ニップン の歴史

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創業 1896年
創業者 雨宮敬次郎、南条新六郎
創業地 東京市深川区東扇橋
創業
1896年12月、南条新六郎氏らが東京市深川区東扇橋に資本金30万円の日本製粉を発足させた。製粉能力は200バーレルで、同じ年の国内小麦粉供給量の89%はなお水車粉が占めている。機械製粉の移植は1879年に松方正義氏が浅草蔵前へ開いた官営工場に始まり、機械は1884年ごろ旧藩士たちの会社へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎氏が持つ建物へ移った。その会社は1891年に解散し、工場を継いだ商人も行き詰まる。1893年に南条氏らが東京製粉合資会社として再興し、日清戦争の軍糧食需要で足場を固めたうえで株式会社へ改めている。ただし機械で挽いた粉は割高で在来のうどん向けには売れず、売り先は陸海軍とパン・ビスケットに限られていた。
決断
新しい商売は必ず別会社で始め、育ってから本体へ吸収してきた。1955年2月に日粉食糧を設立して家庭用ブランド『オーマイ』を起こし、35年後の1990年10月に同社を吸収合併して厚木・加古川の両工場としている。1996年6月にはニップン冷食を設立して冷凍食品の製造を分社し、25年を経た2021年4月に製造事業を本体へ譲り受け、伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場に改めた。1998年4月にはパスタ製造部門を再びオーマイへ分社しており、切り出しと取り込みは一方向ではない。原料の小麦は政府が一手に買い入れて売り渡し、製品価格も政府売渡価格の改定に連動するため、製粉そのものでは差がつかない。別会社で採算を確かめてから本体へ戻す順序が、粉の外の売上を製粉の二倍まで育てた。
現況
売上の三分の二は粉の外にあるが、利益は製粉とほぼ半分ずつである。2026年3月期の連結売上高は4,184億円、営業利益221億円。セグメント別では製粉事業が売上1,200億円・利益95億円、食品事業が2,437億円・91億円で、売上の比率は33対67、利益はほぼ並ぶ。2023年3月期は製粉75億円に対し食品34億円と製粉が7割近くを占めており、政府売渡価格の改定が製品価格へ移るまでの時間差で、二つの事業の利益は入れ替わってきた。2024年5月には政策保有株式と遊休不動産を売却して設備投資へ振り替える計画を示し、2024年度は遊休資産85億円と株式50億円を売却している。売却で得た資金は設備へ向かい、大型穀物船が接岸できる知多新工場が2026年2月に稼働した。
競合
四半世紀で製粉会社は半分以下に減ったが、上位の取り分は動いていない。1968年の記録は日本製粉のシェアを約25%と伝え、2024年度の国内小麦粉販売シェアも25.0%で、業界2位という位置は変わらない。その間に製粉工場は1951年度の約3,100から90を下回るまで減り、企業数も1998年比で129社から60社へ集約されたが、大手4社の占有率は81.8%に達する。1930年4月に日清製粉と三井物産を介して共販組合を結成したのも、能力が需要を上回る市況で値を保つためだった。首位の日清製粉が2019年4月に豪州アライド・ピナクルを買収したのに対し、ニップンの海外売上は有価証券報告書が本邦90%超として地域別記載を省く水準にとどまる。国家が原料と価格を管理する制度が順位を固定し、差は海外に置く能力の側へ移った。
ニップン:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 水車粉の国に機械製粉を移植し、日清製粉と二社で市場を分けるまで (1896年〜)

