ニップン

の歴史

創業

1896年

創業者

雨宮敬次郎、南条新六郎

創業地

東京市深川区東扇橋

直近売上高(2026/3)

4,184億円

長期業績と転換点(1997/3〜2026/3)
売上高(億円純利益率(%)
Q なぜ1896年に発足した日本製粉は、水車粉が9割を占める市場で機械製粉を続けられたのか
A 機械で挽いた粉は水車粉より純度が高い代わりに割高で、うどん用の在来市場では売れなかった。売り先は品質を求める陸海軍と、パンやビスケットという新しい用途に限られ、この細い需要をつかんだ工場だけが操業を続けられた。雨宮敬次郎氏が1880年ごろ東京・深川扇橋に構えた製粉所は休止し、官営工場から機械を引き継いだ会社も1891年に解散した。1893年に南条新六郎氏らが東京製粉合資会社として再興し、日清戦争の軍糧食需要で経営の基礎を固めたうえで、1896年12月に資本金30万円の日本製粉株式会社が発足した
Q なぜ1930年に日本製粉は、競争相手である日清製粉と共販組合を組んだのか
A 小麦粉は品質で差がつきにくく、設備の能力が需要を上回れば値崩れを避けられない。大正末の業界能力は大戦前の3倍に膨らみ、その8割強を日清製粉と日本製粉が握っていたから、2社が量と値を取り決めれば市況は保てた。日本製粉は1927年5月に三井物産と一手販売契約を結んで再建に入り、1928年10月に日清製粉と販売価格の協約を締結した。1930年4月には両社と三井物産が資金20万円を出し合い、製粉共販組合を発足させた。小麦粉の値を市場ではなく2社の取り決めが決めるという産業の性格は、ここで固まった。
Q なぜ2021年に日本製粉は、創立以来125年名乗った「製粉」の二字を社名から落としたのか
A 原料の小麦は政府が一手に買い入れて売り渡し、価格の改定も制度で決まるため、製粉事業そのものでは他社と差がつかない。差をつけられるのは粉の外にしかなく、1955年のオーマイ、1964年のプレミックス、1973年の冷凍食品と売り先を広げた結果、食品事業の売上は製粉の2倍に達した。創立125年にあたる2021年1月1日、社名を株式会社ニップンへ変更した。前鶴俊哉社長と澤田浩会長は、この日を「第2の創業」と呼んだ。もっとも社名変更の直後3年も、利益の半分から7割近くは製粉事業が稼いだ。

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1896年〜 水車粉の国に機械製粉を移植し、日清製粉と二社で市場を分けるまで

  1. 1896年東京深川扇橋に資本金30万円で日本製粉株式会社を設立。国内初の欧米式機械製粉設備を採用し、小麦粉月産能力440トンで操業を開始
  2. 1920年東洋製粉株式会社を合併し、高崎工場・小山工場・神戸工場とする
  3. 1924年国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
  4. 1925年小樽工場が完成
  5. 1928年本店を東京市京橋区に移転
  6. 1928年名古屋工場が完成
  7. 1930年日清製粉・三井物産と製粉共販組合を発足し、小麦粉の共同販売を始める

ニップンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

官営工場から三度持ち主を替えた機械

機械製粉の移植は、1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開いたのが最初である。前年に渡仏した松方正義氏が購入した、能力15バーレルの蒸気動力による石うす式製粉機2台をここに据えた。しかし工場は見るべき業績をあげられず、1884年ごろ、機械は薩摩および越前の旧藩士たちが組織した会社に払い下げられる。彼らは初め東京・京橋南小田原町に工場を設けたが、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎氏が持つ建物へ移った。雨宮氏はアメリカの機械製粉を見聞し、1880年ごろ同じ場所に工場を設けたものの、すでに休止していた。 [1][2]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [1]1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開設。松方正義が渡仏して購入した能力15バーレルの蒸気動力石うす式製粉機2台を据え付けた
    • [2]官営工場の機械は1884年ごろ薩摩・越前の旧藩士が組織した会社(社長 野村忍助)へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎所有の建物へ工場を移した。雨宮は明治13年(1880年)ごろ同所に工場を設けたが明治21年(1888年)に休止していた

機械で挽いた粉の売り先は、ほとんどが陸海軍だった。一般の市場では、水車で挽いた粉の勢力に対抗できない。経営成績は上がらず、会社は1891年に解散して工場は近江出身の商人島万次郎氏の手に移るが、島氏もまた失敗する。1893年、旧館林藩士で第四十銀行頭取の南条新六郎氏、第三十九銀行の長尾三十郎氏、島氏と関係の深かった境豊吉氏らがこれを受け継ぎ、工場を母体として東京製粉合資会社を設立した。同社は軍需だけに頼らず、東京の雑穀商立川健蔵氏の協力を得て民間の販路を開き、日清戦争による軍糧食の需要増加をとらえて足場を固めた。 [3][4]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [3]1891年に会社解散、工場は島万次郎へ移り、1893年に南条新六郎・長尾三十郎・境豊吉らが受け継いで東京製粉合資会社を設立した
    • [4]機械粉は主に陸海軍へ納入し、一般市場では水車粉に対抗できなかった。東京製粉合資会社は雑穀商立川健蔵の協力で民間販路を開き、日清戦争の軍糧食需要で基礎を固めた

1896年12月、東京製粉合資会社の資産を継承し、資本金30万円の日本製粉株式会社が発足した。本店工場は深川区東扇橋、製粉能力は200バーレルにすぎない。同じ1896年、国内の小麦粉供給量の89%はなお水車粉であり、輸入メリケン粉と国内の機械粉はともに低い地位に置かれていた。官営工場から数えて四度目の持ち主が、ようやく事業として続く形を得たことになる。日本最古の機械製粉会社という位置は、成功の連続ではなく、三度の行き詰まりの上に立っている。 [5][6][7]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1896年12月に東京深川扇橋で日本製粉株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [6]1896年に東京製粉合資会社を改組し資本金30万円で新発足、本店工場は深川区東扇橋、製粉能力200バーレル
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [7]1896年時点で国内小麦粉供給量の89%が水車粉で、輸入メリケン粉と国内機械粉の地位は低かった
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
    • [1]1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開設。松方正義が渡仏して購入した能力15バーレルの蒸気動力石うす式製粉機2台を据え付けた
    • [2]官営工場の機械は1884年ごろ薩摩・越前の旧藩士が組織した会社(社長 野村忍助)へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎所有の建物へ工場を移した。雨宮は明治13年(1880年)ごろ同所に工場を設けたが明治21年(1888年)に休止していた
    • [3]1891年に会社解散、工場は島万次郎へ移り、1893年に南条新六郎・長尾三十郎・境豊吉らが受け継いで東京製粉合資会社を設立した
    • [4]機械粉は主に陸海軍へ納入し、一般市場では水車粉に対抗できなかった。東京製粉合資会社は雑穀商立川健蔵の協力で民間販路を開き、日清戦争の軍糧食需要で基礎を固めた
    • [7]1896年時点で国内小麦粉供給量の89%が水車粉で、輸入メリケン粉と国内機械粉の地位は低かった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [5]1896年12月に東京深川扇橋で日本製粉株式会社を設立
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [6]1896年に東京製粉合資会社を改組し資本金30万円で新発足、本店工場は深川区東扇橋、製粉能力200バーレル

