商船三井ナビックスラインとの対等合併と「商船三井」への商号変更
不定期船を自分で造るか、会社ごと取り込むか——船腹過剰を招かずに規模を得るために、35年使った商号を手放した
- 概要
- 1998年11月20日、大阪商船三井船舶はナビックスラインとの対等合併を発表し、1999年4月1日に合併して商号を株式会社商船三井へ変更した。合併交渉は1997年9月に生田正治社長がナビックスラインの堀憲明社長へ持ちかけたもので、日本郵船と昭和海運の合併発表より前に始まっていた。1964年から35年使われた「大阪商船三井船舶」の商号はここで終わった。
- 背景
- 商船三井の売上構成は定期船が約5割、不定期船が3割強、タンカーなどが2割弱で、生田社長は「正直なところ定期船部門は赤字で、不定期船部門がカバーする構造」と語っていた。1984年の米海事法改正で運賃カルテルが否定されて以来、太平洋航路の船会社は40社から半減。1998年3月には日本郵船が昭和海運を事実上吸収し、船腹量2,895万トンで商船三井の1,982万トンを引き離した。
- 内容
- 合併の狙いはポートフォリオの組み替えであった。不定期専用船とエネルギー輸送に特化するナビックスラインと組むことで、事業構成を定期船4割・不定期貨物船4割・エネルギー船2割へ変える。自社で船を造れば市況を混乱させるため、生田社長は会社を取り込む手法を選び、ギアバルク40%出資、東京マリン買収に続く一手とした。合併効果は3年後に100億〜120億円の増益を見込んだ。
- 含意
- 邦船の再編は大手3社体制へ収斂した。商号変更の意思は8年前から語られており、1991年に転法輪奏社長は「名前だけが合併会社のままで損をしている」と述べていた。一方でナビックスの名は「MOLナビックスグループ」として残された。組み替えても定期船4割は残り、コンテナ船の構造赤字は2000年代へ持ち越された。
船を造らずに規模を得るということ
生田社長は「船を増やすとマーケットを混乱させる要因になってしまいます」と言い、規模を船ではなく会社で買った。ギアバルクへの40%出資、東京マリンの買収、英バーマ社からのLNG船会社の取得、そしてナビックスラインとの合併。自分で船腹を増やせば自分で運賃を壊す海運業では、他人の船隊を引き受けるほうが総量を増やさずに済む。郵船・昭和の発表より半年早く堀憲明社長へ話を持ちかけていた事実も、この説明を裏づけているとみられる。
ただ、組み替えても定期船4割は残り、そこにあった赤字も残った。2002年にコンテナ運賃は歴史的な安値に張り付き、加藤敏文執行役員の「積めば積むほど赤字になる」という言葉が示すように、比率を薄めた事業の採算そのものは変わらなかった。商号は「商船三井」へ改まり、1964年の合併が残した名前の問題は解けたが、同じ合併が抱え込んだ定期船という荷は、コンテナ船事業を邦船3社で切り出す2016年まで持ち越されたといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
定期船五割という荷姿
1998年の商船三井の売上構成は、定期船が約5割、不定期船が3割強、タンカーなどが2割弱であった。生田正治社長は「正直なところ定期船部門は赤字で、不定期船部門がカバーする構造になっています」と述べ、そのうえで「定期船が約五割というのは大きすぎる」と語っている。1984年に米国で海事法が制定されて運賃カルテルが否定されると、太平洋を走る船会社は40社から半減し、日本の定期船運航会社も6社から3社へ減っていた[1][2]。
コスト側の手はすでに打ち尽くしていた。1968年から日本人船員の割高な人件費に対して海外に船籍を置く仕組み船を始め、1985年のプラザ合意後に加速させた。1998年時点で運航352隻のうち154隻が他社からの用船で、残る198隻のうち159隻が仕組み船であった。社員は1964年には陸上・海上あわせて約5,800人で全員が日本人であったが、1998年には日本人1,660人・外国人9,400人の計1万1,060人へ入れ替わっていた[3][4]。
郵船と昭和が先に動く
1998年3月27日、日本郵船が業界5位の昭和海運を事実上吸収合併する方針を発表した。船腹量は2,895万トンとなり、商船三井の1,982万トンを引き離した。昭和海運は1998年3月期末に546億円の累積損失を抱えており、230億円の債務免除と減資で処理する計画であった。定期船に強い郵船と不定期船に特化した昭和という補完の組み合わせで、邦船の並びが動いた[5]。
