原宿都心店とフリース単品集中による全国ブランド化
郊外のロードサイドで伸び悩んだユニクロは、都心の一店と一つの商品でどう全国区になったか
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- 概要
- 1998年11月の原宿店開業を機に、ファーストリテイリングがフリースという単品に絞って売り込むフォーカス戦略を打ち、全国的な知名度と高収益を得た経営判断。柳井正社長のもとで、沢田貴司副社長の発案により商品を一つに絞る方針が固まった。
- 背景
- 郊外ロードサイド中心の出店では関東でユニクロがほとんど知られておらず、1990年代半ばには既存店売上が前年割れに転じていた。生産と販売の乖離から品切れと売れ残りが同時に生じ、成長の壁となっていた。
- 内容
- 首都圏初の都心店である原宿店の1階売り場をフリースで埋め尽くし、「フリースに自信あり」の広告を都内の駅や車内に張った。1着1900円で多色をそろえたフリースを目玉に据え、豊富な品揃えではなく単品への集中で認知を一気に獲得した。
- 含意
- フリースは800万着を超えて売れ、2000年8月期に売上高純利益率15パーセントという高収益を記録した。一方で翌期以降はブームの一巡と品切れの反動から失速に転じ、一つの商品で全国区になる型と、その反動を同時に示す判断となった。
一つの商品で全国区になるということ
この判断の核心は、豊富な品揃えではなく一つの商品に絞ることで、無名に近かった企業が短期間に認知を得た点にある。郊外で個々の商品力を訴えきれずにいたユニクロが、原宿という情報発信地で自信のある一品だけを前面に出したことで、消費者はこの店が何を売る店なのかを一目で理解した。品揃えの幅ではなく焦点の鋭さが認知を生むという逆説を、フリースは体現したとみることができる。柳井正社長が、原宿とフリースで急に企業が変質したのではなく客から認知されるようになっただけだと述べたのは、この構図を言い当てていた。
もっとも、フリースがもたらした高収益は長くは続かなかった。ブームの渦中で危機感を隠さなかったとおり、商品が世に行き渡れば単品集中の勢いは鈍る。全国区の知名度と、安かろう悪かろうという評価が同居する状態から、同社はその後の10年をかけて商品力そのものの底上げへと向かっていった。一つの商品で得た知名度を、次の成長へどうつなぐか——フリース旋風が残したこの問いは、以後のファーストリテイリングを長く規定していったとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
郊外ロードサイドの成長限界と1990年代半ばの失速
ファーストリテイリングは1984年の広島1号店以降、郊外の幹線道路沿いに店舗を絞って展開し、年50店に近い出店で規模を伸ばしてきた。だが1990年代半ばには既存店売上が前年割れの連続に陥り、急成長には陰りが見えていた。市場では急成長してきたユニクロもついに壁に当たったとささやかれ、経営陣も自信を失いかけていた。郊外中心の展開ゆえに、とりわけ関東ではユニクロがどのような店なのかがほとんど知られていなかった[1]。
伸び悩みの根には、生産と販売の乖離があった。従来は年初に契約工場へ発注して夏に生産を終え、在庫を横目に少しずつ値を下げて翌春までに売り切る手法をとっていた。この方式では商品が余れば大幅な値引きを迫られ、逆に生産が追いつかず品切れになれば売上が伸びない。単体売上高は1998年8月期で831億円にとどまり、規模拡大の一方で収益の効率は頭打ちになりつつあった[2][3]。
原宿という長年の夢と都心への進出
郊外での出店余地はなお残っていたが、柳井正社長は若いころから原宿への出店を思い描いていた。原宿はファッションの中心であり、衣料品を扱う者にとっては夢のような土地であった。そこへ、バブル崩壊による家賃の低下や同業他社の撤退といった条件が重なり、都心進出の機が熟した。関東はあらゆる面で都心に向かう構造にあり、原宿への出店は情報発信という点で郊外店にも波及するという読みが柳井社長にはあった[4]。
1998年秋、首都圏初の都心店となる原宿店の開業を目前に、柳井社長以下の経営陣はむしろ頭を抱えていた。原宿には多くの店がひしめき、特徴を出さなければ客に認知されない。東京の若者にとってユニクロは無名に等しく、どうすれば足を運んでもらえるのかが定まらなかった。郊外で積み上げた実績が、そのまま都心で通じる保証はどこにもなかった[5]。
決断
商品を一つに絞る——沢田貴司副社長の発案とフリース