官営工場から三度持ち主を替えた機械

機械製粉の移植は、1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開いたのが最初である。前年に渡仏した松方正義氏が購入した、能力15バーレルの蒸気動力による石うす式製粉機2台をここに据えた。しかし工場は見るべき業績をあげられず、1884年ごろ、機械は薩摩および越前の旧藩士たちが組織した会社に払い下げられる。彼らは初め東京・京橋南小田原町に工場を設けたが、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎氏が持つ建物へ移った。雨宮氏はアメリカの機械製粉を見聞し、1880年ごろ同じ場所に工場を設けたものの、すでに休止していた。 [1][2]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [1]1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開設。松方正義が渡仏して購入した能力15バーレルの蒸気動力石うす式製粉機2台を据え付けた
    • [2]官営工場の機械は1884年ごろ薩摩・越前の旧藩士が組織した会社(社長 野村忍助)へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎所有の建物へ工場を移した。雨宮は明治13年(1880年)ごろ同所に工場を設けたが明治21年(1888年)に休止していた

機械で挽いた粉の売り先は、ほとんどが陸海軍だった。一般の市場では、水車で挽いた粉の勢力に対抗できない。経営成績は上がらず、会社は1891年に解散して工場は近江出身の商人島万次郎氏の手に移るが、島氏もまた失敗する。1893年、旧館林藩士で第四十銀行頭取の南条新六郎氏、第三十九銀行の長尾三十郎氏、島氏と関係の深かった境豊吉氏らがこれを受け継ぎ、工場を母体として東京製粉合資会社を設立した。同社は軍需だけに頼らず、東京の雑穀商立川健蔵氏の協力を得て民間の販路を開き、日清戦争による軍糧食の需要増加をとらえて足場を固めた。 [3][4]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [3]1891年に会社解散、工場は島万次郎へ移り、1893年に南条新六郎・長尾三十郎・境豊吉らが受け継いで東京製粉合資会社を設立した
    • [4]機械粉は主に陸海軍へ納入し、一般市場では水車粉に対抗できなかった。東京製粉合資会社は雑穀商立川健蔵の協力で民間販路を開き、日清戦争の軍糧食需要で基礎を固めた

1896年12月、東京製粉合資会社の資産を継承し、資本金30万円の日本製粉株式会社が発足した。本店工場は深川区東扇橋、製粉能力は200バーレルにすぎない。同じ1896年、国内の小麦粉供給量の89%はなお水車粉であり、輸入メリケン粉と国内の機械粉はともに低い地位に置かれていた。官営工場から数えて四度目の持ち主が、ようやく事業として続く形を得たことになる。日本最古の機械製粉会社という位置は、成功の連続ではなく、三度の行き詰まりの上に立っている。 [5][6][7]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1896年12月に東京深川扇橋で日本製粉株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [6]1896年に東京製粉合資会社を改組し資本金30万円で新発足、本店工場は深川区東扇橋、製粉能力200バーレル
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [7]1896年時点で国内小麦粉供給量の89%が水車粉で、輸入メリケン粉と国内機械粉の地位は低かった
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [1]1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開設。松方正義が渡仏して購入した能力15バーレルの蒸気動力石うす式製粉機2台を据え付けた
    • [2]官営工場の機械は1884年ごろ薩摩・越前の旧藩士が組織した会社(社長 野村忍助)へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎所有の建物へ工場を移した。雨宮は明治13年(1880年)ごろ同所に工場を設けたが明治21年(1888年)に休止していた
    • [3]1891年に会社解散、工場は島万次郎へ移り、1893年に南条新六郎・長尾三十郎・境豊吉らが受け継いで東京製粉合資会社を設立した
    • [4]機械粉は主に陸海軍へ納入し、一般市場では水車粉に対抗できなかった。東京製粉合資会社は雑穀商立川健蔵の協力で民間販路を開き、日清戦争の軍糧食需要で基礎を固めた
    • [7]1896年時点で国内小麦粉供給量の89%が水車粉で、輸入メリケン粉と国内機械粉の地位は低かった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1896年12月に東京深川扇橋で日本製粉株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [6]1896年に東京製粉合資会社を改組し資本金30万円で新発足、本店工場は深川区東扇橋、製粉能力200バーレル

