重要な意思決定
1980

商店街(銀天街)の衰退

背景

石炭衰退とモータリゼーションによる商店街の二重の構造変化

1980年代を通じて、宇部新川駅前商店街は二つの構造変化に直面した。第一は宇部興産のリストラである。石炭産業の衰退により、企業城下町として発展してきた商店街は、大口顧客である宇部興産従業員の減少という問題に直面した。第二はモータリゼーションの到来である。1970年代の道路網整備により、顧客の購買行動は「徒歩による商店街での買い物」から「自動車によるショッピングセンターでの買い物」へと移行し、駅前商店街の集客力は構造的に低下した。

ただし、衰退は1970年代から2000年代にかけて30年間かけて緩やかに進行したため、危機感を持つ商店主は少なかった。1988年には若手店主たちが9億円を投資して多目的施設「銀天プラザ」を開業するなど、商店街の活性化に向けた試みも行われた。しかしこれらの施策は効果を発揮せず、現状維持型の投資として失敗に終わった。

決断

衰退を直視できなかった商店街と、脱出を選んだ柳井正

宇部新川駅前商店街はその後シャッター街と化した。かつて宇部新川で最も栄えた百貨店「デパート大和(中央大和)」は2007年に閉鎖され、跡地には高層マンションが建設された。2022年現在、商店街は商業地としての役目を終え、空き地ないし住宅地に転換されつつある。柳井正は「これが私の原点です」と語っており、この衰退プロセスの当事者体験が、ユニクロのロードサイド展開・SPA構築・グローバル展開という経営判断の出発点となった。

商店街の衰退が緩慢であったがゆえに、多くの商店主は現状維持を選択した。その中で柳井正が1984年にユニクロを立ち上げ、商店街の外に活路を見出したのは、衰退の終着点を先読みした判断であった。石炭→モータリゼーションという二重の構造変化を経験した当事者だからこそ、脱出先の解像度が高かったと言える。