1896年〜 水車粉の国に機械製粉を移植し、日清製粉と二社で市場を分けるまで
- 1896年東京深川扇橋に資本金30万円で日本製粉株式会社を設立。国内初の欧米式機械製粉設備を採用し、小麦粉月産能力440トンで操業を開始
- 1920年東洋製粉株式会社を合併し、高崎工場・小山工場・神戸工場とする
- 1924年国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
- 1925年小樽工場が完成
- 1928年本店を東京市京橋区に移転
- 1928年名古屋工場が完成
- 1930年日清製粉・三井物産と製粉共販組合を発足し、小麦粉の共同販売を始める
ニップンの業績推移:単体
出所:有価証券報告書等
官営工場から三度持ち主を替えた機械
機械製粉の移植は、1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開いたのが最初である。前年に渡仏した松方正義氏が購入した、能力15バーレルの蒸気動力による石うす式製粉機2台をここに据えた。しかし工場は見るべき業績をあげられず、1884年ごろ、機械は薩摩および越前の旧藩士たちが組織した会社に払い下げられる。彼らは初め東京・京橋南小田原町に工場を設けたが、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎氏が持つ建物へ移った。雨宮氏はアメリカの機械製粉を見聞し、1880年ごろ同じ場所に工場を設けたものの、すでに休止していた。 [1][2]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
- [1]1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開設。松方正義が渡仏して購入した能力15バーレルの蒸気動力石うす式製粉機2台を据え付けた
- [2]官営工場の機械は1884年ごろ薩摩・越前の旧藩士が組織した会社(社長 野村忍助)へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎所有の建物へ工場を移した。雨宮は明治13年(1880年)ごろ同所に工場を設けたが明治21年(1888年)に休止していた
機械で挽いた粉の売り先は、ほとんどが陸海軍だった。一般の市場では、水車で挽いた粉の勢力に対抗できない。経営成績は上がらず、会社は1891年に解散して工場は近江出身の商人島万次郎氏の手に移るが、島氏もまた失敗する。1893年、旧館林藩士で第四十銀行頭取の南条新六郎氏、第三十九銀行の長尾三十郎氏、島氏と関係の深かった境豊吉氏らがこれを受け継ぎ、工場を母体として東京製粉合資会社を設立した。同社は軍需だけに頼らず、東京の雑穀商立川健蔵氏の協力を得て民間の販路を開き、日清戦争による軍糧食の需要増加をとらえて足場を固めた。 [3][4]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
- [3]1891年に会社解散、工場は島万次郎へ移り、1893年に南条新六郎・長尾三十郎・境豊吉らが受け継いで東京製粉合資会社を設立した
- [4]機械粉は主に陸海軍へ納入し、一般市場では水車粉に対抗できなかった。東京製粉合資会社は雑穀商立川健蔵の協力で民間販路を開き、日清戦争の軍糧食需要で基礎を固めた
1896年12月、東京製粉合資会社の資産を継承し、資本金30万円の日本製粉株式会社が発足した。本店工場は深川区東扇橋、製粉能力は200バーレルにすぎない。同じ1896年、国内の小麦粉供給量の89%はなお水車粉であり、輸入メリケン粉と国内の機械粉はともに低い地位に置かれていた。官営工場から数えて四度目の持ち主が、ようやく事業として続く形を得たことになる。日本最古の機械製粉会社という位置は、成功の連続ではなく、三度の行き詰まりの上に立っている。 [5][6][7]
- 有価証券報告書【沿革】
- [5]1896年12月に東京深川扇橋で日本製粉株式会社を設立
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [6]1896年に東京製粉合資会社を改組し資本金30万円で新発足、本店工場は深川区東扇橋、製粉能力200バーレル
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
- [7]1896年時点で国内小麦粉供給量の89%が水車粉で、輸入メリケン粉と国内機械粉の地位は低かった
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「製粉・ビール-根をおろす新しい味」
- [1]1879年に東京浅草蔵前へ官営製粉工場を開設。松方正義が渡仏して購入した能力15バーレルの蒸気動力石うす式製粉機2台を据え付けた
- [2]官営工場の機械は1884年ごろ薩摩・越前の旧藩士が組織した会社(社長 野村忍助)へ払い下げられ、1888年に深川扇橋の雨宮敬次郎所有の建物へ工場を移した。雨宮は明治13年(1880年)ごろ同所に工場を設けたが明治21年(1888年)に休止していた
- [3]1891年に会社解散、工場は島万次郎へ移り、1893年に南条新六郎・長尾三十郎・境豊吉らが受け継いで東京製粉合資会社を設立した
- [4]機械粉は主に陸海軍へ納入し、一般市場では水車粉に対抗できなかった。東京製粉合資会社は雑穀商立川健蔵の協力で民間販路を開き、日清戦争の軍糧食需要で基礎を固めた
- [7]1896年時点で国内小麦粉供給量の89%が水車粉で、輸入メリケン粉と国内機械粉の地位は低かった
- 有価証券報告書【沿革】
- [5]1896年12月に東京深川扇橋で日本製粉株式会社を設立
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [6]1896年に東京製粉合資会社を改組し資本金30万円で新発足、本店工場は深川区東扇橋、製粉能力200バーレル
買収で工場を集め、二社で能力の八割を占めた大正期