買収で工場を集め、二社で能力の八割を占めた大正期

機械製粉が勃興する気運に乗り、日本製粉は工場を次々に増やした。1904年に扇橋第二工場を新設し、1907年に明治製粉(小名木工場)を吸収合併すると同時に兵庫工場を設け、1909年には帝国製粉(砂町工場)を合併する。明治末には工場5、製粉能力2,500バーレル、資本金155万円に達した。1914年の欧州大戦で小麦粉の需要が増え、外国小麦の輸入も途絶えて国内市場は活況を呈する。同年4月に久留米工場を新設し、1920年には東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉を合併して神戸・高崎・小山・門司・札幌の5工場を、同じ年に東北製粉を合併して仙台工場を加えた。 [8][9]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [8]1907年に明治製粉(小名木工場)、1909年に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併し、明治末には工場5・製粉能力2,500バーレル・資本金155万円となった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1920年3月〜4月に東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉・東北製粉を合併し、高崎・小山・神戸・門司・札幌の各工場と仙台工場を加えた(会社銀行八十年史は大正8年と記すが、有価証券報告書【沿革】および公式沿革は1920年3月とする)

1924年5月、国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成する。翌1925年には小樽工場を新設し、東亜製粉の合併で東京工場を増やした。1926年末の陣容は工場11、製粉能力16,100バーレル、資本金1,230万円。この間に業界全体の能力も膨らみ、1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルと大戦前の3倍を超えたが、その80%強を日清製粉と日本製粉の2社が握っていた。小麦粉の消費はパン用の強力粉と菓子用の薄力粉で伸びたものの、工場能力の増加がそれを上回り、過剰生産の傾向が強まる。 [10][11][12]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1924年5月に国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [11]1926年末に工場11・製粉能力16,100バーレル・資本金1,230万円
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [12]1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルで大戦前の3倍以上、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた

過剰能力への答えは、増産の停止と価格の取り決めだった。1926年5月、日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を結ぶ。日清と日本は同率の操短率を課され、1928年5月の期限まで生産の40〜60%を止めた。日本製粉はこれと並行して、1927年5月に三井物産と製品の一手販売契約を結んで再建に着手し、1928年10月には日清製粉と販売価格の協約を締結する。1930年の金輸出解禁で経済界が混乱すると、両社と、日本製粉の製品を委託販売していた三井物産の代表が協議し、同年4月1日に製粉共販組合を発足させた。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出している。1931年4月には日東製粉も加わり、名古屋以東の販売機関として東部製粉共販組合が組織された。関西の増田や大阪製粉は最後まで加わらなかったが、両組合は1935年7月の解散まで市況の維持に働いた。市場を広げるより、市場を分け合って価格を保つ枠組みに、この産業は早くから入っている。 [13][14][15][16]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [13]1926年5月に日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を締結。日清・日本両社は同率で1926年6月から1927年4月まで50〜60%、1928年5月の期限まで40%の操短
    • [15]1930年4月1日に製粉共販組合が発足。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資
    • [16]1931年4月に日東製粉が共販事業に参加し東部製粉共販組合を組織、増田・大阪製粉らはアウトサイダーとして牽制、両共販組合は1935年7月に解散
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [14]1927年5月に三井物産と製品一手販売に関する契約を締結して再建に着手、1928年10月に日清製粉と販売価格に関する協約を締結
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [8]1907年に明治製粉(小名木工場)、1909年に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併し、明治末には工場5・製粉能力2,500バーレル・資本金155万円となった
    • [11]1926年末に工場11・製粉能力16,100バーレル・資本金1,230万円
    • [14]1927年5月に三井物産と製品一手販売に関する契約を締結して再建に着手、1928年10月に日清製粉と販売価格に関する協約を締結
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1920年3月〜4月に東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉・東北製粉を合併し、高崎・小山・神戸・門司・札幌の各工場と仙台工場を加えた(会社銀行八十年史は大正8年と記すが、有価証券報告書【沿革】および公式沿革は1920年3月とする)
    • [10]1924年5月に国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [12]1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルで大戦前の3倍以上、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた
    • [13]1926年5月に日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を締結。日清・日本両社は同率で1926年6月から1927年4月まで50〜60%、1928年5月の期限まで40%の操短
    • [15]1930年4月1日に製粉共販組合が発足。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資
    • [16]1931年4月に日東製粉が共販事業に参加し東部製粉共販組合を組織、増田・大阪製粉らはアウトサイダーとして牽制、両共販組合は1935年7月に解散

