ユニクロを世界へ広げた柳井正氏
1949年3月、柳井等氏が山口県宇部市に紳士服店『メンズショップ小郡商事[1]』を開いた。柳井等氏が一代で興した個人経営の店[2]で、のちに事業を全国へ広げる柳井正氏の実父[3]にあたる。1963年5月、個人営業を引き継いで資本金600万円で小郡商事株式会社を設立[4]し、本店を山口県宇部市大字小串63番地147に置いた[5]。この紳士服店が同社の前身であり[6]、1984年6月に広島県第1号店を開くまで[7]、扱う商材は紳士服にとどまった。1991年9月の商号変更まで社名は小郡商事のまま[8]であった。
1972年、早稲田大学を出てジャスコで9ヶ月ほど働いた[9]柳井正氏が宇部へ戻り、家業に入った[10]。1980年代に入ると宇部興産が人員削減に踏み切り、自動車の普及で買い物客が郊外へ流れて、駅前商店街は客足を失った[11]。柳井正氏は後年この光景を『本当に寂しい限りです。過去の話ですが、これが私の原点です』[引用元]と振り返っている。1984年6月、柳井正氏は代表取締役社長に就き[12]、同時に祖業の紳士服事業をオーエス販売として切り離した[13]。家業を継いだ長男が、扱う商材そのものを入れ替える側に回った[14]。
1984年6月、広島市中区袋町に『ユニクロ袋町店』[15]を開き、『ユニクロ』という店名でカジュアルウエア小売業へ進出[16]した。店は繁華街から一本外れた裏通り[17]にあり、賃料は繁華街並みに高かった。国内メーカーを経由する仕入れでは原価率も下がらず[18]、低い価格で数を売る設計と都心の固定費は噛み合わなかった。紳士服の対面販売から、客が自分で手に取って選ぶ売り方へ移す[19]試みでもあった。この一号店は1991年に閉じている[20]。柳井正氏はのちに、この時期の店づくりを試行の一つとして振り返った[21]。
翌1985年、山口県下関市の郊外を走る幹線道路沿いに『ユニクロ山の田店』を開いた。広い駐車場を備えた郊外店は坪あたりの賃料が低く[22]、都心店では取れなかった売場面積と在庫量を確保できた。自動車で来店する客を相手にすることで、一度に買う点数も増えた[23]。1986年、柳井正氏は『現在、韓国などのNICS(新興工業国)は着実にその技術水準をあげている』[引用元]と述べ、仕入れ先を国外へ広げる構想を語っている。国内の問屋を経由するかぎり価格と品質を同時に満たせないという見立てが、この時点で示されていた[24]。
1988年、同社は香港に拠点を設け、購買事務所を通じて中国やベトナムの縫製工場へ直接発注[25]する調達に踏み込んだ。企画と設計は日本のスタッフが担い[26]、欧米一流小売のプライベートブランドや高級ブランドを手がける工場の生産ラインを一定期間買い取り、生産管理者を日本から送り込んで品質を見た。色とサイズの違いを除いたアイテム数は約400点[27]で、同規模のカジュアル衣料店の3分の1以下に絞っている。そのうえで1アイテムを数万から数十万点の単位で完全に買い取り、一流工場の確保が品質を決める[28]という考えのもとで交渉を有利に運んだ。
1994年8月期の有価証券報告書で、同社はこの調達構造を経営方針として明文化した[29]。『ノンエイジ』『ノンセックス』[30]を掲げたカジュアルウエアを低価格かつ高品質で提供するとし、商品の企画開発から販売まで一貫した商品政策の確立によって流通経路を短縮すると記している[31]。柳井正氏は『モノ作りまで踏み込まなければ本来の小売業とはいえない。日本の小売業から学ぶことは何もない』[引用元]と語った。1996年には『デザイナーはニューヨークで、生産はアジア、市場は日本、というグローバルな製造小売業の仕組みができたのを機に、出店ペースを毎年50店舗に増やしました。』[引用元]ことを、出店を年50店へ増やす条件に挙げている。
1991年9月、行動指針を表象するため商号を小郡商事から株式会社ファーストリテイリングへ変更[32]し、年に数店だった出店を年30店規模へ引き上げる計画[33]を掲げた。この規模の出店計画に地方銀行の多くは融資をためらったが、日本長期信用銀行広島支店が同社をベンチャー企業の一種として評価[34]し、他行の追随を引き出した。1992年4月には紳士服販売店のOS本店をユニクロ恩田店へ業態変更し、全店をカジュアルウエア販売店『ユニクロ』に統一[35]している。祖業の紳士服店は、これで全店が新しい業態へ置き換わった[36]。