買収で工場を集め、二社で能力の八割を占めた大正期

機械製粉が勃興する気運に乗り、日本製粉は工場を次々に増やした。1904年に扇橋第二工場を新設し、1907年に明治製粉(小名木工場)を吸収合併すると同時に兵庫工場を設け、1909年には帝国製粉(砂町工場)を合併する。明治末には工場5、製粉能力2,500バーレル、資本金155万円に達した。1914年の欧州大戦で小麦粉の需要が増え、外国小麦の輸入も途絶えて国内市場は活況を呈する。同年4月に久留米工場を新設し、1920年には東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉を合併して神戸・高崎・小山・門司・札幌の5工場を、同じ年に東北製粉を合併して仙台工場を加えた。 [8][9]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [8]1907年に明治製粉(小名木工場)、1909年に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併し、明治末には工場5・製粉能力2,500バーレル・資本金155万円となった
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1920年3月〜4月に東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉・東北製粉を合併し、高崎・小山・神戸・門司・札幌の各工場と仙台工場を加えた(会社銀行八十年史は大正8年と記すが、有価証券報告書【沿革】および公式沿革は1920年3月とする)

1924年5月、国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成する。翌1925年には小樽工場を新設し、東亜製粉の合併で東京工場を増やした。1926年末の陣容は工場11、製粉能力16,100バーレル、資本金1,230万円。この間に業界全体の能力も膨らみ、1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルと大戦前の3倍を超えたが、その80%強を日清製粉と日本製粉の2社が握っていた。小麦粉の消費はパン用の強力粉と菓子用の薄力粉で伸びたものの、工場能力の増加がそれを上回り、過剰生産の傾向が強まる。 [10][11][12]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [10]1924年5月に国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [11]1926年末に工場11・製粉能力16,100バーレル・資本金1,230万円
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [12]1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルで大戦前の3倍以上、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた

過剰能力への答えは、増産の停止と価格の取り決めだった。1926年5月、日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を結ぶ。日清と日本は同率の操短率を課され、1928年5月の期限まで生産の40〜60%を止めた。日本製粉はこれと並行して、1927年5月に三井物産と製品の一手販売契約を結んで再建に着手し、1928年10月には日清製粉と販売価格の協約を締結する。1930年の金輸出解禁で経済界が混乱すると、両社と、日本製粉の製品を委託販売していた三井物産の代表が協議し、同年4月1日に製粉共販組合を発足させた。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出している。1931年4月には日東製粉も加わり、名古屋以東の販売機関として東部製粉共販組合が組織された。関西の増田や大阪製粉は最後まで加わらなかったが、両組合は1935年7月の解散まで市況の維持に働いた。市場を広げるより、市場を分け合って価格を保つ枠組みに、この産業は早くから入っている。 [13][14][15][16]

  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [13]1926年5月に日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を締結。日清・日本両社は同率で1926年6月から1927年4月まで50〜60%、1928年5月の期限まで40%の操短
    • [15]1930年4月1日に製粉共販組合が発足。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資
    • [16]1931年4月に日東製粉が共販事業に参加し東部製粉共販組合を組織、増田・大阪製粉らはアウトサイダーとして牽制、両共販組合は1935年7月に解散
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [14]1927年5月に三井物産と製品一手販売に関する契約を締結して再建に着手、1928年10月に日清製粉と販売価格に関する協約を締結
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [8]1907年に明治製粉(小名木工場)、1909年に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併し、明治末には工場5・製粉能力2,500バーレル・資本金155万円となった
    • [11]1926年末に工場11・製粉能力16,100バーレル・資本金1,230万円
    • [14]1927年5月に三井物産と製品一手販売に関する契約を締結して再建に着手、1928年10月に日清製粉と販売価格に関する協約を締結
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [9]1920年3月〜4月に東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉・東北製粉を合併し、高崎・小山・神戸・門司・札幌の各工場と仙台工場を加えた(会社銀行八十年史は大正8年と記すが、有価証券報告書【沿革】および公式沿革は1920年3月とする)
    • [10]1924年5月に国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [12]1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルで大戦前の3倍以上、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた
    • [13]1926年5月に日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を締結。日清・日本両社は同率で1926年6月から1927年4月まで50〜60%、1928年5月の期限まで40%の操短
    • [15]1930年4月1日に製粉共販組合が発足。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資
    • [16]1931年4月に日東製粉が共販事業に参加し東部製粉共販組合を組織、増田・大阪製粉らはアウトサイダーとして牽制、両共販組合は1935年7月に解散

大陸への進出と、価格を国家に預けた十五年

満州事変の後に市価は騰勢へ向かい、大陸向けの輸出が激増する。輸出先はおもに中国北部で、アメリカやカナダの製品と競いながら市場を広げた。1928年に名古屋工場を新設し、1935年には仁川工場が竣工する。1936年2月に青島で東亜製粉を設立し、同年7月には満州製粉から鎮南浦・沙里院の両工場を買収した。1937年2月には奉天に東洋製粉股份有限公司を設立する。日中戦争が始まると大陸への進出はさらに進み、1938年に上海で三興麺粉公司を、1940年に漢口で漢口製粉を設立した。 [17][18]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [17]1928年に名古屋工場を新設、1935年に仁川工場竣工、1936年2月に青島で東亜製粉を設立、同年7月に満州製粉から鎮南浦・沙里院両工場を買収、1937年2月に奉天で東洋製粉股份有限公司を設立、1938年に上海で三興麺粉公司、1940年に漢口製粉を設立
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [18]満州事変以後は満州・朝鮮市場が拡大し、1935年前後から内地製粉会社の大陸資本進出が活発になった

1940年1月、農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決まり、小麦粉は全国製粉配給が一括して配給し、麩は飼料配給の一手販売となった。1942年7月の食糧管理法施行で、業界は政府の強い統制下に置かれる。1944年の企業整備令によって久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止し、1945年3月には東京・名古屋の両工場が戦災を受けた。終戦にともなって外地の工場をすべて失い、残ったのは5工場・設備能力7,466バーレルで、戦前能力の34%にとどまる。価格の自由を国家に預けた15年の末に、会社は三分の一の規模になっていた。 [19][20]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [19]1940年1月の農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決定し、全国製粉配給が一括配給、麩は飼料配給の一手配給となった。1942年7月に食糧管理法施行
    • [20]1944年の企業整備令で久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止、1945年3月に東京・名古屋両工場が戦災。終戦で外地工場を全面喪失し、残存5工場・設備能力7,466バーレル(戦前能力の34%)