大陸への進出と、価格を国家に預けた十五年

満州事変の後に市価は騰勢へ向かい、大陸向けの輸出が激増する。輸出先はおもに中国北部で、アメリカやカナダの製品と競いながら市場を広げた。1928年に名古屋工場を新設し、1935年には仁川工場が竣工する。1936年2月に青島で東亜製粉を設立し、同年7月には満州製粉から鎮南浦・沙里院の両工場を買収した。1937年2月には奉天に東洋製粉股份有限公司を設立する。日中戦争が始まると大陸への進出はさらに進み、1938年に上海で三興麺粉公司を、1940年に漢口で漢口製粉を設立した。 [17][18]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [17]1928年に名古屋工場を新設、1935年に仁川工場竣工、1936年2月に青島で東亜製粉を設立、同年7月に満州製粉から鎮南浦・沙里院両工場を買収、1937年2月に奉天で東洋製粉股份有限公司を設立、1938年に上海で三興麺粉公司、1940年に漢口製粉を設立
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [18]満州事変以後は満州・朝鮮市場が拡大し、1935年前後から内地製粉会社の大陸資本進出が活発になった

1940年1月、農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決まり、小麦粉は全国製粉配給が一括して配給し、麩は飼料配給の一手販売となった。1942年7月の食糧管理法施行で、業界は政府の強い統制下に置かれる。1944年の企業整備令によって久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止し、1945年3月には東京・名古屋の両工場が戦災を受けた。終戦にともなって外地の工場をすべて失い、残ったのは5工場・設備能力7,466バーレルで、戦前能力の34%にとどまる。価格の自由を国家に預けた15年の末に、会社は三分の一の規模になっていた。 [19][20]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [19]1940年1月の農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決定し、全国製粉配給が一括配給、麩は飼料配給の一手配給となった。1942年7月に食糧管理法施行
    • [20]1944年の企業整備令で久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止、1945年3月に東京・名古屋両工場が戦災。終戦で外地工場を全面喪失し、残存5工場・設備能力7,466バーレル(戦前能力の34%)

終戦直後、日本製粉は財閥関係の制限会社に指定され、1946年8月には特別経理会社の指定を受ける。1948年には過度経済力集中排除法による指定も加わり、再建は難しさを増した。それでも1945年に名古屋工場と小山工場、1946年に久留米工場、1947年に神戸工場の復旧を果たす。1949年に集排法の指定が取り消されると諸指定も順次解除され、1951年には東京工場の復旧再開にこぎつけた。制度に縛られた復興という点で、戦中と戦後の連続性は強い。 [21]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [21]終戦直後に制限会社、1946年8月に特別経理会社、1948年に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年の集排法指定取消後に諸指定が解除。工場復旧は1945年名古屋・小山、1946年久留米、1947年神戸、1951年東京
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [17]1928年に名古屋工場を新設、1935年に仁川工場竣工、1936年2月に青島で東亜製粉を設立、同年7月に満州製粉から鎮南浦・沙里院両工場を買収、1937年2月に奉天で東洋製粉股份有限公司を設立、1938年に上海で三興麺粉公司、1940年に漢口製粉を設立
    • [19]1940年1月の農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決定し、全国製粉配給が一括配給、麩は飼料配給の一手配給となった。1942年7月に食糧管理法施行
    • [20]1944年の企業整備令で久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止、1945年3月に東京・名古屋両工場が戦災。終戦で外地工場を全面喪失し、残存5工場・設備能力7,466バーレル(戦前能力の34%)
    • [21]終戦直後に制限会社、1946年8月に特別経理会社、1948年に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年の集排法指定取消後に諸指定が解除。工場復旧は1945年名古屋・小山、1946年久留米、1947年神戸、1951年東京
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [18]満州事変以後は満州・朝鮮市場が拡大し、1935年前後から内地製粉会社の大陸資本進出が活発になった

