日本ゼオンB.F.グッドリッチ・ケミカルとの合弁による日本ゼオンの設立と塩化ビニル樹脂の国産化

自前の技術で育てるか、外国技術を丸ごと買うか——塩ビ18社の反対を押しての合弁

時期 1950年4月
意思決定者(推定) 稲垣平太郎・草野義一 発起人・のち会長・発起人・設立時の代表取締役
論点 技術導入と国産化
概要
1950年4月、日本軽金属・古河電気工業・横浜護謨の古河系3社が、米B.F.グッドリッチ・ケミカルから塩化ビニル樹脂の全技術を導入する前提で、資本金500万円の日本ゼオンを設立した経営判断。グッドリッチには資本金の35%にあたる株式を割り当てた。
背景
日本軽金属は終戦後に設備を平和産業へ転換し、蒲原工場でカーバイドを生産していた。遊休施設と副産物、自家発電の余剰電力の使い道として塩化ビニル樹脂に着目したが、最優秀の品質を国際価格で生産するには外国技術との結合が要るという結論に達した。
内容
特許の実施権に加え、工場と設備の設計・建設・運転に関する指導監督と技術情報の提供を受ける。ロイヤリティは販売の日から1年間が売上高の1.5%、2年目が2%、3年目以降は3%。商標「GEON」を日本で登録する権利も与えられ、これが社名の由来となった。
含意
国内の塩ビメーカー18社は猛烈に反対した。国内技術で達成できる産業に外国技術を持ち込むこと、一社で予定国内総生産能力の半分に達する規模への反発である。1952年5月に月産250トンで正常運転に入り、以後は国内最大の生産量を保った。
筆者の見解

自前か、導入か

18社の反対には、筋が通っていた。塩ビ工業は国内技術でも達成できる産業であり、外国技術を認めれば国内の研究意欲が減退するという論拠は、当時の産業政策としてありえた立場である。それでも日本軽金属が全技術の導入に踏み切れたのは、カーバイドから得るアセチレン、副産の塩素と水素、自家発電の余剰電力という手持ちの資源が、技術さえあればただちに事業になる状態でそろっていたからである。自前の技術を待つ時間そのものが、遊休設備の費用になっていた。

ただ、導入した技術がそのまま優位だったわけではない。ロイヤリティは3年目以降に売上高の3%へ上がり、資本金の35%は外国企業の持ち分として残った。原料でも、日本軽金属からのアセチレン供給は操業4年で途切れている。それでも1966年に塩化ビニルの技術契約が切れるまで国内最大の生産量を保ち、その後はGPB法などの自社技術を海外へ供与する側に回った。導入から自前の技術に切り替わるまでに、16年かかった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

遊休設備とカーバイドの使いみち

日本軽金属は終戦後ただちに設備を平和産業へ転換し、一部の設備でカーバイドの生産を始めた。残る遊休施設の活用を調べた結果、原料と電力の両面で最も条件がよく、日本の産業振興にも寄与しうる製品として塩化ビニル樹脂に行き着き、以後その試作と研究を続けた。静岡県の蒲原工場には、カーバイドから得られるアセチレン、新設予定のカセイソーダ工場が副産する塩素と水素、そして自家発電の余剰電力がそろっていた[1][2]

原料と電力がそろっても、樹脂そのものを作る技術は手元になかった。各種の調査と研究の末に出た結論は、最優秀の品質を国際価格で生産するには優秀な外国技術との結合が是非とも必要である、というものであった。国内資源と外国技術を結びつけることが目的の達成に最も適切な方策であるとして、日本軽金属は古河電気工業と横浜護謨に声をかけ、米国第一流の技術を持つB.F.グッドリッチ・ケミカルとの提携に動いた[3][4]

18社が乱立していた塩ビ市場

当時の塩化ビニル製品は貴重品として扱われていた。軟質の塩ビ製品はキロ当たり3,000円から5,000円で売れ、問屋は前金を風呂敷に包んで工場の門に行列を作った。1950年2月のビニール樹脂懇談会の調べでは、加工業者が原料樹脂を買う価格は800円から3,000円まで開いていた。技術は幼稚で、8割の不良を出しても採算が合った。製品は夏に軟化し、冬に硬くなった[5][6]

供給する側は、弱い基盤の上に18社がひしめいていた。日本ゼオンが操業を始めた1952年の時点でも、塩ビを作る会社は月産50トンから100トンの規模が数社あるだけで、品質も著しく劣っていたと、のちに古我周二社長は振り返っている。国内で技術を持ち寄れば足りるという業界の自負と、その足元にある小規模で低品質な生産の実態とが、同じ市場に同居していた[7][8]

