不二製油伊藤忠商事の全額出資による設立と不二蚕糸大阪工場の買収
戦後の油脂業界に最後発で入る会社は、大手と同じ土俵で戦うか、別の土俵を作るか
- 概要
- 1950年10月、伊藤忠商事が全額出資して不二製油株式会社を設立し、同時に不二蚕糸株式会社の大阪工場を買収して製油業へ参入した。戦前から市場を握る大手が並ぶなかへの最後発の参入であった。
- 背景
- 天ぷら油・サラダ油といった液体油の市場は戦前設立の油脂メーカーが押さえており、後から入った会社が商標を確立するのは容易ではなかった。伊藤忠にとっては原料油脂・植物油の取扱を強化する事業会社の設置でもあった。
- 内容
- 買収した大阪工場を足場に、1951年2月に圧搾工場を新設してコプラの製油を始め、我が国最初の圧抽式製油に成功した。1954年にパーム核油の本格搾油、1955年には油脂溶剤分別装置を完成させ、ハードバター(メラノバター)の製造を開始した。
- 含意
- 液体油で正面から競わず、ヤシ油・パーム油という南方系の固まる油と、その分別・加工に領域を限った。この選択が、製菓向け油脂と大豆たん白という後年の事業構成の原型となった。
弱い立場から始まった領域選択について
この設立で決まったのは、会社を作ったことよりも、どこで戦わないかであったとみることができる。天ぷら油という日本の製油業の本流には、宣伝費を投じても入れなかった。その失敗のあとに残ったのが、南方系の固まる油と、その油を融点の違いで分ける技術という、当時は誰も主戦場と考えていなかった領域であった。最後発で資本も小さいという条件が、結果として大手と重ならない事業構成を選ばせたとみられる。強い会社の合理的な多角化ではなく、弱い立場での消去法から出発している点に、この判断の性格がうかがえる。
もっとも、消去法で選んだ領域に留まり続けたわけではない。分別で得た技術を、チョコレート用油脂から植物性クリーム、大豆たん白へと縦に伸ばしていく方針は、原料価格の変動を最終製品に近い側で吸収するという、商社出資の会社らしい採算の読み方に支えられていた。加工度を高めて価格の安定した領域まで進むという1950年代の考え方は、のちの業務用チョコレートの海外買収でも、プラントベースフードへの投資でも繰り返し現れる。人まねをしないという言葉が75年後の社長の口からも出てくることが、この最初の選択の重さを示しているといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
戦前来の大手が並ぶ市場への最後発参入
不二製油が生まれた1950年の日本の製油業は、戦前に設立された会社が主要な地位を占めていた。伊藤忠商事は貿易商社として原料油脂・植物油の取扱を強化しようとしており、その事業会社として新会社の設立に踏み切った。設立から75年を経た2025年9月、大森達司氏(社長)は、競合の大手は戦前に設立されており、設立当初の不二製油とは大きな力の差があったと振り返っている。資本金300万円で発足した会社にとって、既存大手と同じ製品で競うことは現実的な選択ではなかった[1][2]。
参入の難しさは、のちに社長となる西村政太郎氏の回想が具体的に伝えている。西村氏は1978年10月の日本証券アナリスト協会企業分析部会の講演で、発足時にはすでに日本の天ぷら油市場ができあがっており、ひとつの商標を確立するために宣伝費をかけたものの、みじめな経験に終わったと述べている。日本の製油業の本流は古くから天ぷら油であり、そこへ新規に入って消費者向けの商標を育てる道は、資金の乏しい新会社には閉ざされていた。どこで稼ぐかを、市場の側から選び直す必要があった[3]。
決断
全額出資の新会社と、買収による製油設備の取得
1950年10月、伊藤忠商事の全額出資により不二製油株式会社が設立された。設立と同時に不二蚕糸株式会社の大阪工場を買収し、製油業への参入を果たしている。工場を一から建てるのではなく、既存の設備を買い取って操業に入る手順であった。買収した大阪工場は、のちに阪南工場へ生産を移す1971年まで、20年にわたって生産の中心となった[4][5]。