統制撤廃後も残った割当制と、二二、六〇〇バーレルへの復元

1949年5月、日本製粉は東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場登録した。戦後の極度の食糧難を反映して外国小麦が大量に輸入され、これにともなって製粉工場が乱立し、のちの設備過剰の因をつくる。食糧事情が好転すると1952年に麦類の統制が撤廃され、1940年以来12年ぶりに完全な自由販売が戻った。1954年6月には懸案だった小山工場が竣工し、2,300バーレルの据付を終える。1955年3月末で工場は10(うち休止1)、生産能力は22,600バーレルとなった。 [22][23][24]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [22]会社銀行八十年史は1955年3月末を「十工場(うち休止中一工場)・生産能力二二、六〇〇バーレル」とするが、同書に印字された工場名の列挙は横浜・名古屋・神戸・門司・小樽(以上海工場)、久留米・高崎・小山(以上山工場)および札幌の9件しかなく、数と合わない。同書は昭和26年(1951年)に東京工場の復旧再開を記載している
    • [24]1952年に麦類の統制が撤廃され12年ぶりに完全な自由販売が再現。1954年6月に小山工場が竣工し2,300バーレルを据付、1955年3月末で工場10(うち休止1)・生産能力22,600バーレル
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場登録

1954年度の販売袋数は2,111万袋、総売上高は236億円に達し、戦前の水準を大きく超えた。資本金も1949年1月と12月、1952年10月と増資を重ね、1954年8月には再評価積立金1億4,400万円を組み入れて7億2,000万円となる。1948年1月に就任した赤木栄社長のもとで、戦災と諸指定で縮んだ会社は10年ほどで戦前を上回る規模に戻った。ただし戻ったのは規模であって、事業の中身は小麦粉を挽いて売ることに変わりない。 [25][26]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [25]1954年度の販売袋数2,111万袋・総売上高236億円で戦前水準を突破。資本金は1949年1月・12月、1952年10月と増資し1954年8月に7億2,000万円(再評価積立金1億4,400万円組入)
    • [26]社長の赤木栄は1948年1月に就任

統制の撤廃は、自由の全面的な回復を意味しなかった。原料の小麦は輸出で得た外貨による輸入分を除けばすべて政府からの買い入れで、割当は設備能力2割・買取実績8割の比率で各工場の枠が決まる。総枠は農林省が需給を見て月ごとに決定した。原料の買い入れは公定価格で、割当枠も定まっているため、原料事情はきわめて安定していた。自由になったのは1952年以降の製品販売だけである。原料でも価格でも差がつかない産業で、各社は同じ小麦から何を作るかを競うほかなかった。 [27]

    • [27]原料小麦は政府からの買入が原則で、割当は設備能力20%・買取実績80%で各工場の枠を決定。総枠は農林省が需給を見て月々決定し、買入は公定価格。製品販売は1952年から自由化
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [22]会社銀行八十年史は1955年3月末を「十工場(うち休止中一工場)・生産能力二二、六〇〇バーレル」とするが、同書に印字された工場名の列挙は横浜・名古屋・神戸・門司・小樽(以上海工場)、久留米・高崎・小山(以上山工場)および札幌の9件しかなく、数と合わない。同書は昭和26年(1951年)に東京工場の復旧再開を記載している
    • [24]1952年に麦類の統制が撤廃され12年ぶりに完全な自由販売が再現。1954年6月に小山工場が竣工し2,300バーレルを据付、1955年3月末で工場10(うち休止1)・生産能力22,600バーレル
    • [25]1954年度の販売袋数2,111万袋・総売上高236億円で戦前水準を突破。資本金は1949年1月・12月、1952年10月と増資し1954年8月に7億2,000万円(再評価積立金1億4,400万円組入)
    • [26]社長の赤木栄は1948年1月に就任
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [23]1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場登録
    • [27]原料小麦は政府からの買入が原則で、割当は設備能力20%・買取実績80%で各工場の枠を決定。総枠は農林省が需給を見て月々決定し、買入は公定価格。製品販売は1952年から自由化