生田社長は表向き平静で、「我々が対抗して合併などの道を模索するという考えはない」と述べていた。業界には「最もメリットを生む組み合わせは商船三井と川崎汽船」との声もあり、金融機関の出方次第で次の再編があり得るとみられた。海外では英P&Oとオランダのネドロイドが合併し、シンガポールのネプチューン・オリエント・ラインズが米APLを買収して、コンテナ船の規模で日本勢を引き離していた[6]。
決断
造らずに、会社を取り込む
合併の発表は1998年11月20日であった。生田社長によれば、話を始めたのは1997年9月にあるパーティーで同席したナビックスラインの堀憲明社長へ自ら持ちかけたときで、郵船・昭和の発表より半年早い。「この合併が銀行や役所主導ではなく、私とナビックスラインの堀憲明社長が話し合って決めた」ため交渉は表面化せず、商船三井の役員でもほとんどは発表当日朝の取締役会で初めて聞いた[7]。
狙いは規模ではなく構成の組み替えにあった。生田社長は「定期船を縮小するのではなく、不定期船を強化する」と述べ、不定期専用船とエネルギー輸送に特化するナビックスラインと組めば定期船4割・不定期貨物船4割・エネルギー船2割になると説明した。自社で船を造る道もあったが「船を増やすとマーケットを混乱させる要因になってしまいます」。7年前のギアバルク40%出資、2年前の東京マリン買収に続く手法であった[8][9]。
消す名前と、残す名前
1999年4月1日の合併とともに、商号は株式会社商船三井へ変わった。「大阪商船三井船舶」は35年で終わった。この変更は合併に付随して急に決まったものではない。1991年12月、転法輪奏社長は「合併はうまくいっているのに、名前だけが合併会社のままで損をしていることがあるのではないかと思うようになったのです」と語り、「早い時期に名前を変えた方が良いと思っています」と述べていた[10][11]。
自社の名を消す一方で、相手の名は残した。生田社長は「ナビックスという世間で認められている名前をどう残すかでは、お互いに知恵を絞りました」と述べ、不定期船・エネルギー船の分野で「MOLナビックスグループ」というトレードネームを作り、書類でも使うことにした。合併効果は2000年3月期に約30億円、配船効率化で20億円、組織・人員の再配備で60億円と積み上げ、3年後に100億〜120億円の増益を見込んだ。人員削減は行わないと明言した[12][13]。
結果
大手3社体制と、残された定期船
合併初年度の2000年3月期は連結売上高8,818億円・経常利益286億円、翌2001年3月期は経常利益530億円へ伸びた。生田社長は1999年3月期の経常利益を商船三井160億円、ナビックスライン48億円と見込んでいたから、統合後の利益水準は上がった。格付け引き下げの動きに対しては「この合併は再建ではない」と反論し、連結有利子負債9,400億円のうち3,500億円はLNG船・タンカー・鉄鉱石船への投資で長期輸送契約の裏付けがあると説明した[14][15]。
邦船の再編は大手3社体制へ収斂した。しかし組み替えて4割に下げた定期船の赤字は残った。1999年に3,000ドルであった北米向けコンテナ運賃は2001年に暴落し、2002年春の契約更改でさらに15%下がって2,000ドル前後に張り付いた。「この水準で利益を出せるコンテナ船会社は地上に一社もない」と書かれた誌面で、商船三井の加藤敏文執行役員は「積めば積むほど赤字になる。このままではサービスの維持さえ難しい」と述べている[16][17]。
- 週刊東洋経済 1998年12月19日号「[編集長インタビュー]生田正治 大阪商船三井船舶社長 合併を機に世界市場で勝ちたい」
- 週刊東洋経済 2002年11月23日号「[産業レポート]経営分析 海運業界 コンテナ船の赤字地獄 U字回復か、大再編か」
- 日経ビジネス 1998年4月6日号「郵船・昭和合併で注目される次の再編劇 ライバル商船三井は? 海外勢の出方も見過ごせない」
- 日経ビジネス 1998年5月25日号「編集長インタビュー 生田正治氏[商船三井社長]国際企業連合で世界競争生き抜く 加盟条件は強さ、スピード、信頼感」
- 日経ビジネス 1991年12月16日号「編集長インタビュー 転法輪奏氏[大阪商船三井船舶社長]総合物流めざし積極投資 社名変更は早い時期に」
- 商船三井 有価証券報告書 第167期(2025年3月期)【沿革】
- 商船三井 会社年鑑(連結業績)