終戦直後、日本製粉は財閥関係の制限会社に指定され、1946年8月には特別経理会社の指定を受ける。1948年には過度経済力集中排除法による指定も加わり、再建は難しさを増した。それでも1945年に名古屋工場と小山工場、1946年に久留米工場、1947年に神戸工場の復旧を果たす。1949年に集排法の指定が取り消されると諸指定も順次解除され、1951年には東京工場の復旧再開にこぎつけた。制度に縛られた復興という点で、戦中と戦後の連続性は強い。 [21]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [21]終戦直後に制限会社、1946年8月に特別経理会社、1948年に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年の集排法指定取消後に諸指定が解除。工場復旧は1945年名古屋・小山、1946年久留米、1947年神戸、1951年東京
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [17]1928年に名古屋工場を新設、1935年に仁川工場竣工、1936年2月に青島で東亜製粉を設立、同年7月に満州製粉から鎮南浦・沙里院両工場を買収、1937年2月に奉天で東洋製粉股份有限公司を設立、1938年に上海で三興麺粉公司、1940年に漢口製粉を設立
    • [19]1940年1月の農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決定し、全国製粉配給が一括配給、麩は飼料配給の一手配給となった。1942年7月に食糧管理法施行
    • [20]1944年の企業整備令で久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止、1945年3月に東京・名古屋両工場が戦災。終戦で外地工場を全面喪失し、残存5工場・設備能力7,466バーレル(戦前能力の34%)
    • [21]終戦直後に制限会社、1946年8月に特別経理会社、1948年に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年の集排法指定取消後に諸指定が解除。工場復旧は1945年名古屋・小山、1946年久留米、1947年神戸、1951年東京
  • 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
    • [18]満州事変以後は満州・朝鮮市場が拡大し、1935年前後から内地製粉会社の大陸資本進出が活発になった

1949年〜 原料も価格も国家が握る産業のなかで、粉の外へ売り先を広げた四十年

  1. 1949年東京証券取引所および大阪証券取引所に株式を上場登録
  2. 1951年株式会社扇屋商店を設立(1964年に日本商事株式会社へ社名変更)
  3. 1952年中央研究所を設置。太平洋戦争で被災した工場の再建が完了
  4. 1955年日粉食糧株式会社を設立し(1983年にオーマイ株式会社へ社名変更)、家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生
  5. 1958年松屋製粉株式会社を設立
  6. 1960年大阪製粉株式会社を合併し、大阪工場とする
  7. 1972年ニップンドーナツ株式会社を設立

ニップンの業績推移:単体

売上高(億円)

出所:有価証券報告書等

統制撤廃後も残った割当制と、二二、六〇〇バーレルへの復元

1949年5月、日本製粉は東京証券取引所と大阪証券取引所に株式を上場登録した。戦後の極度の食糧難を反映して外国小麦が大量に輸入され、これにともなって製粉工場が乱立し、のちの設備過剰の因をつくる。食糧事情が好転すると1952年に麦類の統制が撤廃され、1940年以来12年ぶりに完全な自由販売が戻った。1954年6月には懸案だった小山工場が竣工し、2,300バーレルの据付を終える。1955年3月末で工場は10(うち休止1)、生産能力は22,600バーレルとなった。 [22][23][24]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場登録
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [23]1952年に麦類の統制が撤廃され12年ぶりに完全な自由販売が再現。1954年6月に小山工場が竣工し2,300バーレルを据付、1955年3月末で工場10(うち休止1)・生産能力22,600バーレル
    • [24]会社銀行八十年史は1955年3月末を「十工場(うち休止中一工場)・生産能力二二、六〇〇バーレル」とするが、同書に印字された工場名の列挙は横浜・名古屋・神戸・門司・小樽(以上海工場)、久留米・高崎・小山(以上山工場)および札幌の9件しかなく、数と合わない。同書は昭和26年(1951年)に東京工場の復旧再開を記載している

1954年度の販売袋数は2,111万袋、総売上高は236億円に達し、戦前の水準を大きく超えた。資本金も1949年1月と12月、1952年10月と増資を重ね、1954年8月には再評価積立金1億4,400万円を組み入れて7億2,000万円となる。1948年1月に就任した赤木栄社長のもとで、戦災と諸指定で縮んだ会社は10年ほどで戦前を上回る規模に戻った。ただし戻ったのは規模であって、事業の中身は小麦粉を挽いて売ることに変わりない。 [25][26]

  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [25]1954年度の販売袋数2,111万袋・総売上高236億円で戦前水準を突破。資本金は1949年1月・12月、1952年10月と増資し1954年8月に7億2,000万円(再評価積立金1億4,400万円組入)
    • [26]社長の赤木栄は1948年1月に就任

統制の撤廃は、自由の全面的な回復を意味しなかった。原料の小麦は輸出で得た外貨による輸入分を除けばすべて政府からの買い入れで、割当は設備能力2割・買取実績8割の比率で各工場の枠が決まる。総枠は農林省が需給を見て月ごとに決定した。原料の買い入れは公定価格で、割当枠も定まっているため、原料事情はきわめて安定していた。自由になったのは1952年以降の製品販売だけである。原料でも価格でも差がつかない産業で、各社は同じ小麦から何を作るかを競うほかなかった。 [27]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [22]1949年5月に東京・大阪の両証券取引所へ株式を上場登録
  • 会社銀行八十年史(1955年)
    • [23]1952年に麦類の統制が撤廃され12年ぶりに完全な自由販売が再現。1954年6月に小山工場が竣工し2,300バーレルを据付、1955年3月末で工場10(うち休止1)・生産能力22,600バーレル
    • [24]会社銀行八十年史は1955年3月末を「十工場(うち休止中一工場)・生産能力二二、六〇〇バーレル」とするが、同書に印字された工場名の列挙は横浜・名古屋・神戸・門司・小樽(以上海工場)、久留米・高崎・小山(以上山工場)および札幌の9件しかなく、数と合わない。同書は昭和26年(1951年)に東京工場の復旧再開を記載している
    • [25]1954年度の販売袋数2,111万袋・総売上高236億円で戦前水準を突破。資本金は1949年1月・12月、1952年10月と増資し1954年8月に7億2,000万円(再評価積立金1億4,400万円組入)
    • [26]社長の赤木栄は1948年1月に就任
    • [27]原料小麦は政府からの買入が原則で、割当は設備能力20%・買取実績80%で各工場の枠を決定。総枠は農林省が需給を見て月々決定し、買入は公定価格。製品販売は1952年から自由化

日産一二一一トンの臨海工場が抱えた倉庫業と港湾運送業

1924年に運転を始めた横浜工場は、42年を経た1966年の時点で日本製粉の中核であり続けた。1958年にスイスのビューラー社から製粉設備一式を輸入し、1965年11月には西ドイツのミアグ社からもう一組を導入して、A・B・C・Dの4ラインが常時稼働する体制になる。農林省査定による総製粉能力は日産1,211トンで、日本製粉全体の日産5,250トンの約23%を占めた。全国の総製粉能力が日産約31,000トンだったから、この一工場で国内の3.9%を担っていたことになる。 [28]

