カシオ計算機カシオ計算機創業——三鷹の下請け町工場から世界初の小型純電気式計算機14-Aへ

下請けでは将来がないと見た長男・樫尾忠雄 氏と逓信省を退いた次男ら四兄弟は、約8年がかりのリレー式計算機開発をどう世界初の小型計算機14-Aの事業化に結びつけたか

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時期 1946年4月
意思決定者 樫尾忠雄 氏(創業者・長男、経営と資金調達)ほか、樫尾俊雄 氏(次男・技術開発)・樫尾和雄 氏(三男・営業)・樫尾幸雄 氏 四男・生産
論点 独創的な計算機の事業化(下請け町工場からの脱却)
概要
1946年4月、樫尾忠雄 氏が東京都三鷹市に下請け町工場・樫尾製作所を興し、逓信省を退いた次男の俊雄 氏、役所勤めの三男・和雄 氏、教員の四男・幸雄 氏が順次合流した。顕微鏡部品や歯車の下請けでは将来がないと見た四兄弟は、1949年から約8年をかけてリレー式計算機を開発し、1956年に14桁の四則演算機を完成させる。1957年6月に資本金20万円でカシオ計算機を設立し、同年11月に世界初の小型純電気式計算機14-Aを製品化した。
背景
戦後の物資不足のなか、樫尾製作所は顕微鏡のボディ加工や歯車の下請けで生計を立てていたが、手間賃仕事を重ねても暮らしは楽にならなかった。逓信省を退官した次男・俊雄 氏が家庭用電熱器や自転車発電ランプを試作したものの、大手の量産品と価格で競えず事業化に至らない。1949年に銀座の第1回ビジネスショウで外国製の電動計算機を目にした俊雄 氏は、電気回路ですべてを処理するリレー式計算機の開発を志し、独創的な商品でなければ零細企業に飛躍はないという見方を固めた。
内容
四兄弟は勤めを辞めて工場に集まり、忠雄 氏の下請け収入と父・茂 氏の給料を開発費に充てた。三鷹工業組合の連帯保証で商工中金が資金を出し、家族内部の資金と地縁の信用が約8年の開発を支えた。1954年の試作機は事務機商社に酷評されたが、約2年の改良を経て1956年にリレー素子341個の14桁機が完成する。1957年11月発表の14-Aは連剰計算をリレー方式で処理し、一介の町工場が実用機を製品化した事実は業界に衝撃を与えた。
含意
経営と資金を担う忠雄 氏、技術開発の俊雄 氏、営業の和雄 氏、生産の幸雄 氏という四兄弟の分業が、量産期にかけて定着した。外部から集めるほかない経営・開発・営業・生産の機能を血縁の信頼で束ねた体制が、開発の長期化と急な量産化を同時に支えている。1960年の大和工場完成で従業員は1964年に500人を超え、シャープの電子式発売を受けて翌年に電子式001で追撃し、1970年9月の東証2部上場につながる基盤を初期十数年で築いた。
筆者の見解

四兄弟が分けた仕事と独自製品の重み

この創業が示すのは、手間賃の下請けに甘んじず独自製品へ向かった選択の重みである。顕微鏡部品や歯車の加工では暮らしが楽にならないという実感から、四兄弟は約8年をかけてリレー式計算機を作り上げ、酷評や資金難をしのぎながら14-Aの製品化にこぎ着けた。現場の下請けで得た資金と技術を独自製品の開発へ注ぎ込んだ積み重ねが、無名の町工場を計算機メーカーへ押し上げていったとみられる。

もう一つ見えてくるのは、経営・開発・営業・生産という会社の主要機能を、四兄弟という血縁の内側で分け合った体制の意味である。外部から人材を集める資力に乏しい零細企業にとって、性格と前職に応じて役割が自然に定まった兄弟の分業は、開発の長期化と急な量産化を同時に支える枠組みになっていたと読める。独自製品でなければ飛躍はないという創業期の見立てが、のちの電子式への転換や海外展開を貫く判断の下地になっていったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

三鷹の下請け町工場と独自商品の模索

1946年4月、樫尾忠雄 氏は東京都三鷹市に樫尾製作所を設立した[1]。顕微鏡のボディ加工や歯車の下請けで生計を立てる町工場で、従業員は家族を含めて数名にすぎなかった。戦後の物資不足のなか手間賃の安い仕事を重ねても暮らしは楽にならず、下請けでは事業の将来に限りがあると忠雄 氏は感じていた。やがて逓信省を退官した次男の樫尾俊雄 氏が工場に合流し、家庭用電熱器や自転車の発電ランプなど自前商品の試作に乗り出している[2]