1994年4月、日本国内の直営店舗数が100店を超え、直営109店・フランチャイズ7店[37]の陣容となった。同年7月には広島証券取引所へ株式を上場[38]し、およそ130億円を調達した。広島証券取引所の吉田八郎上場部長は、地域産業育成部銘柄制度をつくるなどして上場を働きかけた[39]と述べた。柳井正氏は公開で得た資金について『これで3年分の出店費用が確保できた』[引用元]と語り、翌1995年8月期から出店ペースを年50店へ加速させている。1998年2月には本部機能の充実のため山口県山口市佐山に本社新社屋を建てて移転[40]し、1997年4月には東京証券取引所市場第二部へ上場[41]した。
1995年の時点で売上高の約8割を自社企画のプライベートブランドが占め[42]、返品のきかない完全買い取りゆえに売れ残りの負担はすべて同社が負った。毎週月曜の朝から火曜の夕方まで、柳井正氏と畠中慶一氏ら商品本部を中心にバイヤー・店舗運営・商品コントローラーが順に会議へ呼ばれ、POSデータを見ながら全商品の値下げ幅を決める[43]売価変更会議[44]を開いている。定価での粗利益率は50パーセント以上[45]、処分品を含めても40パーセントを確保する値付けであった。プライベートブランドであるからこそ、安い定価でも大きな粗利益率を稼げた[46]。
値付けはシーズンを越える在庫を持たないために置かれ、何段階も値下げして完全に処分する方針[47]を採った。残る2割の海外メーカー品についても代理店を通さず直接輸入[48]し、自社で売価を変えられる状態にしている。1995年1月の阪神・淡路大震災では兵庫県の6店が最長2週間の閉店[49]を強いられたが、被災地に近い店の売上は震災前を上回った。柳井正氏はこれを商品が日常生活に密着している証拠[50]と受け止めている。売れ残りを翌シーズンへ繰り越さない運営[51]が、定価の高い粗利益率と両立した。
出店は土地と建物を持たずに進め、新規店は平均床面積150坪・年商約3億円[52]で、初期投資は6000万円とした。土地建物はすべてリース契約とし、初年度から黒字にならない立地には出店しない[53]基準を置いている。土地や建物を持てばそこに執着してより良い立地へ移るのが遅れる[54]、というのが柳井正氏の理屈であった。実際に創業の地である宇部の大和店を含む15店[55]、全体の1割近くを閉じている。1995年8月期は売上高が前期比35パーセント増の450億円[56]、経常利益が同64パーセント増の45億円となり、1994年6月にはニューヨークにデザイン事務所を開いた[57]。
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| 1949〜1985年宇部の駅前商店街と、ロードサイドで見つけた売り方 | ファーストリテイリング創業——宇部の駅前紳士服店「小郡商事」と長男・柳井正氏の飛躍 1949年3月、柳井等氏が山口県宇部市の宇部新川駅前商店街で紳士服店『メンズショップ小郡商事』を開いた創業。1963年5月に資本金600万円で株式会社化し、1972年に家業へ入った長男・柳井正氏が1984年6月にユニクロ1号店を開いて、地方の紳士服店を全国の衣料チェーンへと育てていった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳井等 | 小郡商事を設立 | ★ | ||
| 柳井等 | 柳井正氏が入社 | ★ | ||
| 柳井等 | 柳井正氏が社長に就任 | ★★ | ||
| 柳井等 | 紳士服事業をオーエス販売として分離 | ★ | ||
| 柳井等 | 「ユニクロ袋町店」を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | 郊外の幹線道路沿いに「ユニクロ山の田店」を出店 | ★★ | ||
| 1986〜1997年製造小売業の原型と、株式公開が開いた出店速度 | 柳井正 | 香港経由の直接調達による製造小売業(SPA)の原型づくり ロードサイド郊外店のファミリー層が求めた『安くて品質の良い普段着』を、多段階の国内アパレル流通では作れなかったファーストリテイリングが、1980年代後半から香港を窓口に中国などアジアの縫製工場へ直接発注する調達構造に踏み込み、企画から販売までを自社で一貫させる製造小売業(SPA)の原型を築いた経営判断。1994年の有価証券報告書でその方針を明文化した。 詳細を読む | ★★★ | |