日産一二一一トンの臨海工場が抱えた倉庫業と港湾運送業

1924年に運転を始めた横浜工場は、42年を経た1966年の時点で日本製粉の中核であり続けた。1958年にスイスのビューラー社から製粉設備一式を輸入し、1965年11月には西ドイツのミアグ社からもう一組を導入して、A・B・C・Dの4ラインが常時稼働する体制になる。農林省査定による総製粉能力は日産1,211トンで、日本製粉全体の日産5,250トンの約23%を占めた。全国の総製粉能力が日産約31,000トンだったから、この一工場で国内の3.9%を担っていたことになる。 [28]

    • [28]横浜工場は大正13年(1924年)稼働開始で1966年時点で42年間稼働。昭和33年(1958年)にスイスのビューラー社、前年11月(1965年11月)にミアグ社の製粉設備一式を導入しA・B・C・Dの4ラインが常時稼働。農林省査定による総製粉能力は日産1,211トンで、日本製粉全体5,250トンの約23%、わが国全体約31,000トンの約3.9%

この工場は粉を挽くだけの場所ではなかった。サイロの収容能力は33,000トン、岸壁には1万トン級の本船が接岸し、荷揚げされる小麦は年23万トンと、日本の小麦総輸入量の約10%にあたる。バラ積みで揚がった小麦は格納した時点で政府のものであり、工場は保管の委託を受ける。ここから倉庫業が生まれ、小山や高崎など内陸の工場へ多い日で500トンを送り出す港湾運送業が加わった。年間約20万トンの小麦を加工して約700万袋の小麦粉を関東一円へ送り、東南アジア向けに年3万トン分・100万袋ほどを輸出している。職員約60名・作業員約240名・荷役労務者約200名の計約500名が働き、ミルは三交替の24時間運転、パッキングは二交替の16時間運転だった。 [29]

    • [29]横浜工場のサイロ収容能力33,000トン、荷揚げする小麦は年23万トンで日本の小麦総輸入量の約10%。年間約20万トンを加工し小麦粉約700万袋を関東一円へ、東南アジア向けに年約3万トン分・100万袋を輸出。従業員は職員約60名・作業員約240名・荷役約200名の計約500名、ミルは三交替24時間運転

原料の価格も割当量も政府が決める会社にとって、埠頭とサイロと24時間動くミルは、他社と差をつけられる数少ない場所であった。実際、当時の工場長は本船の大型化を見越して接岸設備の拡張工事を準備し、政府からの慫慂もあってサイロの増設を具体化しようとしている。競争が原料の入口ではなく荷役と物流の効率に移っていたと見てよいだろう。装置と立地に金を積む以外に、製粉事業で優位を作る方法は多くなかった。 [30]

    • [28]横浜工場は大正13年(1924年)稼働開始で1966年時点で42年間稼働。昭和33年(1958年)にスイスのビューラー社、前年11月(1965年11月)にミアグ社の製粉設備一式を導入しA・B・C・Dの4ラインが常時稼働。農林省査定による総製粉能力は日産1,211トンで、日本製粉全体5,250トンの約23%、わが国全体約31,000トンの約3.9%
    • [29]横浜工場のサイロ収容能力33,000トン、荷揚げする小麦は年23万トンで日本の小麦総輸入量の約10%。年間約20万トンを加工し小麦粉約700万袋を関東一円へ、東南アジア向けに年約3万トン分・100万袋を輸出。従業員は職員約60名・作業員約240名・荷役約200名の計約500名、ミルは三交替24時間運転
    • [30]本船の大型化(2万トンクラスの増加)に対応して接岸設備の拡張工事を準備し、政府の慫慂もありサイロ建設を具体化する見通しを1966年時点で示していた