    • [28]横浜工場は大正13年(1924年)稼働開始で1966年時点で42年間稼働。昭和33年(1958年)にスイスのビューラー社、前年11月(1965年11月)にミアグ社の製粉設備一式を導入しA・B・C・Dの4ラインが常時稼働。農林省査定による総製粉能力は日産1,211トンで、日本製粉全体5,250トンの約23%、わが国全体約31,000トンの約3.9%

この工場は粉を挽くだけの場所ではなかった。サイロの収容能力は33,000トン、岸壁には1万トン級の本船が接岸し、荷揚げされる小麦は年23万トンと、日本の小麦総輸入量の約10%にあたる。バラ積みで揚がった小麦は格納した時点で政府のものであり、工場は保管の委託を受ける。ここから倉庫業が生まれ、小山や高崎など内陸の工場へ多い日で500トンを送り出す港湾運送業が加わった。年間約20万トンの小麦を加工して約700万袋の小麦粉を関東一円へ送り、東南アジア向けに年3万トン分・100万袋ほどを輸出している。職員約60名・作業員約240名・荷役労務者約200名の計約500名が働き、ミルは三交替の24時間運転、パッキングは二交替の16時間運転だった。 [29]

    • [29]横浜工場のサイロ収容能力33,000トン、荷揚げする小麦は年23万トンで日本の小麦総輸入量の約10%。年間約20万トンを加工し小麦粉約700万袋を関東一円へ、東南アジア向けに年約3万トン分・100万袋を輸出。従業員は職員約60名・作業員約240名・荷役約200名の計約500名、ミルは三交替24時間運転

原料の価格も割当量も政府が決める会社にとって、埠頭とサイロと24時間動くミルは、他社と差をつけられる数少ない場所であった。実際、当時の工場長は本船の大型化を見越して接岸設備の拡張工事を準備し、政府からの慫慂もあってサイロの増設を具体化しようとしている。競争が原料の入口ではなく荷役と物流の効率に移っていたと見てよいだろう。装置と立地に金を積む以外に、製粉事業で優位を作る方法は多くなかった。 [30]

    • [28]横浜工場は大正13年(1924年)稼働開始で1966年時点で42年間稼働。昭和33年(1958年)にスイスのビューラー社、前年11月(1965年11月)にミアグ社の製粉設備一式を導入しA・B・C・Dの4ラインが常時稼働。農林省査定による総製粉能力は日産1,211トンで、日本製粉全体5,250トンの約23%、わが国全体約31,000トンの約3.9%
    • [29]横浜工場のサイロ収容能力33,000トン、荷揚げする小麦は年23万トンで日本の小麦総輸入量の約10%。年間約20万トンを加工し小麦粉約700万袋を関東一円へ、東南アジア向けに年約3万トン分・100万袋を輸出。従業員は職員約60名・作業員約240名・荷役約200名の計約500名、ミルは三交替24時間運転
    • [30]本船の大型化(2万トンクラスの増加)に対応して接岸設備の拡張工事を準備し、政府の慫慂もありサイロ建設を具体化する見通しを1966年時点で示していた

オーマイとプレミックス、家庭と外食へ伸ばした二本の回路

1955年2月、日粉食糧株式会社を設立し、家庭用食品ブランド「オーマイ」が生まれた。同社は1983年にオーマイ株式会社へ社名を変えている。1963年に「オーマイ天ぷら粉」を発売し、1964年からはプレミックス製品の販売を始めた。小麦粉をそのまま売る商売から、調理の手前まで済ませた粉を売る商売へ、売り先の性格が変わる。1971年にはミスタードーナツ向けプレミックスの製造を始め、1973年にはクリームコロッケで冷凍食品事業に入った。1952年に統制が解けてから20年で、粉の外に出る回路が二本開いたことになる。 [31][32]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1955年2月に日粉食糧株式会社を設立し(1983年にオーマイ株式会社へ社名変更)、家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生
    • [32]1963年2月に「オーマイ天ぷら粉」発売、1964年1月にプレミックス製品発売開始、1971年2月にミスタードーナツ向けプレミックス製造開始、1973年10月に冷凍食品事業を開始(クリームコロッケ)

会社の形も、この時期に大きく枝分かれした。1951年に扇屋商店(1964年に日本商事へ社名変更)、1958年に松屋製粉、1972年にニップンドーナツ、1975年にニップン機工(現・ニップンエンジニアリング)、1976年に新日本商事、1982年に日本リッチを設立する。工場も1974年に神戸甲南、1978年に千葉、1985年に福岡、1989年に竜ヶ崎と続いた。1967年9月には本店を渋谷区へ移している。製粉の設備投資を続けながら、加工と流通と機械の子会社を並べる構えができた。 [33][34]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [33]1951年4月に扇屋商店(1964年に日本商事へ社名変更)、1958年8月に松屋製粉、1972年10月にニップンドーナツ、1975年6月にニップン機工(現・ニップンエンジニアリング)、1976年7月に新日本商事、1982年7月に日本リッチを設立
    • [34]1974年2月に神戸甲南工場、1978年2月に千葉工場、1985年2月に福岡工場、1989年6月に竜ヶ崎工場が完成。1967年9月に本店を東京都渋谷区へ移転

1968年の記録では、日本製粉はわが国最古の製粉会社として日清製粉とともに業界を二分し、シェアは約25%だった。原料の小麦価格も製品の販売価格も政府の監督下にあるという特殊な条件のもとで、1割3分の配当を安定させている。当時は横浜工場のサイロ建設をはじめ、総額23億4,000万円の設備投資を実施中だった。安定と引き換えに、製粉事業そのものからは大きな成長を望みにくい。オーマイとプレミックスが担ったのは、この天井を外す役割である。 [35]

  • 企業の歴史 明治百年(1968年)
    • [35]1968年時点でわが国最古の製粉会社として日清製粉とともに業界を二分しシェアは約25%、1割3分の配当を安定させ、横浜工場のサイロ建設など総額23億4,000万円の設備投資を実施中
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [31]1955年2月に日粉食糧株式会社を設立し(1983年にオーマイ株式会社へ社名変更)、家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生
    • [33]1951年4月に扇屋商店(1964年に日本商事へ社名変更)、1958年8月に松屋製粉、1972年10月にニップンドーナツ、1975年6月にニップン機工(現・ニップンエンジニアリング)、1976年7月に新日本商事、1982年7月に日本リッチを設立
    • [34]1974年2月に神戸甲南工場、1978年2月に千葉工場、1985年2月に福岡工場、1989年6月に竜ヶ崎工場が完成。1967年9月に本店を東京都渋谷区へ移転
    • [32]1963年2月に「オーマイ天ぷら粉」発売、1964年1月にプレミックス製品発売開始、1971年2月にミスタードーナツ向けプレミックス製造開始、1973年10月に冷凍食品事業を開始(クリームコロッケ)
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)
    • [35]1968年時点でわが国最古の製粉会社として日清製粉とともに業界を二分しシェアは約25%、1割3分の配当を安定させ、横浜工場のサイロ建設など総額23億4,000万円の設備投資を実施中

