この創業が示すのは、資材難と移動難という戦後の制約そのものが、事業機会の源泉になったことである。旧日本陸軍の払下げエンジンという有り合わせの部材を走る道具に転用した最初の一手は、豊かな資本や整った設備からではなく、欠乏の側から立ち上がっていた。制約を商機へ読み替える技術者の眼が、のちの世界企業の出発点にあったと推察される。
会社としての正式な設立は1948年9月の法人化であるが、事業の性格を決めたのは、その前後に重なった三つの選択——補助エンジンから完成車への転身、藤沢武夫氏を迎えての技術と経営の分業、資本金を大きく上回る量産投資——であった。町工場が世界一の二輪車メーカーへ変わる転換点は、創業のその一点ではなく、危機のたびに高い技術目標を掲げ直した1950年代の連なりのなかにあったといえる。