オーマイとプレミックス、家庭と外食へ伸ばした二本の回路

1955年2月、日粉食糧株式会社を設立し、家庭用食品ブランド『オーマイ』が生まれた。同社は1983年にオーマイ株式会社へ社名を変えている。1963年に『オーマイ天ぷら粉』を発売し、1964年からはプレミックス製品の販売を始めた。小麦粉をそのまま売る商売から、調理の手前まで済ませた粉を売る商売へ、売り先の性格が変わる。1971年にはミスタードーナツ向けプレミックスの製造を始め、1973年にはクリームコロッケで冷凍食品事業に入った。1952年に統制が解けてから20年で、粉の外に出る回路が二本開いたことになる。 [31][32]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1955年2月に日粉食糧株式会社を設立し(1983年にオーマイ株式会社へ社名変更)、家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生
    • [32]1963年2月に「オーマイ天ぷら粉」発売、1964年1月にプレミックス製品発売開始、1971年2月にミスタードーナツ向けプレミックス製造開始、1973年10月に冷凍食品事業を開始(クリームコロッケ)

会社の形も、この時期に大きく枝分かれした。1951年に扇屋商店(1964年に日本商事へ社名変更)、1958年に松屋製粉、1972年にニップンドーナツ、1975年にニップン機工(現・ニップンエンジニアリング)、1976年に新日本商事、1982年に日本リッチを設立する。工場も1974年に神戸甲南、1978年に千葉、1985年に福岡、1989年に竜ヶ崎と続いた。1967年9月には本店を渋谷区へ移している。製粉の設備投資を続けながら、加工と流通と機械の子会社を並べる構えができた。 [33][34]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1951年4月に扇屋商店(1964年に日本商事へ社名変更)、1958年8月に松屋製粉、1972年10月にニップンドーナツ、1975年6月にニップン機工(現・ニップンエンジニアリング)、1976年7月に新日本商事、1982年7月に日本リッチを設立
    • [34]1974年2月に神戸甲南工場、1978年2月に千葉工場、1985年2月に福岡工場、1989年6月に竜ヶ崎工場が完成。1967年9月に本店を東京都渋谷区へ移転

1968年の記録では、日本製粉はわが国最古の製粉会社として日清製粉とともに業界を二分し、シェアは約25%だった。原料の小麦価格も製品の販売価格も政府の監督下にあるという特殊な条件のもとで、1割3分の配当を安定させている。当時は横浜工場のサイロ建設をはじめ、総額23億4,000万円の設備投資を実施中だった。安定と引き換えに、製粉事業そのものからは大きな成長を望みにくい。オーマイとプレミックスが担ったのは、この天井を外す役割である。 [35]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)
    • [35]1968年時点でわが国最古の製粉会社として日清製粉とともに業界を二分しシェアは約25%、1割3分の配当を安定させ、横浜工場のサイロ建設など総額23億4,000万円の設備投資を実施中
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1955年2月に日粉食糧株式会社を設立し(1983年にオーマイ株式会社へ社名変更)、家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生
    • [33]1951年4月に扇屋商店(1964年に日本商事へ社名変更)、1958年8月に松屋製粉、1972年10月にニップンドーナツ、1975年6月にニップン機工(現・ニップンエンジニアリング)、1976年7月に新日本商事、1982年7月に日本リッチを設立
    • [34]1974年2月に神戸甲南工場、1978年2月に千葉工場、1985年2月に福岡工場、1989年6月に竜ヶ崎工場が完成。1967年9月に本店を東京都渋谷区へ移転
    • [32]1963年2月に「オーマイ天ぷら粉」発売、1964年1月にプレミックス製品発売開始、1971年2月にミスタードーナツ向けプレミックス製造開始、1973年10月に冷凍食品事業を開始(クリームコロッケ)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)
    • [35]1968年時点でわが国最古の製粉会社として日清製粉とともに業界を二分しシェアは約25%、1割3分の配当を安定させ、横浜工場のサイロ建設など総額23億4,000万円の設備投資を実施中

