堀場無線研究所の創業と株式会社堀場製作所への法人化

大学に残るか、自前の研究所を持つか──京大在学の堀場雅夫氏はどちらを選んだか

更新:

時期 1953年1月
意思決定者 堀場雅夫 社長
論点 創業と学生ベンチャーの企業化
概要
1945年、京都大学理学部在学中の堀場雅夫氏が私設の堀場無線研究所を開き、1953年1月に生産設備を引き継いで資本金100万円の株式会社堀場製作所へ法人化した判断。大学発の技術者が自前の研究所を企業へ育てた、学生ベンチャーの草分けにあたる。
背景
終戦で復員した先輩研究者が大学に戻るのを見た堀場雅夫氏は、年功序列の学界にとどまるより自前の研究所を持つ道を選んだ。電解コンデンサの事業化は朝鮮動乱の資材高騰で頓挫し、製造工程で使っていた自作のpHメータへ活路を求めた。
内容
1945年10月、京都・烏丸五条の借家に堀場無線研究所の看板を掲げ、母校の依頼仕事や測定器の製作で運転資金を稼いだ。pHメータの国産化にめどが立つと、1953年1月に株式会社堀場製作所を設立し、京都財界の石川芳次郎氏・大沢善夫氏・高木耿氏を後見人として役員に迎えた。
含意
出資も銀行保証も定かでない零細な研究所に、京都財界の重鎮が保証人として名を連ねた。後年ベンチャーの育成に力を注ぐ堀場雅夫氏の原点となり、大学と地場資本が新興企業を支える京都の土壌を早くから体現した。
筆者の見解

大学発ベンチャーの草分けとして

この創業の核心は、資金も信用も乏しい学生が、大学の研究室で培った技術を頼りに自前の企業を立ち上げた点にある。設備と言えば間口3間半の借家であり、事業の柱も電解コンデンサからpHメータへと二転した。それでも国産初のガラス電極pHメータという確かな技術が、京都財界の重鎮を保証人として引き寄せた。技術を核にした新興企業を、地場の資本と人脈が支える構図が、法人化の時点で既に形をとっていたとみることができる。

出資と銀行保証を引き受けた3氏を、堀場雅夫氏はのちにベンチャーキャピタルの先駆と呼んだ。みずからが受けた支援を、雅夫氏は晩年、京都でのベンチャー育成を通じて次の世代へ返そうとした。大学の知を事業へ橋渡しし、地域の資本がそれを支える営みは、今日の大学発スタートアップが向き合う課題と重なる。半世紀以上前の京都で、その原型がどのように成立したのかを、この創業はよく示している。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

大学に残るより、自前の研究所を

堀場雅夫氏は京都に生まれ、京都大学理学部教授を父に持ち、当然のように京大へ進んで物理の研究に没頭していた。終戦の年、雅夫氏は理学部の3回生であった。研究所にとどまる意思は強かったものの、敗戦とともに先輩の技術者たちが次々と大学へ戻ってくるのを見るうち、みずからの探究心が別の道を指し示した。学界の年功序列に身を置くより、自前の研究の場を構えたいという思いであった[1]

1945年10月17日、敗戦からわずか2カ月後、雅夫氏は烏丸五条から北へ50メートルほどの家を借りて「堀場無線研究所」の看板を掲げた。当時はエレクトロニクスや電子工業という言葉がまだ一般に使われておらず、弱電の代表的な技術である「無線」を名に採った。間口3間半、奥行3間ほどの一室が研究室であり工場でもあった。ここで母校京大などの依頼を受け、電子の仕事や測定器の製作・修理をこなして運転資金を稼いだ[2]

コンデンサ事業の頓挫と、pHメータへの転換

研究所はやがて、電子部品に欠かせない電解コンデンサの品質の悪さに着目した。誰が作っても同じ性能が出るよう製造工程を精密に制御する仕組みを考え、この電解コンデンサを「アリゲータ」と名付けて事業化を急いだ。標準化という発想そのものが当時は画期的であった。事業には300万円ほどの資金が要り、雅夫氏はその先見性を買うスポンサーを見つけ、工場建設の計画までこぎつけた[3]

