が冷徹に働くマスセール型の商品ととらえ、カシオが「つねに他社よりも安いものを」という価格政策の王道を実践してトップに立ったと記す一方、その道が王者らしからぬ減益体質を取り込む過程でもあったと書いた。それでもカシオは、電卓と時計を大量に発注する立場を生かして特注LSIを持ち続け、この技術基盤が電子腕時計や電子楽器といった異種の商品への展開を支えていった[8][9]。
- 証券アナリストジャーナル(1972年10月) 樫尾忠雄
- 日経ビジネス 1975年4月14日号
- 日経ビジネス 1979年10月8日号
- 実業往来(1971年9月)
- カシオ計算機 会社年鑑(1976年版)