1990年〜 粉を挽く会社から食品を作る会社へ、再構築と冷凍食品で組み替えた二十四年

  1. 1990年オーマイ株式会社を吸収合併し、厚木工場・加古川工場とする
  2. 1995年株式会社ファーストフーズの株式を取得
  3. 1996年ニップン冷食株式会社を設立し、冷凍食品の製造に本格参入
  4. 1996年タイに Nippon Flour Mills(Thailand) Ltd.(現・NIPPN FOODS CORPORATION (THAILAND) LTD.)を設立
  5. 1996年冷凍食品製造部門を分社化し、高崎工場をニップン冷食株式会社高崎工場とする
  6. 2000年米国のパスタ製造会社 Pasta Montana, L.L.C. を買収。あわせてニップンドーナツ関西株式会社を設立
  7. 2013年株式会社ナガノトマトの株式を取得

ニップンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

分社と再統合を繰り返した子会社の再編

1990年10月、オーマイ株式会社を吸収合併し、同社の設備を厚木工場・加古川工場とした。1955年に別会社として始めた家庭用食品を、35年かけて本体へ取り込んだ形になる。1991年には中食事業に入り、1993年10月には全社的な再構築に着手する。1995年1月の阪神淡路大震災で神戸甲南工場が被災すると、同年12月に完全復旧させた。1996年7月の創立100周年に際しては、コミュニケーションネーム「NIPPN」を発表している。会社の呼び名を先に変え、法人の名前は25年後まで据え置いた。 [36][37]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1990年10月にオーマイ株式会社を吸収合併し厚木工場・加古川工場とした
    • [37]1991年3月に中食事業へ進出、1993年10月に全社的再構築を開始、1995年1月の阪神淡路大震災で神戸甲南工場が被災し同年12月に完全復興、1996年7月の創立100周年にコミュニケーションネーム「NIPPN」を発表

事業の単位は、合併と分社を往復しながら組み替えられた。1998年3月にオーマイ株式会社を再び設立し、同年4月にパスタ製造部門を分社して厚木・加古川の両工場を新会社へ移す。合併から8年で、同じ名前の会社を作り直したことになる。商事部門も1996年6月に日本商事が新日本商事を吸収して新日本商事となり、1998年7月には同社がプロスを吸収してニップン商事へ改称した。1995年4月にはファーストフーズの株式を取得している。製粉の本体は動かさず、周辺の子会社を組み替えることで事業の構成を変えた。 [38][39]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [38]1998年3月にオーマイ株式会社を設立、同年4月にパスタ製造部門を分社化して厚木工場・加古川工場をオーマイの工場とした
    • [39]1996年6月に日本商事が新日本商事を吸収合併して新日本商事に社名変更、1998年7月に同社がプロスを吸収合併してニップン商事へ社名変更、1995年4月にファーストフーズの株式を取得
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [36]1990年10月にオーマイ株式会社を吸収合併し厚木工場・加古川工場とした
    • [38]1998年3月にオーマイ株式会社を設立、同年4月にパスタ製造部門を分社化して厚木工場・加古川工場をオーマイの工場とした
    • [39]1996年6月に日本商事が新日本商事を吸収合併して新日本商事に社名変更、1998年7月に同社がプロスを吸収合併してニップン商事へ社名変更、1995年4月にファーストフーズの株式を取得
    • [37]1991年3月に中食事業へ進出、1993年10月に全社的再構築を開始、1995年1月の阪神淡路大震災で神戸甲南工場が被災し同年12月に完全復興、1996年7月の創立100周年にコミュニケーションネーム「NIPPN」を発表

冷凍食品と海外、一九九六年に開いた二つの回路

1996年6月、ニップン冷食株式会社を設立し、冷凍食品の製造へ本格的に参入した。同年11月にはタイに Nippon Flour Mills (Thailand) Ltd.(現・NIPPN FOODS CORPORATION (THAILAND) LTD.)を設立し、初の海外拠点を置く。2000年5月には米国のパスタ製造会社 Pasta Montana, L.L.C. を買収した。小麦の産地に工場を持ち、そこでパスタまで作って持ち帰る形になる。原料を政府から割り当てられる国内事業とは、費用の構造がまったく異なる事業を抱えた。 [40]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1996年6月にニップン冷食株式会社を設立して冷凍食品の製造に本格参入、同年11月にタイへ Nippon Flour Mills(Thailand) Ltd.(現・NIPPN FOODS CORPORATION (THAILAND) LTD.)を設立、2000年5月に米国で Pasta Montana, L.L.C. を買収

2003年に冷凍パスタシリーズ「オーマイプレミアム」を発売し、同年10月にはオーケー食品工業の株式を取得する。2006年3月にタイで NIPPN(Thailand) Co.,Ltd.、同年6月に米国で NIPPN California Inc. を設立した。2013年9月には長野県のナガノトマトを傘下に収める。トマト加工品は小麦とまったく別の原料であり、パスタソースを通じて自社の麺と組み合わせられる。買収の狙いが原料の分散と製品の組み合わせの両方にあった点で、それまでの子会社設立とは性格が違っていた。 [41]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [41]2003年に冷凍パスタシリーズ「オーマイプレミアム」を発売、2003年10月にオーケー食品工業の株式を取得、2006年3月にNIPPN(Thailand) Co.,Ltd.、同年6月にNIPPN California Inc.を設立、2013年9月にナガノトマトの株式を取得

数字にもそれは表れている。連結売上高は2002年3月期の2,079億円から2014年3月期の2,871億円へ38%増え、経常利益は38億円から122億円へ3.2倍になった。年率にすれば売上は3%弱の伸びで、派手さはない。原料と価格の枠が国内で動かない以上、伸びしろは冷凍食品と海外と買収先にしかなく、そのすべてがこの期間に仕込まれている。オーマイの合併で家庭用を本体に取り込み、ニップン冷食で冷凍食品の製造を起こし、Pasta Montana で原料の産地に出て、ナガノトマトで小麦以外の原料を持つ。四つの手が、二十数年に分けて打たれた。

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [40]1996年6月にニップン冷食株式会社を設立して冷凍食品の製造に本格参入、同年11月にタイへ Nippon Flour Mills(Thailand) Ltd.(現・NIPPN FOODS CORPORATION (THAILAND) LTD.)を設立、2000年5月に米国で Pasta Montana, L.L.C. を買収
    • [41]2003年に冷凍パスタシリーズ「オーマイプレミアム」を発売、2003年10月にオーケー食品工業の株式を取得、2006年3月にNIPPN(Thailand) Co.,Ltd.、同年6月にNIPPN California Inc.を設立、2013年9月にナガノトマトの株式を取得