| 柳井正 | ファーストリテイリングに商号変更 | ★★ | ||
| 柳井正 | 全店をカジュアルウエア販売店「ユニクロ」に統一 | ★★ | ||
| 柳井正 | 国内直営店舗数が100店を超える | ★ | ||
| 柳井正 | デザイン事務所を開設 | ★ | ||
| 柳井正 | 広島証券取引所に上場 | ★★ | ||
| 柳井正 | PB衣料8割と毎週の売価変更による「完全売り切り」体制の確立 1995年、ファーストリテイリングは売上高の約8割を自社企画のPB(プライベートブランド)衣料が占める体制のもと、POSデータを基に毎週の『売価変更会議』で全商品の値付けを見直し、シーズンを越える在庫を持たない『完全売り切り』の運営実務を確立した。前年7月の広島証券取引所への上場で3年分の出店資金を得て、出店ペースを年30店から年50店へ引き上げた時期にあたる。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳井正 | 出店ペースを年50店に加速 | ★★ | ||
| 柳井正 | 東京証券取引所市場第二部に上場 | ★ | ||
| 1998〜2007年個店対応への転換と、海外での失敗が生んだ旗艦店戦略 | 柳井正 | 本部集中管理から「個店対応」への転換 1998年、ファーストリテイリングは、いつ・どこに・何を・どう並べるかを本部が全店一律に決める集中管理を改め、本部の指針のもとで各店舗が在庫量と陳列を決める『個店対応』へ切り替えた。既存店売上高が前年を割り込み、新業態『ファミクロ』『スポクロ』が1年で撤退した失速のなかでの転換であり、同年11月の原宿出店とフリースの浸透によって挽回へ向かう前夜にあたる。 詳細を読む | ★★★ | |
| 柳井正 | 「ユニクロ原宿店」を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | 東京証券取引所市場第一部に指定替え | ★ | ||
| 柳井正 | 原宿都心店とフリース単品集中による全国ブランド化 1998年11月の原宿店開業を機に、ファーストリテイリングがフリースという単品に絞って売り込むフォーカス戦略を打ち、全国的な知名度と高収益を得た経営判断。柳井正社長のもとで、沢田貴司副社長の発案により商品を一つに絞る方針が固まった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳井正 | インターネット通信販売を開始 | ★★ | ||
| 柳井正 | ユニクロの海外1号店を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | 社長交代を発表 | ★★ | ||
| 柳井正 | 英国事業で経常赤字36億円を計上 | ★ | ||
| 柳井正 | ユニクロの中国1号店を出店 | ★★ | ||
| 玉塚元一 | 柳井正氏の社長退任と玉塚元一氏の登用 2002年11月、ファーストリテイリング創業者の柳井正社長が53歳で社長を退いて代表取締役会長兼CEOへ回り、39歳の玉塚元一氏を代表取締役社長兼COOへ登用した。フリースブームの反動で減益に沈むなかでの世代交代であり、副社長の澤田貴司氏が本命と見られた末の人事でもあった。カリスマ創業者への依存から脱する『脱カリスマ経営』への挑戦だった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 玉塚元一 | 英国の地方16店を8月までに閉鎖 | ★★ | ||
| 玉塚元一 | UNIQLO USA Inc.を設立 | ★ | ||
| 玉塚元一 | コントワー・デ・コトニエを子会社化 | ★★ | ||
| 柳井正 | ユニクロの香港1号店を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | 柳井正氏が代表取締役会長兼社長として社長に復帰 | ★★ | ||
| 柳井正 | 持株会社体制に移行 | ★★ | ||