突破口は、ある女性社員の何気ない一言から開けた。ユニクロにはまっている、こんなに良いものが安く買えるではないか、という言葉に沢田貴司副社長は勇気づけられ、いま最も自信のある商品に絞って打ち出してみようと腹を決めた。豊富な品揃えで店の性格を薄めるのではなく、一つの商品に焦点を当てて消費者へ訴える——このフォーカス戦略が原宿店の出店方針の軸に据えられた。柳井社長はのちに、この判断を沢田副社長の発案によるものと振り返っている[6]。
焦点に据える商品としてフリースが浮かび上がった。もっとも、その選択に緻密な裏づけがあったわけではない。柳井社長は、フリースを選んだのはたまたまで、データを積み上げたわけでも原宿をリサーチしたわけでもないと語っている。消費者にとってフリースはまだ一般的な商品ではなく、品質には自信があった。結果として、フリースという商材であればこそ、新しいタイプの企業であることを消費者に印象づけられたとみることができる[7]。
原宿店をフリースで埋め尽くす
決めた以上、店づくりは単品集中に徹した。同社は原宿の出店にあたり、「フリースに自信あり」とだけ記したポスターを都内の地下鉄駅や車内に張り出した。1階から3階まである店舗のうち、最も目立つ1階のショーウインドーと入り口付近の売り場をフリースで埋め尽くした。1着1900円で多色をそろえたフリースだけに焦点を絞る売り方で、原宿という情報発信地の一等地を単品の主張に振り切った[8]。
1998年11月に開いた原宿店の反応は、経営陣の予想を超えていた。週末ともなると店に入りきれない客の長い行列ができ、開店の日に話を聞いても、ユニクロを知っている客はほとんどいなかった。多くはフリースが安いと聞いて来てみたと口をそろえた。原宿店のにぎわいはテレビの情報番組やファッション雑誌に相次いで取り上げられ、それまで業績が落ち込んでいた郊外の既存店にも客足が戻っていった[9]。
結果
フリース800万着と全国区への浮上
フリースは全国的なブームとなり、この冬だけで800万着を売りさばいた。当時の日本の人口から単純計算すれば15人に1人がユニクロでフリースを買った勘定で、この販売数量は日本の小売業で群を抜く1位であった。フリースジャケット年間850万枚、Tシャツ2900万枚という高品質・低価格のカジュアル衣料が消費者の支持を受け、同社は売上高、利益ともに過去最高を記録した。ダイエーやイトーヨーカ堂といった大手スーパーもフリースを投入したが、数量はユニクロに遠く及ばなかった[10][11]。
数字も跳ね上がった。単体売上高は1998年8月期の831億円から2000年8月期には2289億円へと伸び、当期純利益は345億円に達して売上高純利益率は約15パーセントに及んだ。翌2001年8月期には売上高が4185億円、当期純利益が591億円へとほぼ倍増し、業績は頂点に達した。株価は1年で20倍に跳ね上がり、時価総額は一時1兆円を超えて、衣料小売りとしては異例の水準を記録した[12][13]。
品切れと「ブーム後」への危機感、そして反転
絶頂のさなかでも、同社は勢いを手放しでは喜んでいなかった。沢田貴司副社長は、商品の品切れが多過ぎる、フリースにしても品切れがなければ800万着どころか倍の1600万着はいくはずだと吐き捨てた。フリースが15色すべてそろっている店舗はまれで、目当ての色やサイズがないまま手ぶらで帰る客も少なくなかった。柳井社長も、ブームはいつか終わるという危機感をにじませ、ブーム後を乗り切るには生産と販売を直結させた抜本的な経営改革を進めるほかないと語っていた[14]。
危機感は現実になった。2001年秋以降、フリースの勢いは鈍り、2002年8月期には連結売上高3441億円、当期純利益511億円へと減収減益に転じた。柳井社長は、売れなくなったのは価格やデフレの問題ではなく、商品が行き渡ったことが大きいと述べている。単品集中で得た爆発的な認知は、その商品が世の中に行き渡った時点で伸びしろを失う。フリース以後の同社は、都心店フォーマットの見直しや商品構成の拡張へと動いていった[15][16]。
- 日経ビジネス 2000年1月17日号「ユニクロ、一品集中で急上昇」(日経BP)
- 週刊東洋経済 2000年7月15日号「不思議の国の『ユニクロ』――我々は汎用部品を売る『メーカー』なんです。」
- 日経産業新聞 2000年10月11日「『ユニクロ』最高益」
- 日経MJ 2002年1月15日「減益ユニクロ社長の弁明」
- ファーストリテイリング 有価証券報告書(1998年8月期・2000年8月期・2001年8月期・2002年8月期)