2014年〜 社名から「製粉」の二字が消えたあとも、利益の多くを粉が稼いだ十二年

  1. 2014年東福製粉株式会社の株式を公開買付けにより取得
  2. 2019年渋谷区の旧本社跡地を三菱地所などと共同開発した複合ビル「リンクスクエア新宿」が竣工し、賃貸不動産となる
  3. 2021年社名を株式会社ニップンに変更
  4. 2021年東福製粉株式会社を吸収合併して福岡那の津工場とし、ニップン冷食株式会社から冷凍食品製造事業を譲り受けて伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とする
  5. 2022年オーケー食品工業株式会社の株式を追加取得し、完全子会社とする
  6. 2024年中期目標を売上高4,500億円・営業利益210億円へ上方修正し、長期ビジョン2030を策定
  7. 2026年大型穀物船が接岸できる立地に建設した製粉の新拠点、知多工場が完成

ニップンの業績推移:単体

売上高(億円)純利益率(%)

出所:有価証券報告書等

売上の三分の二は食品、利益の三分の二は製粉

2015年3月期のセグメント別売上高は、製粉事業1,017億円に対して食品事業1,666億円で、食品が62%を占めた。2026年3月期には製粉1,200億円・食品2,437億円となり、比率は33%対67%になる。オーマイから数えて60年、冷凍食品参入から20年をかけて、粉の外の商売が本体の二倍の規模に育った。ところが利益の構成は逆へ動く。セグメント利益は2021年3月期が製粉51億円・食品43億円、2022年3月期が製粉62億円・食品41億円、2023年3月期が製粉75億円・食品34億円で、製粉の比率は55%から69%へ上がっている。売上では三分の一に縮んだ事業が、利益では三分の二を稼ぐ。社名から製粉の二字が消えた直後の三年間、会社を支えていたのは粉を挽く商売だった。

利益がこのように動く理由は、小麦の流通制度にある。国内で消費される小麦の約9割は輸入で、政府が国家貿易で買い入れて製粉会社へ売り渡す。1980年以降の内外麦コストプール方式は2007年度に廃止され、過去一定期間の政府買付価格の平均に港湾諸経費とマークアップを加えた売渡価格を年2回改定する相場連動制へ移った。ニップンは半期ごとに改定される政府売渡価格の変動に応じて小麦粉価格を改定している。政府売渡価格は半期ごとに改定され、2021年4月の51,930円は1年後の2022年4月に72,530円と約4割高くなり、2026年4月は62,520円まで戻った。原料高は時間差を置いて製品価格へ移る一方、冷凍食品や中食は小売との交渉を挟むため転嫁に時間がかかる。 [42][43]

  • ニップン「製粉業界の現状」(2026年4月)
    • [42]政府売渡価格は1980年以降「内外麦コストプール方式」で決定されていたが、政府標準売渡価格が廃止され2007年に相場連動制(直近6か月間の平均買付価格から機械的に算定、年2回改定)へ移行した。5銘柄加重平均(税込)は2021年4月期51,930円/トン、2026年4月期62,520円/トン(前期比+2.5%)
    • [43]表7「政府売渡価格推移と改定率(前期比)の推移」では、+17.3%は22年4月期の前期比改定率(直前の21年10月期61,820円に対するもの)。21年4月期51,930円と22年4月期72,530円の差は約+39.7%であり、17.3%ではない

この偏りは固定していない。2025年3月期は製粉92億円・食品93億円、2026年3月期は製粉95億円・食品91億円と、両者はほぼ並んだ。冷凍食品と中食の採算が戻り、食品事業は売上でも利益でも製粉と肩を並べる規模になっている。会社は2026年度のセグメント計画で製粉68億円に対し食品114億円と、利益の主軸が食品へ移る姿を描く。もっとも、原料価格が動くたびに二つの事業の利益は入れ替わってきた。食品への転換が完了したと言えるのは、小麦相場が一巡してもこの均衡が崩れないと確かめられた後になるだろう。 [44]

  • ニップン統合報告書2025
    • [44]2026年度のセグメント計画は売上が製粉1,390億円・食品2,610億円・その他500億円、営業利益は製粉68億円・食品114億円
  • ニップン「製粉業界の現状」(2026年4月)
    • [42]政府売渡価格は1980年以降「内外麦コストプール方式」で決定されていたが、政府標準売渡価格が廃止され2007年に相場連動制(直近6か月間の平均買付価格から機械的に算定、年2回改定)へ移行した。5銘柄加重平均(税込)は2021年4月期51,930円/トン、2026年4月期62,520円/トン(前期比+2.5%)
    • [43]表7「政府売渡価格推移と改定率(前期比)の推移」では、+17.3%は22年4月期の前期比改定率(直前の21年10月期61,820円に対するもの)。21年4月期51,930円と22年4月期72,530円の差は約+39.7%であり、17.3%ではない
  • ニップン統合報告書2025
    • [44]2026年度のセグメント計画は売上が製粉1,390億円・食品2,610億円・その他500億円、営業利益は製粉68億円・食品114億円

創立百二十五年に落とした「製粉」の二字

2021年1月1日、社名を株式会社ニップンに変更した。1896年の創立から125年にあたる年である。会社は変更の理由を、製粉事業を基盤に食品・中食・ヘルスケアの各事業へ多角化を進めてきたとしたうえで、「多角的総合食品企業として更なる成長を遂げるため、創立125年を迎えるこの年に大きく生まれ変わる決意をこめ、会社名の変更に至りました」と説明している。前鶴俊哉社長と澤田浩会長は連名のメッセージで、この日を「第2の創業」と呼んだ。実態としては食品事業が製粉事業の2倍の売上規模に育っており、1996年に掲げたコミュニケーションネームへ、法人の名前が25年遅れて追いついた形になる。 [45][46][47]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [45]2021年1月1日付で社名を日本製粉株式会社から株式会社ニップンへ変更
  • 有価証券報告書(2021年3月期)
    • [46]社名変更の理由として「多角的総合食品企業として更なる成長を遂げるため、創立125年を迎えるこの年に大きく生まれ変わる決意をこめ、会社名の変更に至りました」と有価証券報告書に記載
  • ニップンレポート2020
    • [47]前鶴俊哉社長と澤田浩会長が連名メッセージで2021年1月1日を「第2の創業」と位置づけ、社名変更の背景として食品事業が製粉事業の2倍の売上規模まで成長したことを挙げた

名前を変えた年度は、業績にとって平坦ではなかった。2021年3月期の売上高は3,295億円で前期比95.6%、営業利益は103億円で同93.1%にとどまる。なお翌期からの収益認識基準の適用にともない、この期の売上高はのちに2,883億円へ組み替えられている。外食業界を中心とした需要の低迷とインバウンド需要の減少に加え、前年1月に実施した価格引き下げが響き、小麦粉の売上高は前年度を下回った。それでも設備投資は止めず、福岡工場のプレミックス工場が2020年10月に、伊勢崎工場の冷凍食品第2工場とタイの冷凍生地製造工場が同年11月に竣工している。 [48][49][50]