| 柳井正 | 低価格ブランド「ジーユー(GU)」の設立 2006年3月、ファーストリテイリングは低価格なカジュアル衣料品を販売する株式会社ジーユー(GU)を設立し、同年内に1号店を開いた。グローバル旗艦店戦略でユニクロの価格帯が緩やかに上がるなか、空く国内の低価格市場を自社の別ブランドで埋める価格帯別マルチブランド戦略の始まりだった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳井正 | グローバル化宣言とニューヨーク・ソーホーへの1000坪グローバル旗艦店の出店 2006年、ファーストリテイリングはグローバル化を経営方針として宣言し、同年11月にニューヨーク・ソーホーへ売場面積1000坪のユニクロ初のグローバル旗艦店『ユニクロソーホーニューヨーク店』を開いた。英国郊外での不振と2005年の香港300坪店の成功を踏まえ、進出国の一等地に大型旗艦店を置いてブランド認知を一気に高める戦略へ切り替えた経営判断。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳井正 | 「ヒートテック」の販売が2000万枚に到達 | ★★ | ||
| 柳井正 | ジーユーが営業赤字14億円を計上 | ★ | ||
| 柳井正 | 米高級百貨店バーニーズ・ニューヨーク買収の提示と断念 2007年、ファーストリテイリングが米高級百貨店バーニーズ・ニューヨークの買収に名乗りを上げ、いったんドバイ政府系投資会社イスティスマールとの間で成立していた売却合意に、より高い価格を提示して割って入った経営判断。柳井正氏会長兼社長の主導であったが、9月には争奪から退き、買収は成立しなかった。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 柳井正 | グローバル旗艦店「311 オックスフォードストリート店」を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | ユニクロの欧州大陸1号店を出店 | ★ | ||
| 2008〜2026年情報製造小売業への組み替えと、承継の未決着 | 柳井正 | リンク・セオリー・ホールディングスを公開買付けにより子会社化 | ★★ | |
| 柳井正 | ジーユーが990円ジーンズを発売 | ★★ | ||
| 柳井正 | ジーユーがトレンドファッションラインを開始 | ★ | ||
| 柳井正 | グローバル旗艦店「銀座店」を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | ジーユーの売上高が580億円に到達 | ★ | ||
| 柳井正 | 連結売上高が1兆円を突破 | ★★ | ||
| 柳井正 | 柳井正氏が65歳での社長引退という公約を撤回 | ★★ | ||
| 柳井正 | 無担保普通社債を発行 | ★ | ||
| 柳井正 | 経営方針に「情報製造小売業」を掲げる | ★★ | ||
| 柳井正 | 次世代物流センターが竣工 | ★★ | ||
| 柳井正 | 有明本部が稼働 | ★★ | ||
| 柳井正 | 主要取引先の縫製工場リストを公開 | ★ | ||
| 柳井正 | 国内直営既存店売上高が前年同月比56.5%減 | ★★ | ||
| 柳井正 | グローバル旗艦店「UNIQLO TOKYO」を出店 | ★★ | ||
| 柳井正 | 17期ぶりの減収 | ★★ | ||
| 柳井正 | プライム市場に移行 | ★ | ||
| 柳井正 | 北米事業の通期黒字化見通しを発表 | ★★ | ||
| 柳井正 | 塚越大介氏がユニクロ社長兼COOに就任 | ★ | ||
| 柳井正 | 塚越大介氏がCOOに就任 | ★★ | ||
| 柳井正 | 連結売上収益が3兆4005億円に到達 | ★ | ||
| 柳井正 | 取締役定員の拡大と塚越大介氏の登用による「ポスト柳井」の準備 2025年11月27日、ファーストリテイリングは山口市で開いた定時株主総会で、取締役の定員を10名以内から15名以内へ広げる定款変更を可決し、ユニクロ社長兼COOの塚越大介氏を取締役に選任した。売上収益3兆4,005億円を創業者の柳井正会長兼社長がなお一頭で率いるなかで、後継の準備を一歩進める人事であった。塚越氏は柳井氏が『後継の有資格者の1人』と評する叩き上げの経営幹部である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(ファーストリテイリング)