機械製粉が勃興する気運に乗り、日本製粉は工場を次々に増やした。1904年に扇橋第二工場を新設し、1907年に明治製粉(小名木工場)を吸収合併すると同時に兵庫工場を設け、1909年には帝国製粉(砂町工場)を合併する。明治末には工場5、製粉能力2,500バーレル、資本金155万円に達した。1914年の欧州大戦で小麦粉の需要が増え、外国小麦の輸入も途絶えて国内市場は活況を呈する。同年4月に久留米工場を新設し、1920年には東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉を合併して神戸・高崎・小山・門司・札幌の5工場を、同じ年に東北製粉を合併して仙台工場を加えた。 [8][9]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [8]1907年に明治製粉(小名木工場)、1909年に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併し、明治末には工場5・製粉能力2,500バーレル・資本金155万円となった
- 有価証券報告書【沿革】
- [9]1920年3月〜4月に東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉・東北製粉を合併し、高崎・小山・神戸・門司・札幌の各工場と仙台工場を加えた(会社銀行八十年史は大正8年と記すが、有価証券報告書【沿革】および公式沿革は1920年3月とする)
1924年5月、国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成する。翌1925年には小樽工場を新設し、東亜製粉の合併で東京工場を増やした。1926年末の陣容は工場11、製粉能力16,100バーレル、資本金1,230万円。この間に業界全体の能力も膨らみ、1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルと大戦前の3倍を超えたが、その80%強を日清製粉と日本製粉の2社が握っていた。小麦粉の消費はパン用の強力粉と菓子用の薄力粉で伸びたものの、工場能力の増加がそれを上回り、過剰生産の傾向が強まる。 [10][11][12]
- 有価証券報告書【沿革】
- [10]1924年5月に国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [11]1926年末に工場11・製粉能力16,100バーレル・資本金1,230万円
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [12]1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルで大戦前の3倍以上、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた
過剰能力への答えは、増産の停止と価格の取り決めだった。1926年5月、日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を結ぶ。日清と日本は同率の操短率を課され、1928年5月の期限まで生産の40〜60%を止めた。日本製粉はこれと並行して、1927年5月に三井物産と製品の一手販売契約を結んで再建に着手し、1928年10月には日清製粉と販売価格の協約を締結する。1930年の金輸出解禁で経済界が混乱すると、両社と、日本製粉の製品を委託販売していた三井物産の代表が協議し、同年4月1日に製粉共販組合を発足させた。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出している。1931年4月には日東製粉も加わり、名古屋以東の販売機関として東部製粉共販組合が組織された。関西の増田や大阪製粉は最後まで加わらなかったが、両組合は1935年7月の解散まで市況の維持に働いた。市場を広げるより、市場を分け合って価格を保つ枠組みに、この産業は早くから入っている。 [13][14][15][16]
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [13]1926年5月に日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を締結。日清・日本両社は同率で1926年6月から1927年4月まで50〜60%、1928年5月の期限まで40%の操短
- [15]1930年4月1日に製粉共販組合が発足。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資
- [16]1931年4月に日東製粉が共販事業に参加し東部製粉共販組合を組織、増田・大阪製粉らはアウトサイダーとして牽制、両共販組合は1935年7月に解散
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [14]1927年5月に三井物産と製品一手販売に関する契約を締結して再建に着手、1928年10月に日清製粉と販売価格に関する協約を締結
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [8]1907年に明治製粉(小名木工場)、1909年に帝国製粉(砂町工場)を吸収合併し、明治末には工場5・製粉能力2,500バーレル・資本金155万円となった
- [11]1926年末に工場11・製粉能力16,100バーレル・資本金1,230万円
- [14]1927年5月に三井物産と製品一手販売に関する契約を締結して再建に着手、1928年10月に日清製粉と販売価格に関する協約を締結
- 有価証券報告書【沿革】
- [9]1920年3月〜4月に東洋製粉・大里製粉所・札幌製粉・東北製粉を合併し、高崎・小山・神戸・門司・札幌の各工場と仙台工場を加えた(会社銀行八十年史は大正8年と記すが、有価証券報告書【沿革】および公式沿革は1920年3月とする)