  • 有価証券報告書(2021年3月期)
    • [48]2021年3月期の売上高は329,566百万円(前期比95.6%)、営業利益10,331百万円(同93.1%)、経常利益12,620百万円(同99.1%)、親会社株主に帰属する当期純利益8,608百万円(同96.3%)。外食業界を中心とした需要低迷・インバウンド需要減少に加え前年1月に実施した価格引き下げにより小麦粉の売上高は前年度を下回った
    • [50]福岡工場のプレミックス工場が2020年10月、伊勢崎工場(旧ニップン冷食伊勢崎工場)の冷凍食品第2工場とNIPPN(Thailand)Co.,Ltd.の冷凍生地製造工場が同年11月に竣工
  • 有価証券報告書(2022年3月期)
    • [49]2021年3月期の売上高329,566百万円は当該期有報の表示値。翌2022年3月期有報の【主要な経営指標等の推移】では収益認識に関する会計基準等の適用により同期が288,324百万円へ組み替えられており、01_pl.csv・07_pl_long.csv はこの組替後の値を採録している(基準差であって数値の誤りではない)

2021年4月には東福製粉を吸収合併して福岡那の津工場とし、ニップン冷食から冷凍食品製造事業を譲り受けて伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とした。1996年に別会社として立ち上げた冷凍食品事業を、25年かけて本体へ戻したことになる。2022年7月にはオーケー食品工業の株式を追加取得して完全子会社にした。分社で試し、育ったら本体に組み入れるという順序は、1990年のオーマイ合併や1998年のパスタ分社と同じ形を取っている。 [51]

  • 有価証券報告書【沿革】
    • [51]2021年4月に東福製粉株式会社を吸収合併して福岡那の津工場とし、ニップン冷食株式会社から冷凍食品製造事業を譲り受けて伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とした。2022年7月にオーケー食品工業の株式を追加取得して完全子会社化
  • 有価証券報告書【沿革】
    • [45]2021年1月1日付で社名を日本製粉株式会社から株式会社ニップンへ変更
    • [51]2021年4月に東福製粉株式会社を吸収合併して福岡那の津工場とし、ニップン冷食株式会社から冷凍食品製造事業を譲り受けて伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とした。2022年7月にオーケー食品工業の株式を追加取得して完全子会社化
  • 有価証券報告書(2021年3月期)
    • [46]社名変更の理由として「多角的総合食品企業として更なる成長を遂げるため、創立125年を迎えるこの年に大きく生まれ変わる決意をこめ、会社名の変更に至りました」と有価証券報告書に記載
    • [48]2021年3月期の売上高は329,566百万円(前期比95.6%)、営業利益10,331百万円(同93.1%)、経常利益12,620百万円(同99.1%)、親会社株主に帰属する当期純利益8,608百万円(同96.3%)。外食業界を中心とした需要低迷・インバウンド需要減少に加え前年1月に実施した価格引き下げにより小麦粉の売上高は前年度を下回った
    • [50]福岡工場のプレミックス工場が2020年10月、伊勢崎工場(旧ニップン冷食伊勢崎工場)の冷凍食品第2工場とNIPPN(Thailand)Co.,Ltd.の冷凍生地製造工場が同年11月に竣工
  • ニップンレポート2020
    • [47]前鶴俊哉社長と澤田浩会長が連名メッセージで2021年1月1日を「第2の創業」と位置づけ、社名変更の背景として食品事業が製粉事業の2倍の売上規模まで成長したことを挙げた
  • 有価証券報告書(2022年3月期)
    • [49]2021年3月期の売上高329,566百万円は当該期有報の表示値。翌2022年3月期有報の【主要な経営指標等の推移】では収益認識に関する会計基準等の適用により同期が288,324百万円へ組み替えられており、01_pl.csv・07_pl_long.csv はこの組替後の値を採録している(基準差であって数値の誤りではない)

政策保有株と土地を売り、工場へ積み替える

2024年3月期、投資有価証券売却益135億円を計上した。営業利益203億円に対して税引前利益は362億円まで膨らみ、親会社株主に帰属する当期純利益は264億円となる。翌2025年3月期も投資有価証券売却益47億円に加えて固定資産売却益87億円を計上し、純利益は248億円だった。固定資産売却益は主に土地等の売却によるものである。二期続けて、営業利益の6割を超える規模の特別利益が並んだ。その本業も伸びており、売上高は2024年3月期4,005億円、2025年3月期4,109億円、2026年3月期4,184億円と積み上がり、営業利益は203億円・215億円・221億円と切り上がっている。連結の従業員数は3,829名から3,935名へ、平均年間給与は722万円から758万円へ増えた。 [52]

  • 有価証券報告書(2025年3月期)
    • [52]2025年3月期の固定資産売却益は主に土地等の売却益であると有価証券報告書に注記

二期の売却益は、資産の入れ替えという方針の結果である。政策保有株式は2021年度の119銘柄から2024年度の78銘柄へ減り、連結純資産に対する比率は30.7%から24.2%へ下がった。会社は2026年度末までにこれを20%未満とする目標を置く。2024年度から2026年度のキャッシュ・アロケーションでは、営業キャッシュフロー700億円以上に資産売却300億円程度と外部調達最大800億円程度を加え、事業投資へ1,400億円程度、株主還元へ150億円以上、社債償還へ250億円を充てる計画を示した。2024年度の実績は遊休資産の売却85億円と株式売却50億円で、外部からの調達は行っていない。売った資金は工場へ向かう。大型穀物船が接岸できる立地に建てた知多新工場が2026年2月に稼働し、米国では Utah Flour Milling の新工場が2025年2月に動き出した。冷凍食品ではグループ最大規模の畑中食品新工場が2026年度末に竣工する。 [53][54][55]

  • ニップン統合報告書2025
    • [53]政策保有株式は2021年度119銘柄から2024年度78銘柄へ減少、連結純資産比率は30.7%から24.2%へ低下、2026年度末までに20%未満とする目標。2024〜2026年度のキャッシュ・アロケーションは営業CF700億円以上+資産売却300億円程度+資金調達最大800億円程度を原資に、事業投資1,400億円程度・株主還元150億円以上・社債償還250億円。2024年度実績は遊休資産売却85億円・株式売却50億円で外部調達なし
    • [55]米国のUtah Flour Milling, LLCの新工場は2025年2月に製造を開始。連結子会社化した畑中食品の冷凍食品新工場は2026年度末に竣工予定
  • 有価証券報告書(2026年3月期)
    • [54]2026年2月に知多工場が完成・稼働を開始。臨海部に立地し大型穀物船が接岸できる知多埠頭の原料サイロに隣接し、原料小麦の直接搬入による調達コスト削減を実現している

1968年の記録は、日本製粉のシェアを約25%と伝えていた。2024年度の国内小麦粉販売シェアも25.0%で、業界2位という位置も変わらない。この56年の間に製粉工場は1951年度の約3,100から90を下回るまで減り、企業数も1998年比で129社から60社へ集約されている。淘汰はこれだけ激しかったにもかかわらず、上位の取り分は動かず、大手4社で81.8%を占めた。この安定は、原料と価格を国家が管理する制度の上に成り立っている。政府が小麦を一手に買い入れて売り渡す仕組みが続く限り、原料価格の変動は時間差を置いて製品価格へ移り、順位も動きにくい。裏を返せば、制度が変われば、130年かけて築いた安定はそのまま制約へ転じる。2030年度に売上高5,000億円・営業利益250億円という長期ビジョンを掲げ、社名から製粉の二字を落として売上の三分の二を粉の外へ移した判断は、その日に備える構えでもある。 [56][57][58][59]

