世界初の小型純電気式計算機「14-A」の商品化とカシオ計算機の設立
部品下請けの町工場は、なぜ7年をかけて自前の計算機開発に賭けたのか
更新:
- 概要
- 1957年6月、樫尾忠雄氏ら樫尾4兄弟が、7年におよぶ開発を経て小型の純電気式計算機「14-A」を商品化し、これを製造・販売するためにカシオ計算機を設立した経営判断。部品加工の下請けだった町工場が、自前の計算機で製造業へ転じた。
- 背景
- 戦後の樫尾製作所は機械部品の加工で生計を立てる町工場で、計算機は手回しの機械式か大型の電気式が主流であった。事務机に置ける小型機を国産技術でつくろうと、忠雄氏ら4兄弟が本業のかたわら開発に取り組んだ。
- 内容
- 継電器(リレー)を組み合わせた電気回路で四則演算をこなす小型機を完成させ、1957年6月に「14-A」として商品化した。同月にカシオ計算機を設立し、忠雄氏が財務、俊雄氏が開発、和雄氏が営業、幸雄氏が製造を分担する体制を敷いた。
- 含意
- 既存の機械式を改良するのではなく、電気式という新しい計算手段を自前の技術で立ち上げた選択は、のちの電卓・時計・楽器へと広がる需要創造型の事業の原点となった。
何を持つ会社になるかを、創業時に決めた
この会社設立の核心は、既存の機械式計算機の改良ではなく、継電器という電気部品だけで計算をこなす小型機を、自前の技術で立ち上げた点にある。下請け加工で日銭を稼ぎながら、夜なべの開発に7年を費やした四兄弟の選択は、注文を受けて他社の設計どおりに作る立場から、何を作るかを自分で決める立場への移り方であった。発明・生産・販売・経理を一族で分け持つ体制は、以後の意思決定の速さを支える土台にもなったとみられる。
もっとも、14-Aで築いたリレー式の優位は長くは続かず、電子式への波が数年のうちに押し寄せた。それでも同社が首位企業へ伸びたのは、技術の世代交代を自ら早めに引き受けたためであった。機械式の改良にとどまらず新しい計算手段を持つという創業時の選択は、電卓の低価格化、さらに時計や楽器への展開へと引き継がれていく。何を持つ会社になるかを創業の時点で選び取った点に、この判断の意味がうかがえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
部品下請けの町工場と国産計算機への着手
カシオ計算機の母体は、樫尾忠雄氏が1946年に東京都三鷹市で興した樫尾製作所であった。機械部品の加工を請け負う小さな町工場で、忠雄氏が旋盤を回して生計を立て、そこへ弟の俊雄氏・和雄氏・幸雄氏が加わっていた。俊雄氏は発明家をこころざす技術者で、昼は下請けの加工をこなし、夜になると兄弟で自分たちの製品づくりに向かった。販売を商社に頼るしかない下請けの立場から抜け出し、自分たちの名で売れる独自の商品を持ちたいという思いが、計算機という一点に絞り込まれていった[1]。
当時の計算機は、歯車を手で回す機械式か、部屋を占める大型の電気式が中心で、事務机の上に置ける小型機はまだ普及していなかった。四兄弟は「外国製に負けない、日本の技術で理想的な計算機を作ろう」と誓い、継電器(リレー)を使う方式で開発を進めた。俊雄氏が回路を設計し、忠雄氏がその図面をもとに部品を加工するという役割で、試作は一歩ずつ進んだものの、完成にはなお時間を要した[2]。
決断
7年の開発と純電気式「14-A」の完成
開発の担い手は明確に分かれていた。俊雄氏が計算の仕組みを設計し、その図面を見ながら忠雄氏が部品を作り、幸雄氏が耐久性を上げる工夫を重ねた。1956年に試作機が仕上がったが、札幌での発表会では機械が動かず失敗に終わった。それでも取引先の内田洋行が支援に名乗り出たことで開発は加速し、翌年に実用の水準へ達した。機械式でも真空管式でもなく、継電器を組み合わせた電気回路だけで四則演算をこなす小型機として、これは世界初の純電気式計算機と呼ばれた[3]。
1957年6月、リレー式の計算機は「14-A」として商品化にこぎ着けた。四兄弟は同じ月にカシオ計算機を設立し、これを製造・販売する会社の骨格を定めた。長男の忠雄氏が財務、次男の俊雄氏が開発、三男の和雄氏が営業、四男の幸雄氏が製造をそれぞれ受け持ち、発明・生産・販売・経理を一族で分担する形をとった。同年11月に東京で開いた発表会では機械が軽快に動いて成功を収め、札幌での失敗を乗り越えた製品の完成度を世に示した。下請けの町工場から、自社製品を設計して量産・販売する製造業への転換が、この会社設立で形をとった[4][5][6]。
結果
計算機ブームと電子式への移行
14-Aは、340個の継電器を収めて重さ140キログラムにおよぶ据え置き型の計算機であった。カシオはこれを足がかりに、国産で唯一のリレー計算機メーカーとして市場を広げていった。1960年には東京都東大和市に東京工場を建てて量産の体制を整え、拡大する事務需要を取り込んだ。樫尾忠雄氏はのちに、この時期を計算機事業の出発点として振り返っている[7]。
転機は技術の世代交代であった。1964年にシャープが電子式計算機を発売すると、忠雄氏はビジネスショウで各社の電子式機のコンパクトさを目にし、背中に冷水を浴びせられたほどの衝撃を受けたと記している。カシオは翌1965年に電子式卓上計算機を出し、リレー式から電子式への切り替えを自ら進めた。20人で発足した会社は電卓ブームに乗り、1975年には従業員2000人・売上430億円規模の電卓業界の首位企業へ育っていった[8][9]。
- カシオ計算機公式サイト「樫尾四兄弟」(https://www.casio.co.jp/company/brothers/)
- カシオ計算機 有価証券報告書 第69期(2025年3月期)【沿革】
- 証券アナリストジャーナル(1972年10月)「独創技術開発とリーダーの使命」樫尾忠雄
- 日経ビジネス 1975年4月14日号「安値電卓でつかんだ傷だらけの王座」
- 日本経済新聞「私の履歴書」(1991年8月23日・樫尾忠雄)
- 私の履歴書 経済人 第28巻(日本経済新聞社)