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ニップンの沿革1896〜2026年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1896〜1948年水車粉の国に機械製粉を移植し、日清製粉と二社で市場を分けるまで東京深川扇橋に日本製粉を設立
国内初の欧米式機械製粉設備で小麦粉月産440トンの操業を開始
東洋製粉を合併★★
高崎工場・小山工場・神戸工場を承継
国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が竣工
小樽工場が竣工
名古屋工場が竣工
三井物産への製品一手販売の委託と、日清製粉を含む製粉共販組合の結成

大正末の設備過剰と販売競争の激化で不振に陥った日本製粉が、1927年5月に三井物産と製品一手販売契約を結んで再建に着手し、1928年10月の日清製粉との価格協約を経て、1930年4月に日清製粉・三井物産と製粉共販組合を発足させた経営判断。

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★★★
小麦粉の共同販売を開始
1949〜1989年原料も価格も国家が握る産業のなかで、粉の外へ売り先を広げた四十年東京証券取引所・大阪証券取引所に株式を上場登録
扇屋商店を設立(1964年に日本商事に商号変更)
中央研究所を新設。太平洋戦争で被災した工場の再建が完了
日粉食糧を設立
家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生★★
松屋製粉を設立
大阪製粉を合併★★
大阪工場を承継
本社を移転
ニップンドーナツを設立
神戸甲南工場が竣工
ニップン機工を設立
新日本商事を設立
千葉工場が竣工
日本リッチを設立
福岡工場が竣工
エヌピーエフジャパンを設立
竜ヶ崎工場が竣工
1990〜2013年粉を挽く会社から食品を作る会社へ、再構築と冷凍食品で組み替えた二十四年オーマイを吸収合併★★
ニップン冷食の設立と冷凍食品製造部門の分社化

1996年6月、日本製粉がニップン冷食株式会社を設立し、同年10月に冷凍食品製造部門を分社して高崎工場を移した経営判断。1973年10月にクリームコロッケで冷凍食品を始めてから23年を経て、製造の現場を本体の外へ出し、冷凍食品を独立した事業として立ち上げ直した。

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★★★
冷凍食品の製造に本格参入★★
Nippon Flour Mills(Thailand) Ltd.を設立
パスタ製造部門を分社化
パスタ製造会社Pasta Montana, L.L.C.を買収★★
ニップンドーナツ関西を設立
冷凍パスタシリーズ「オーマイプレミアム」を発売
オーケー食品工業の株式を取得
上海日粉食品有限公司のプレミックス工場が竣工
小寺春樹ナガノトマトの株式を取得
2014〜2026年社名から「製粉」の二字が消えたあとも、利益の多くを粉が稼いだ十二年小寺春樹PT.NIPPN FOODS INDONESIA を設立
小寺春樹東福製粉の株式を公開買付けにより取得★★
近藤雅之本店を現在地に移転
近藤雅之渋谷区の旧本社跡地に複合ビル「リンクスクエア新宿」が竣工
前鶴俊哉社名をニップンに変更
前鶴俊哉東福製粉を吸収合併し福岡那の津工場を承継
前鶴俊哉政策保有株式・遊休不動産の売却と、3年で最大1,400億円の設備投資への振り替え

2024年5月、ニップンは中期目標を上方修正して長期ビジョン2030を策定し、あわせて2024年度から2026年度までのキャッシュ・アロケーションを公表した。政策保有株式と遊休不動産の売却で得た資金を、3年で最大1,400億円程度という過去にない規模の事業投資へ振り替える組み立てで、2期分の売却と知多新工場の稼働まで到達している。

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★★★
前鶴俊哉大型穀物船が接岸できる立地に建設した製粉の新拠点、知多工場が竣工
出典・参考

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