  • ニップン統合報告書2025
    • [56]2024年度の国内小麦粉販売シェアはニップンが25.0%で業界2位、大手4社合計で81.8%(統合報告書の注記では出典を「2024年度/日刊経済通信社調(酒類食品統計月報2025年9月号)」とする)
    • [59]長期ビジョン2030として2030年度に売上高5,000億円・営業利益250億円を掲げる
  • ニップン「製粉業界の現状」(2026年4月)
    • [57]製粉工場数は1951年度の約3,100(表9では3,094)から現在は90工場以下へ減少。1998年以降で製粉企業数は129社から60社、工場数は162工場から81工場に減少
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)
    • [58]1968年時点のシェアは約25%
  • 有価証券報告書(2025年3月期)
    • [52]2025年3月期の固定資産売却益は主に土地等の売却益であると有価証券報告書に注記
  • ニップン統合報告書2025
    • [53]政策保有株式は2021年度119銘柄から2024年度78銘柄へ減少、連結純資産比率は30.7%から24.2%へ低下、2026年度末までに20%未満とする目標。2024〜2026年度のキャッシュ・アロケーションは営業CF700億円以上+資産売却300億円程度+資金調達最大800億円程度を原資に、事業投資1,400億円程度・株主還元150億円以上・社債償還250億円。2024年度実績は遊休資産売却85億円・株式売却50億円で外部調達なし
    • [55]米国のUtah Flour Milling, LLCの新工場は2025年2月に製造を開始。連結子会社化した畑中食品の冷凍食品新工場は2026年度末に竣工予定
    • [56]2024年度の国内小麦粉販売シェアはニップンが25.0%で業界2位、大手4社合計で81.8%(統合報告書の注記では出典を「2024年度/日刊経済通信社調(酒類食品統計月報2025年9月号)」とする)
    • [59]長期ビジョン2030として2030年度に売上高5,000億円・営業利益250億円を掲げる
  • 有価証券報告書(2026年3月期)
    • [54]2026年2月に知多工場が完成・稼働を開始。臨海部に立地し大型穀物船が接岸できる知多埠頭の原料サイロに隣接し、原料小麦の直接搬入による調達コスト削減を実現している
  • ニップン「製粉業界の現状」(2026年4月)
    • [57]製粉工場数は1951年度の約3,100(表9では3,094)から現在は90工場以下へ減少。1998年以降で製粉企業数は129社から60社、工場数は162工場から81工場に減少
  • 企業の歴史 明治百年(1968年)
    • [58]1968年時点のシェアは約25%

ニップンの沿革1896〜2026年における主な出来事を抜粋

年月社長・CEO出来事重要度
東京深川扇橋に資本金30万円で日本製粉株式会社を設立。国内初の欧米式機械製粉設備を採用し、小麦粉月産能力440トンで操業を開始★★★
東洋製粉株式会社を合併し、高崎工場・小山工場・神戸工場とする★★★
国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成★★★
小樽工場が完成
本店を東京市京橋区に移転
名古屋工場が完成
日清製粉・三井物産と製粉共販組合を発足し、小麦粉の共同販売を始める★★★
東京証券取引所および大阪証券取引所に株式を上場登録
株式会社扇屋商店を設立(1964年に日本商事株式会社へ社名変更)
中央研究所を設置。太平洋戦争で被災した工場の再建が完了★★
日粉食糧株式会社を設立し(1983年にオーマイ株式会社へ社名変更)、家庭用食品ブランド「オーマイ」が誕生★★★
松屋製粉株式会社を設立
大阪製粉株式会社を合併し、大阪工場とする★★
本店を東京都渋谷区に移転
ニップンドーナツ株式会社を設立★★
神戸甲南工場が完成
ニップン機工株式会社(現・ニップンエンジニアリング株式会社)を設立
新日本商事株式会社を設立
千葉工場が完成
日本リッチ株式会社を設立
福岡工場が完成
エヌピーエフジャパン株式会社を設立
竜ヶ崎工場が完成
オーマイ株式会社を吸収合併し、厚木工場・加古川工場とする★★★
株式会社ファーストフーズの株式を取得★★
エヌエフフローズン株式会社を設立
日本商事株式会社が新日本商事株式会社を吸収合併し、社名を新日本商事株式会社に変更
ニップン冷食株式会社を設立し、冷凍食品の製造に本格参入★★★
冷凍食品製造部門を分社化し、高崎工場をニップン冷食株式会社高崎工場とする★★
タイに Nippon Flour Mills(Thailand) Ltd.(現・NIPPN FOODS CORPORATION (THAILAND) LTD.)を設立★★★
オーマイ株式会社を設立
パスタ製造部門を分社化し、厚木工場・加古川工場をオーマイ株式会社の工場とする★★
新日本商事株式会社が株式会社プロスを吸収合併し、社名をニップン商事株式会社に変更
伊勢崎市に冷凍食品工場を完成させ、エヌエフフローズン株式会社に貸与
米国のパスタ製造会社 Pasta Montana, L.L.C. を買収。あわせてニップンドーナツ関西株式会社を設立★★★
冷凍パスタシリーズ「オーマイプレミアム」を発売★★
オーケー食品工業株式会社の株式を取得★★
上海日粉食品有限公司のプレミックス工場が竣工★★
青崎済株式会社ニップン商事コーポレーションを設立
青崎済タイに NIPPN(Thailand) Co.,Ltd. を設立
青崎済米国ロサンゼルスに NIPPN California Inc. を設立
小寺春樹株式会社ナガノトマトの株式を取得★★★
小寺春樹インドネシアに PT.NIPPN FOODS INDONESIA を設立
小寺春樹東福製粉株式会社の株式を公開買付けにより取得★★★
近藤雅之本店を現在地に移転
前鶴俊哉渋谷区の旧本社跡地を三菱地所などと共同開発した複合ビル「リンクスクエア新宿」が竣工し、賃貸不動産となる★★
前鶴俊哉社名を株式会社ニップンに変更★★★
前鶴俊哉東福製粉株式会社を吸収合併して福岡那の津工場とし、ニップン冷食株式会社から冷凍食品製造事業を譲り受けて伊勢崎冷食工場・竜ヶ崎冷食工場とする★★★
前鶴俊哉オーケー食品工業株式会社の株式を追加取得し、完全子会社とする★★
前鶴俊哉米国の Utah Flour Milling, LLC に出資し、持分法適用会社とする★★
前鶴俊哉中期目標を売上高4,500億円・営業利益210億円へ上方修正し、長期ビジョン2030を策定★★★
前鶴俊哉ベトナムに NIPPN Vietnam Company Limited を設立
前鶴俊哉株式会社畑中食品を連結子会社とする★★
大型穀物船が接岸できる立地に建設した製粉の新拠点、知多工場が完成★★★
出典・参考

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