試作した自前商品は、いずれも大手の量産品と価格で競うことができず、事業化には至らなかった。1949年、東京・銀座で開かれた第1回ビジネスショウで外国製の電動計算機を目にした俊雄 氏は、機械式の歯車ではなく電気回路ですべてを処理すれば、小型化と静粛性を同時に実現できると考え、リレー式計算機の開発を決意した[3]。独創的な商品でなければ零細な町工場に飛躍の余地はないという見方が、この時期に兄弟のあいだで固まっていった。

決断

四兄弟の集結と約8年の開発

1949年に開発が始まると、役所勤めの三男・樫尾和雄 氏と教員だった四男・樫尾幸雄 氏も勤めを辞めて工場に集まり、四兄弟が計算機の開発に取り組む体制が整った[4]。忠雄 氏は弟たちを今のままのほうがよいと引き止めたものの、翻意しない三人の決断を受け入れている。成功の保証がない試作品に融資する銀行はなく、資金調達を担う忠雄 氏は行く先々で断られ続けた。最終的に三鷹工業組合が連帯保証人となり、商工中金が開発資金の融資に応じている[5]

1954年に最初の試作機が完成し、事務機商社へ持ち込んだが、連剰機能を欠いた欠陥計算機と酷評された[6]。忠雄 氏は当時を振り返り、開発を続ける重圧のなかで「弟たちの一生を狂わしたのではないか」(日経ビジネス 380号 1984/7/9)という思いが頭をよぎったと述べている[7]。約2年の改良を重ねた末、1956年にリレー素子341個で14桁の四則演算を実現する小型機が完成した[8]。無名の町工場が独自製品を手にするまでに、開発着手から7年が経っていた。

カシオ計算機の設立と14-A

1957年6月、四兄弟は東京都武蔵野市に資本金20万円・従業員20名でカシオ計算機株式会社を設立した[9]。社長には父の樫尾茂 氏が就き、長男の忠雄 氏が専務として経営を統括している。同年11月、会社は世界初の小型純電気式計算機として14-Aを発表した[10]。歯車を用いる従来の電動計算機が苦手としていた連剰計算を、リレー方式で精密に処理する仕組みで、事務机の上に置ける純電気式の小型機を実現している。

一介の町工場が実用機を製品化したという事実は、電動計算機が主流だった業界に衝撃を与えた。14-Aは1958年に東京都発明展へ出品され、科学技術庁長官賞を受けている[11]。もっとも注文の立ち上がりは緩やかで、初年度は19台、翌年も124台にとどまった[12]。それでも、下請けの手間賃仕事から独自製品の開発へと事業の性格を変えたこの選択が、その後のカシオの歩みを方向づけている。

結果

量産化と四兄弟の分業

1960年、東京都東大和市に大和工場が完成し、14-A以降の量産体制が整った[13]。設立時に20名だった従業員は、量産化と受注の増加を背景に1964年には500人を超えている。この時期に、経営と資金繰りを担う忠雄 氏、技術開発に没頭する俊雄 氏、営業の最前線に立つ和雄 氏、生産を統括する幸雄 氏という四兄弟の分業が定着した[14]。通常なら外部から集めるほかない経営・開発・営業・生産の各機能を、血縁の信頼で束ねた点に、初期のカシオの特徴があった。

量産化を進めるさなか、カシオはリレー式の主力を脅かす技術転換に直面した。1964年7月、シャープが世界初の電子式卓上計算機を発売する[15]。少し前のビジネスショウで各社の電子式計算機を目にしていた忠雄 氏は、そのときの衝撃を「背中に冷水を浴びせられた気持ちだった」(日本経済新聞 私の履歴書 1991/08/23)と述懐している[16]。忠雄 氏は開発投資を前倒しし、翌1965年9月にカシオ初の電子式卓上計算機001を発売して、リレー式から電子式への世代交代を自社の手で進めた[17]

株式公開へ

量産投資と運転資金の需要が膨らむなか、カシオは株式公開に踏み切った。1970年9月、東京証券取引所市場第二部に上場し、初値は公募価格を140円上回る630円をつけている[18]。1972年8月には東証一部へ指定替となり、設立から15年で一部上場企業の一角に加わった[19]。下請けの手間賃仕事から始まった会社が、独自製品を土台に外部資本を受け入れる公開企業へと姿を変えている。

上場によって得た資金は、電子式計算機の量産と拠点整備に振り向けられた。1970年に米国、1972年に西ドイツへ販売拠点を設け、1973年には東京都八王子市に量産工場を新設している[20]。家族数名の下請け工場から出発した会社は、法人化からおよそ十数年で、国内外に販路を持つ計算機の量産メーカーへと育った[21]。下請けでは将来がないという創業期の判断が、独自製品による市場開拓という道筋のまま貫かれている。

出典・参考
  • 有価証券報告書(沿革)
  • 日本経済新聞 私の履歴書 1991/08/23
  • 日経ビジネス 380号 1984/7/9
  • 日経ビジネス 1980/06/02
  • 月刊経済 1975/01

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