ソニーソニー創業——井深大と盛田昭夫が資本金19万円で興した「理想工場」

焼け跡の百貨店3階に集った20人は、無名の技術ベンチャーをどう立ち上げ、大手に伍したか

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時期 1946年5月
意思決定者 井深大 氏・盛田昭夫 氏 東京通信工業 創業者・専務・東京通信工業 取締役
論点 戦後ベンチャーの創業と事業基盤の確立
概要
1946年5月、元海軍技術者の井深大 氏と海軍研究で知己を得た盛田昭夫 氏が、東京・日本橋の白木屋百貨店3階を間借りした作業場で、資本金19万円・従業員20人余りの東京通信工業株式会社を設立した創業。元文部大臣・前田多門 氏を初代社長に据え、設立趣意書に技術者が思いきり働ける理想工場の建設を掲げた。
背景
終戦で軍需が一夜にして消え、井深 氏は疎開先で旧日本測定器の技術陣を解散した。焼け残った百貨店の一隅で東京通信研究所を発足させた井深 氏には、戦中から民生用のコンシューマー・プロダクトを手がけるという構想があった。
内容
運輸省・逓信省への納入を足場に法人化し、井深 氏を専務、盛田 氏を取締役として船出した。1950年には安立電気・日本電気から高周波バイアス法の特許を25万円で取得し、日本初のテープレコーダーG型を発売、1960年の特許失効まで大手のテープレコーダー市場参入を封じた。
含意
技術者・井深 氏、事業家・盛田 氏、名望家・前田 氏と万代 氏の信用という三層の組み合わせが、無名のベンチャーを立ち上げた。特許による法的な参入障壁を最初の武器にした型が、のちのトランジスタラジオと自社ブランドSONYによる世界進出の土台となった。
筆者の見解

三層の組み合わせと、特許という最初の盾

この創業を可能にしたのは、一つの技術ではなく、異なる持ち味を束ねた組み合わせであった。民生用エレクトロニクスを志向した技術者・井深 氏、その構想を市場につなぐ事業家・盛田 氏、そして無名のベンチャーに信用を貸した名望家・前田 氏と万代 氏——このいずれを欠いても、焼け跡の20人が大手に伍する会社は組み上がらなかったとみられる。若い技術と老練な信用を接ぎ木した布陣が、戦後ベンチャーの離陸を支えていた。

もう一つ見落とせないのは、同社が最初に握った武器が技術力そのものではなく、特許という法的な参入障壁であった点である。高周波バイアス法の特許で大手を10年退けた経験は、優れた発明を持つだけでは市場を守り切れないという、技術ベンチャーが繰り返し直面する現実を早くに映していたといえる。設立趣意書に掲げた技術者の理想工場という理念と、それを市場で成り立たせる算段——両者をどう両立させるかという問いは、トランジスタラジオからその先へと事業が広がってもなお、同社に残り続けたとみることができる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

軍需の消失と焼け跡の東京通信研究所

井深大 氏は1908年に栃木県日光で生まれ、1933年に早稲田大学理工学部を卒業して写真化学研究所に入り、日本光音工業を経て、戦時中は自ら設立した日本測定器株式会社で陸海軍向けの精密測定器を生産していた。空襲の激化に伴い同社は長野県須坂へ疎開して終戦を迎えたが、軍需は一夜で消え、井深 氏は技術陣を解散した。1945年10月、井深 氏は旧日本測定器の同志およそ20人とともに上京し、戦災で焼け残った東京・日本橋の白木屋百貨店の一隅を間借りして東京通信研究所を発足させた[1]

焼け跡の研究所には、戦中から温めた一つの構想があった。井深 氏は後年、「この戦争が終わり、もし生き残って新しい仕事が始められるなら、その時こそ一般の大勢の人々を相手にしたコンシューマー・プロダクトをやろう、民生用の仕事をやろう[2]」(井深大の世界 1993)と振り返っている。軍需に依存した測定器づくりから、大勢の消費者へ向けた民生用エレクトロニクスへ——敗戦で仕事を失った技術者が抱いた転換の意思が、白木屋3階の作業場を単なる糊口の場ではなく理念の出発点にしていた。

盛田昭夫の合流と名望家という信用

盛田昭夫 氏は1921年に愛知県常滑の造り酒屋・盛田家の長男として生まれ、大阪帝国大学理学部物理学科を卒業して海軍技術中尉に任官した。海軍技術研究所の熱線誘導兵器の研究班で井深 氏と共同研究を行った縁が、二人を早くから結びつけていた。終戦後、井深 氏が研究所を興したことを新聞で知った盛田 氏は、家業の酒造を継ぐか新事業に賭けるかを父・盛田久左衛門 氏に相談し、その了解を得て上京した[3]。造り酒屋・盛田家の家産が、初期の資本を支える一つの供給源となった。