- [10]1924年5月に国内初の本格的な大規模臨海工場として横浜工場が完成
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [12]1925年の大型機械製粉の総能力は約33,700バーレルで大戦前の3倍以上、その80%強を日清製粉と日本製粉が握っていた
- [13]1926年5月に日清・日本・松本米穀・名古屋・増田・大阪・日本精米の7社が限産協定を締結。日清・日本両社は同率で1926年6月から1927年4月まで50〜60%、1928年5月の期限まで40%の操短
- [15]1930年4月1日に製粉共販組合が発足。資金20万円のうち日清が10万円、日本製粉と三井物産が5万円ずつを出資
- [16]1931年4月に日東製粉が共販事業に参加し東部製粉共販組合を組織、増田・大阪製粉らはアウトサイダーとして牽制、両共販組合は1935年7月に解散
大陸への進出と、価格を国家に預けた十五年
満州事変の後に市価は騰勢へ向かい、大陸向けの輸出が激増する。輸出先はおもに中国北部で、アメリカやカナダの製品と競いながら市場を広げた。1928年に名古屋工場を新設し、1935年には仁川工場が竣工する。1936年2月に青島で東亜製粉を設立し、同年7月には満州製粉から鎮南浦・沙里院の両工場を買収した。1937年2月には奉天に東洋製粉股份有限公司を設立する。日中戦争が始まると大陸への進出はさらに進み、1938年に上海で三興麺粉公司を、1940年に漢口で漢口製粉を設立した。 [17][18]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [17]1928年に名古屋工場を新設、1935年に仁川工場竣工、1936年2月に青島で東亜製粉を設立、同年7月に満州製粉から鎮南浦・沙里院両工場を買収、1937年2月に奉天で東洋製粉股份有限公司を設立、1938年に上海で三興麺粉公司、1940年に漢口製粉を設立
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [18]満州事変以後は満州・朝鮮市場が拡大し、1935年前後から内地製粉会社の大陸資本進出が活発になった
1940年1月、農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決まり、小麦粉は全国製粉配給が一括して配給し、麩は飼料配給の一手販売となった。1942年7月の食糧管理法施行で、業界は政府の強い統制下に置かれる。1944年の企業整備令によって久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止し、1945年3月には東京・名古屋の両工場が戦災を受けた。終戦にともなって外地の工場をすべて失い、残ったのは5工場・設備能力7,466バーレルで、戦前能力の34%にとどまる。価格の自由を国家に預けた15年の末に、会社は三分の一の規模になっていた。 [19][20]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [19]1940年1月の農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決定し、全国製粉配給が一括配給、麩は飼料配給の一手配給となった。1942年7月に食糧管理法施行
- [20]1944年の企業整備令で久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止、1945年3月に東京・名古屋両工場が戦災。終戦で外地工場を全面喪失し、残存5工場・設備能力7,466バーレル(戦前能力の34%)
終戦直後、日本製粉は財閥関係の制限会社に指定され、1946年8月には特別経理会社の指定を受ける。1948年には過度経済力集中排除法による指定も加わり、再建は難しさを増した。それでも1945年に名古屋工場と小山工場、1946年に久留米工場、1947年に神戸工場の復旧を果たす。1949年に集排法の指定が取り消されると諸指定も順次解除され、1951年には東京工場の復旧再開にこぎつけた。制度に縛られた復興という点で、戦中と戦後の連続性は強い。 [21]
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [21]終戦直後に制限会社、1946年8月に特別経理会社、1948年に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年の集排法指定取消後に諸指定が解除。工場復旧は1945年名古屋・小山、1946年久留米、1947年神戸、1951年東京
- 会社銀行八十年史(1955年)
- [17]1928年に名古屋工場を新設、1935年に仁川工場竣工、1936年2月に青島で東亜製粉を設立、同年7月に満州製粉から鎮南浦・沙里院両工場を買収、1937年2月に奉天で東洋製粉股份有限公司を設立、1938年に上海で三興麺粉公司、1940年に漢口製粉を設立
- [19]1940年1月の農林省告示で小麦粉の最高販売価格が決定し、全国製粉配給が一括配給、麩は飼料配給の一手配給となった。1942年7月に食糧管理法施行
- [20]1944年の企業整備令で久留米・神戸・小山・札幌の各工場を休止、1945年3月に東京・名古屋両工場が戦災。終戦で外地工場を全面喪失し、残存5工場・設備能力7,466バーレル(戦前能力の34%)
- [21]終戦直後に制限会社、1946年8月に特別経理会社、1948年に過度経済力集中排除法の指定を受け、1949年の集排法指定取消後に諸指定が解除。工場復旧は1945年名古屋・小山、1946年久留米、1947年神戸、1951年東京
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「食品-戦火の陰に泣く」
- [18]満州事変以後は満州・朝鮮市場が拡大し、1935年前後から内地製粉会社の大陸資本進出が活発になった