扱う原料も、大手と重ならないものを選んだ。1951年2月に圧搾工場を新設してコプラの製油を開始し、我が国最初の圧抽式製油に成功、1954年1月には我が国最初の本格的パーム核油搾油を始めた。いずれも東南アジア産のヤシ油・パーム油に連なる南方系の油であり、常温で固まる固型脂である。西村氏は1978年の講演で、日本の製油業の本流が天ぷら油である以上、固型脂を扱う不二製油は亜流かもしれないと前置きしたうえで、固型脂を扱う事業としては日本一であると述べている。本流を避けた領域で首位を取る形が、参入から四半世紀で成立していた[6][7]。
加工度を高める方針と、ハードバターの国産化
商標づくりに失敗したあと、経営が選んだのは加工の深さで稼ぐ道であった。西村氏の講演によれば、同じ資金を使うのなら他社のあとを追うよりも独自に新製品を開発するほうがよいと考え、製品の加工度を高める方針を採った。原料はほぼ輸入で、農産物価格も運賃も変動が激しく、買値に加工賃と利潤を乗せて売れることは稀であった。そこで、価格が安定する最終製品に近いところまで加工する方針を定めている。西村氏は社内で、縦に掘り下げていけば領域は必然的に広がるので、まず縦を掘れと言い続けたと語っている[8]。
その方針が最初に形になったのが、油脂の分別であった。1955年9月、大阪工場に油脂溶剤分別装置を完成させ、我が国最初のハードバターであるメラノバターの製造を開始した。ハードバターはチョコレートに使う代替カカオ脂で、輸入カカオ脂に代わる素材を製菓メーカーへ供給する領域を開いている。同年8月には神戸工場を建設して操業を始め、関西の製菓メーカーとチョコレート用油脂の取引に入った。最後発であったことと参入領域の選択との関係については、清水洋史氏(社長)が2018年に、最後発企業ゆえに油脂でも他社がやっていないことをせざるをえなかったと説明している[9][10]。
結果
分別油脂で国内シェア8割、加工品への比重移動
参入から10年余りで、会社は資本市場での地位も得た。1961年10月に株式を大阪証券取引所市場第二部に上場し、1973年2月に大阪証券取引所市場第一部へ指定、1978年10月には東京証券取引所市場第一部にも上場している。事業構成も、搾油から加工へと比重が移った。1978年3月期の総売上高597億1,200万円の部門別比率は、油糧19.4%・油脂加工34.1%・食品加工31.4%・蛋白加工15.1%で、搾油そのものである油糧部門は5分の1を切っていた。西村氏は同じ講演で、分別技術については不二製油が世界でも屈指の分別油脂メーカーであり、国内シェアは約80%であると述べている[11][12]。
植物性という軸は、油脂の外へも伸びた。1967年4月に植物性クリームの生産を開始し、同年12月には大阪工場に大豆たん白分離設備を完成させて大豆たん白事業に入っている。搾油で生じる脱脂大豆をたん白の原料として使う組み立てで、西村氏は1978年の講演で、大豆の搾油では油ではなく約80%を占める脱脂大豆の高度利用を主眼としていると説明した。創業期に定まった方針について、酒井幹夫氏(前社長)は2022年に、人まねをしないことと植物性にこだわることの2点を創業以来のDNAとしていると述べている。設立から75年後の2025年3月期、連結売上高は6,712億円、報告セグメントは植物性油脂・業務用チョコレート・乳化発酵素材・大豆加工素材の4つとなった[13][14][15]。
- 不二製油 有価証券報告書【沿革】
- 証券アナリストジャーナル 1978年(16巻11号)「企業 不二製油——独自性と加工度向上で発展」西村政太郎(日本証券アナリスト協会企業分析部会 1978年10月13日講演要旨)
- 週刊東洋経済 2018年3月3日号「ニュース深掘り 株up & down 不二製油、大豆が開く世界戦略」
- 日経ESG 2022年9月15日(不二製油 酒井幹夫前社長 発言)
- 日経ビジネス電子版 2025年9月5日(不二製油 大森達司社長CEO 発言)