無名のベンチャーは、政財界の名望を借りて信用を補った。1946年5月の設立にあたり、井深 氏の岳父で公職追放下にあった元文部大臣・前田多門 氏を初代社長に、帝国銀行元頭取の万代順四郎 氏を相談役に迎えている[4]。技術と若さを担う井深 氏・盛田 氏を、前田 氏と万代 氏の名望が後ろから支える布陣であった。NHKの放送設備修理や逓信省からの受注を取り付けられたのも、この信用の裏打ちによるところが大きかった。

決断

資本金19万円・従業員20人の船出

東京通信研究所の測定器が運輸省や逓信省に採用されて受注が伸び、これを足場に法人化へと進んだ[5]。1946年5月、盛田昭夫 氏も加わって資本金19万円・従業員20人余りで東京通信工業株式会社を設立している[6]。井深 氏が専務、盛田 氏が取締役として経営の実務を担い、前田 氏を戴く体制で船出した。焼け跡の一隅に集った20人余りの零細な陣容が、のちのソニーの出発点であった。

設立にあたり井深 氏が起草した設立趣意書は、事業の目的を利得ではなく技術者の働く場そのものに置いていた。趣意書には「技術者達ガ技術スル事ニ深イ喜ビヲ感ジ、ソノ社会的使命ヲ自覚シテ思イキリ働ケル安定シタ職場ヲコシラエル[7]」と記されている。真面目な技術者がその技能を最高度に発揮できる自由闊達で愉快な理想工場という理念は、その後の同社の製品づくりを貫く基調となっていった。

特許という参入障壁——テープレコーダーG型

創業直後の同社は、真空管電圧計などの測定器で日銭を稼いでいた。井深 氏が次の柱に選んだのは、大手が手を出さず、自社の技術を生かせる商品としてのテープレコーダーであった。「同社は、最初真空管電圧計などを作っていたが、大衆商品で他社がやらず、しかも自社の得意の技術を生かせるものをやろうということになり、それまで国内ではまったく手がかりのなかったテープレコーダーの開発をとりあげた[8]」と、後年の社史は伝えている。磁性粉末の塗布に難渋しながらも、1949年には磁気テープと録音機の試作にこぎ着けている。

1950年、井深 氏は安立電気と日本電気(NEC)が保有していた高周波バイアス法の特許を25万円で買い取り、同年7月に日本初の磁気テープレコーダーG型を売り出した[9]。重量45キロ・価格16万8000円の業務用機として、裁判所の速記室や学校へ販路を広げた製品であった。この特許は1960年まで有効で、東芝・日立・松下電器のテープレコーダー市場への参入を、10年にわたって法的に封じ続けた。無名の町工場が大手に伍する最初の武器は、技術そのものではなく、特許という参入障壁であった。

結果

特許の盾の下で急成長した町工場

特許という盾の下で、零細な町工場は急速に規模を拡げた。テープレコーダーの量産に対応して1951年には資本金を増やし、本社工場の隣接地を取得している。手狭になった白木屋の作業場からは、すでに1947年2月に品川区御殿山へ本社を移し、以後の本社工場の核となる拠点を構えていた[10]。焼け跡の間借りから始まった事業は、戦後復興の波に乗って足場を固めていった。

1959年8月、読売新聞は同社を戦後ベンチャーの代表として取り上げた。「中小企業のチャンピオン・技術革新の波にのったソニー」と題した記事は、「同社は13年前、どこにでもある小さな町工場から、いま従業員2000人を数える会社にのしあがった[11]」と伝えている。この間、井深 氏は1954年にウェスタン・エレクトリックからトランジスタ製造特許を導入し、1955年に日本初のトランジスタラジオを世に出していた。1958年1月には漢字の社名を捨てて「ソニー株式会社」へ改め、同年12月に東京証券取引所へ上場、1961年には日本企業として初のADRを米国で発行している[12]

出典・参考
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編, 1968)
  • 井深大の世界(1993)
  • 盛田昭夫『MADE IN JAPAN わが体験的国際戦略』(朝日新聞社, 1987)
  • 読売新聞 1959年8月23日「中小企業のチャンピオン・技術革新の波にのったソニー」
  • ソニーグループ 有価証券報告書 第108期(2025年3月期)【沿革】

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