着手の段階で思わぬ事態が待っていた。1950年6月に勃発した朝鮮動乱で物価が高騰し、半年ほどの間に金属材料は3倍から4倍に跳ね上がった。用意した300万円はたちまち価値を失い、算盤をはじくと少なく見積もっても1000万円が要った。スポンサーもその捻出には悲観的で、コンデンサ事業は「高品質と作業標準化のシステム」という財産を手にしたまま断念に至った。雅夫氏は、コンデンサの製造工程で電解液の分析に使っていた自作のpHメータの商品化へと向かった[4]

決断

生産設備を引き継ぎ、株式会社へ

pHメータの国産化にめどが立ち、販売が本格化すると、雅夫氏は研究所の企業化に踏み切った。1953年1月26日、堀場無線研究所の生産設備をすべて引き継ぎ、いっそうの販売促進と資金調達、将来の成長の基礎固めを目的に、株式会社組織として株式会社堀場製作所を設立した。資本金は100万円、代表取締役社長は堀場雅夫氏であった。設立1カ月前の1952年暮れに京都市中京区中新道三条下ルへ購入した約600平方メートルの土地と建物が本社となった[5]

設立時の社員は8名にとどまった。国内でテレビ放送が始まり、東芝・松下・ソニーといった弱電各社が量産と技術進歩を競っていた時代に、28歳の雅夫氏が率いる小さな計測器メーカーが京都で船出した。研究所という名ばかりの零細企業で発明家のような仕事を続ける息子に、父は必ずしも賛意を示していなかったという。それでもpH計の企業化にめどが立ったことが、法人化を後押しした[6]

京都財界の重鎮を後見人に

研究所から株式会社への改組にあたり、父の依頼を通じて、京都財界の重鎮3氏が後見人として新会社の役員に迎えられた。京福電鉄社長の石川芳次郎氏、大沢商会会長の大沢善夫氏、そして中小企業界のリーダーであった高木耿氏である。何をする会社か判然としないと銀行が問い合わせても、3氏は「若い者が一生懸命やるといっているし、私たちが応援する限り迷惑はかけない」と保証した。将来性の定かでない企業に出資と銀行保証を引き受けた3氏を、社史はのちに「京都におけるベンチャーキャピタルのパイオニア的存在」と記している[7]

雅夫氏は石川氏と大沢氏から経営の思想を、高木氏から経営の技術を教え込まれ、後々まで大きな影響を受けた。技術者として研究に没頭してきた創業者にとって、商いの作法を財界の先達から直に学ぶ機会となった。大学の研究室を母体とする技術と、地場の資本や人脈がひとつの新興企業に結び付いた点に、この法人化の特色があった[8]

結果

pH計から計測専業への成長

法人化したpH計事業は、重化学工業の拡大とともに需要を伸ばした。硫安や塩安、尿素肥料などの合成化学工場、そして合成繊維の製造工場で工業用pH計が使われ、研究室用から工業用へと市場が広がった。堀場製作所は液体分析のpHメータに続く第2の柱として赤外線ガス分析計を育て、センサーは自社で開発し周辺は外部に委ねる分業で付加価値の高い製品を生み出した。1959年には日立製作所と技術・業務提携を結び、大手電機の信用を得た[9]

1965年には自動車排ガス測定装置を手がけ、1971年に大阪証券取引所市場第二部へ株式を上場した。創業から四半世紀を経た成長ぶりを、日経ビジネスは1979年に「26年間に売り上げ、利益とも1000倍を越える急成長を遂げた」と伝えている。1978年、雅夫氏は「おもしろおかしく」を社是に掲げて社長を退任し、以後は後進のベンチャー育成に力を注いだ[10]

出典・参考
  • おもしろおかしく25年(堀場製作所, 1978年1月)
  • 日経ビジネス 1979年4月9日号「堀場雅夫氏が語る知情分離の運命共同体経営」(日経マグロウヒル社)