焼野原の神戸でスポーツシューズ専業に賭けた鬼塚商会の創業

靴の「ク」の字も知らなかった兵隊帰りは、なぜ青少年のための靴づくりに生涯を賭けたのか

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時期 1949年3月
意思決定者 鬼塚喜八郎 社長
論点 創業の動機と製品の独自性
概要
1949年3月、鬼塚喜八郎氏が神戸でゴム履物問屋として鬼塚商会を起こし、翌年にはスポーツシューズ専門メーカーへ脱皮した創業。タコの吸盤に着想した吸着ソールのバスケットボールシューズを軸に、のちのオニツカ・アシックスへ連なる事業の土台を築いた。
背景
空襲で焼野原となった神戸では身寄りを失った青少年がすさんだ暮らしのなかにあり、陸軍時代の先輩・堀公平氏に「靴屋になれ、青少年がスポーツに打ち込めるよい靴をつくれ」と勧められた鬼塚氏は、スポーツによる青少年育成を自らの務めと定めた。
内容
個人名義の履物問屋を早々に法人化して公私を分け、ある高校の監督の依頼で作ったバスケットボールシューズに、キュウリの酢の物のタコの足の吸盤を模した吸着ソールを採り入れ、急発進と急停止に応える競技靴を完成させた。
含意
家計と会社の経理を分け、闘病を経て創業10年目に持株の7割を社員へ分与するなど、「会社は経営者の私物ではなく公器」とする経営観がここに芽ばえた。ラテン語の頭文字を冠したのちの社名アシックスにも、この創業の志が受け継がれた。
筆者の見解

私欲を抑え、会社を公器とする経営観の原点

この創業の核心は、優れた製品を生んだ着想の妙よりも、事業を営む鬼塚氏自身の身の処し方にあったとみることができる。家計と会社の経理を厳しく分け、夫人には社員寮の賄いを任せ、自らの家計収入を月給の1万円だけに抑えた。会社を私物化した前の勤め先を反面教師とし、法人化によって公私を隔てるところから事業を始めた点は、戦後の成金たちがたどった道とは異質のものであった。青少年育成という動機と、私欲を抑えるという律し方は、初めから分かちがたく結びついていたとみられる。

創業から4年目と7年目に鬼塚氏は肺結核で倒れ、死の淵で若い社員たちの献身に支えられて生き延びた。この体験から得た人間観のもと、創業10年を機に鬼塚一族の持株の7割を社員へ分け、のちに「会社は経営者の私物じゃない、公器だ」と語るに至る。個人の商才で一代の財を築くのではなく、志を託せる集団として会社を残す——タコの吸盤から生まれた一足の競技靴に始まる物語は、やがてラテン語「健全な身体に健全な精神があれかし」の頭文字を冠する社名アシックスへと受け継がれていく。その原点をどう次代へつなぐかは、創業家の世襲を絶った企業がいまも向き合う問いとして残る。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

焼野原の神戸と、一人の兵隊帰り

1946年1月、兵隊帰りの鬼塚喜八郎氏が鳥取から出てきたときの神戸は、一面の焼野原であった。闇市やバラックが立ち、濡れ手で粟のもうけを狙う成金があふれる街で、鬼塚氏は進駐軍相手にビアホールなどを営む商才の持ち主のもとに勤め、総支配人から常務まで昇進した。だが、その社長が会社を私物のように扱い、家族や愛人を要職に就けて社員を監視する姿に嫌気がさし、鬼塚氏はある仕事の衝突をきっかけに勤め先を飛び出した[1][2]

復員した鬼塚氏には、靴づくりの経験も、これといった専門もなかった。それでも、進駐軍相手のもうけ話が飛び交う戦後の混乱のなかで、その場かぎりの欲望に流されまいとする気持ちは強かった。ひと財産を築く道ではなく、世の役に立ちながら長く続けられる仕事を、鬼塚氏は探していた[3]

「靴屋になれ」という助言

転機は、陸軍時代の先輩との再会から訪れた。当時、兵庫県教育委員会保健体育課長を務めていた堀公平氏は、鬼塚氏に「君は靴屋になれ、青少年がスポーツに打ち込めるよい靴をつくれ」と勧めた。戦後の混乱のなかで、すさんだ青少年を早く立ち直らせるにはスポーツが役立つ、という考えが背景にあった[4][5]

鬼塚氏にとって、この助言は単なる商売のすすめにとどまらなかった。スポーツは健全な心身を育てる最良の方法であり、その普及こそが戦地から生還した自分の務めだ、という確信が、事業の動機の底に据えられた。靴という縁のなかった世界への一歩は、こうして「務め」の色を帯びて踏み出された[6]

決断

鬼塚商会の発足と、法人化による公私の分離

1949年3月、鬼塚氏は神戸市生田区山本通で、個人名義のゴム履物問屋として鬼塚商会を発足した。同年9月にはこれを改組して鬼塚株式会社とし、ゴム履物や自転車タイヤ・チューブの配給問屋として兵庫県警察本部の指定代行店業務を担った。友人の勧めでスポーツシューズへ乗り出したこの年の秋、会社には社員が4人いたにすぎない[7][8]

小さな商いを早々に株式会社の形にしたのは、鬼塚氏なりの信念からであった。社長やその家族だけが得をする商売では人はついてこない、法人化して公私の区別をはっきりさせよう——反面教師とした前の勤め先の記憶が、この選択を支えていた。ゴム履物の問屋から出発しながら、鬼塚氏の関心はスポーツシューズ、とりわけ競技用の靴づくりへ早くから傾いていた[9]

タコの吸盤に着想した吸着ソール

鬼塚氏が初めて手がけたのは、ある高校の監督から依頼されたバスケットボールシューズであった。だが、床で急に止まり、急に走り出す競技の動きに、当時の靴底は追いつかない。滑らない靴底をどう作るか、鬼塚氏は思案を重ねた。答えは、思いがけない食卓から訪れる。夏のある日、母親が夕飯に出したキュウリの酢の物の皿のなかで、タコの足の吸盤に目が止まった。この原理を靴底に応用できるのではないか、と鬼塚氏は考えた[10][11]

着想を製品にするまでには、なお試行が要った。吸盤のくぼみを深くしすぎると床に張りついて動けず、浅くしすぎれば滑る。くぼみの深さを詰めていった末に、急発進と急停止のどちらにも応える鬼塚式のタイガーバスケットボールシューズが完成した。この靴を履いた高校のチームが優勝するのは、遠い先のことではなかった。1950年にスポーツシューズ専門メーカーへ脱皮し、1951年に統制品のゴムが解除されると、鬼塚氏は本格的な製造販売に乗り出した[12][13]

結果

専業メーカーへの成長とオニツカの成立

吸着ソールで足場を得た事業は、内製と全国展開へ進んだ。1953年5月には自家工場のタイガーゴム工業所(従業員約50名)を神戸に開き、1954年には東洋レーヨンの靴分野の指定工場となってナイロンスポーツシューズの研究・製造に着手した。1955年には東京鬼塚株式会社を設けて関東・東北の販売を強め、1956年にはメルボルンオリンピックほかの国際試合で製品が使われるまでになった[14][15]

多品種少量生産を特長に、量産できる製品は一貫生産で作り分ける体制を敷き、オニツカはスポーツ用シューズのシェアで国内首位を占めるまでになった。1949年に社員4人・資本金30万円で出発した小さな問屋が、10年足らずでバスケットボールシューズを軸とする競技靴の専業メーカーとして確たる地歩を固めた。神戸の地場製造業として戦後復興期のスポーツ需要を捉えた歩みであった[16]

出典・参考