決断

全技術の導入と、資本金の35%

1950年4月5日、日本軽金属の社内に置かれた創立事務所で創立総会が開かれ、資本金500万円の日本ゼオンが設立された。発起人は稲垣平太郎氏、草野義一氏ら数名で、会社を代表する取締役には草野氏が就いた。グッドリッチ・ケミカルは製造施設一式を現物出資し、その見返りに株式の取得を望んだため、資本金の35%が同社に割り当てられた。外資法にもとづく許可などの手続きを終え、1951年1月に契約の調印に至った[9][10]

日本ゼオンは、塩化ビニルと塩化ビニリデンの製造、可塑剤D.O.P.の調製、完成品の製造にわたる特許の実施権を得た。加えて工場と設備の設計・建設・運転に関する指導監督を受け、技術情報の提供と、米国から輸入する機械の手配も同社に委ねた。ロイヤリティは販売の日から1年間が売上高の1.5%、2年目が2%、3年目以降は3%である。商標「GEON」を日本で登録する権利も与えられ、これが社名の由来となった[11]

月産250トンの計画と、18社の反対

事業目論見書が描いた工場建設計画は、設計から建設を経て運転開始に至るまですべてグッドリッチの技術で施行し、第1期として月産250トンの塩化ビニル樹脂プラントを1951年上半期中に完成させる計画を立てた。需要に応じて拡張し、最終的には塩化ビニル樹脂を月産500トン、可塑剤D.O.P.を月産300トンとする計画だった。所要資金は6億7,500万円で、増資4億9,500万円のうち1億7,500万円がグッドリッチの現物出資にあたった[12][13]

この計画に、国内の塩化ビニルメーカー18社が猛烈に反対した。反対の理由は三つで、塩ビ工業は国内技術で達成できる産業であること、外国技術を認めれば国内の研究意欲が減退すること、国内企業を圧迫することであった。小規模な生産がひしめく市場へ、優越した技術と資本を備え、一社で予定国内総生産能力の半分に達する企業が入ろうとしていた。戦後日本の合弁会社第二号は、自前の技術で産業をつくるか、出来合いの外国技術を導入するかという争点をはっきり示した[14]

結果

月産250トンが業界に与えた衝撃

プラントは日本軽金属蒲原工場の敷地内、カセイソーダ工場に隣接して建設された。グッドリッチからは1950年7月に技術担当副社長のバード氏が、1951年4月には技師2名が来日して指導にあたった。完工は突発した朝鮮戦争の影響で予定より若干遅れたものの、1952年4月に工場が完成し、5月下旬から正常運転に入った。製品は最初からグッドリッチ製と全く同質のものができ、好評のうちに操業を始めた[15][16]

月産250トンという規模は、月産50トンから100トンの会社が数社あるだけの業界で注目を集め、品質の高さも加わって、古我社長がのちにゼオン旋風と呼ぶ状況をつくった。第2期計画で月産500トンへ増設し、1955年4月には月産能力700トンに達した。同年6月期の生産高は前期を25%上回る2,980トン、総売上高は7億4,000万円で、内訳は軟質用38%、硬質用35%、電線用22%、輸出向け4%となった。以後も同社は国内最大の生産量を保った[17][18]

供給を受ける側から、技術を出す側へ

操業当初、アセチレン・塩素・水素・電力のすべてを日本軽金属が供給していた。ところが塩化ビニル樹脂の生産が増えるにつれ、同社のカーバイド生産の制約からアセチレンが不足した。日本軽金属は1955年11月末で発生を中止し、日本ゼオンは1956年1月から自社でアセチレンを発生させた。この際、日本軽金属はアセチレン発生設備一式を譲渡している。原料を出資会社の副産物に頼る当初の設計は、操業4年で組み替えを迫られた[19]

導入した技術からの自立も進んだ。塩化ビニルについては1966年に技術契約が終了し、以後は自社の技術で生産を続けた。グッドリッチの持株比率は35%から次第に下がり、1970年に20%、1971年初めには完全な日本資本の会社となっている。1956年11月には高岡工場が完成し、1959年7月には川崎工場で国産第1号として合成ゴムの生産に入った。導入で始まった会社は、20年でGPA法・GPB法・GPI法を海外へ供与する会社に変わった[20][21]

出典・参考
  • 日本軽金属二十年史(日本軽金属, 1959年)「日本ゼオンの設立」
  • 会社銀行八十年史(東洋経済新報社、1955年)2篇 日本会社史 23_その他化学「日本ゼオン」
  • 日本産業史 第2巻(日本経済新聞社、1994年)「繊維-不死鳥よみがえる」
  • 証券アナリストジャーナル 1971年 9巻2号「日本ゼオンの現状と将来」(古我周二社長 講演要旨・1971年1月25日 企業分析部会)
  • 日本ゼオン 有価証券報告書【沿革】

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