再販価格維持の撤廃
1997年実施公取委と争えたはずの資生堂は、なぜ70年続いた価格統制を手放し「争いより改革」を選んだのか
- 概要
- 1995年、大手量販店への価格拘束を理由に公正取引委員会から排除勧告を受けた資生堂が、いったんは審判で争う構えを見せながら約3カ月後にこれを受諾し、1953年の再販指定以来メーカーが握ってきた化粧品の価格統制を1997年に手放した経営判断。福原義春社長は「争うためのエネルギーを改革へ回す」として、値引きを認めない定価販売の時代を自ら終わらせた。
- 背景
- 大正時代に始めたチェーンストア制度と1953年の再販指定に支えられ、資生堂は全国同一価格の定価販売で高い利益率を保ってきた。だが対面販売の義務づけが価格維持につながるとして安売り店や公取委との係争が続き、美容部員派遣を軸とする高コスト体質と、価格競争の経験を欠いた組織の弱さが露呈しつつあった。
- 内容
- 1995年6月、公取委はダイエーなど量販店への価格拘束を理由に排除勧告を出した。役員会でも徹底抗戦論が強かったが、福原社長は9月末に受諾を決断。市場の流動化のなかで争いを続ける実質的な意味を疑い、守りのエネルギーを販売体質の改革に振り向ける道を選んだ。オープン価格化とセルフ商品の拡充へと転じた。
- 含意
- 撤廃後は値引き販売が常態化して利益率が低下し、ドラッグストアを主戦場とする低価格帯ブランドが台頭した。専務として問題を仕切り後に社長となった弦間明は「メーカーの論理と顧客の論理の差を埋めねば支持されない」と総括したが、価格帯の空白と価格競争力の不足は、2000年代のブランド集約と再建へ持ち越された。
70年の価格統制を手放した勇気と、その空白
この決断の核心は、法規制への対応そのものよりも、公取委と争う道もあったなかで福原社長が争いを選ばず、守りに割く力を改革へ回すと決めた点にある。1987年に販社の滞留在庫を一括回収し高度成長期型の数量拡大モデルを断ち切ったのと同じく、痛みを先送りせず自ら流通の実態と向き合う判断であった。70年続いた価格統制を手放したことで、資生堂はようやく市場競争の土俵に立った。
もっとも、制度に守られた期間の長さは、競争環境への適応力の乏しさとして跳ね返った。価格を動かした経験のない組織は、値引きの常態化と低価格帯ブランドの台頭に後手を踏み、手薄な価格帯の空白を突かれた。撤廃が可能にした競争は、同時にブランドの乱立と収益効率の悪化という次の課題を呼び込み、2000年代のブランド集約とチェーン店再生へと直結していく。争いより改革を選んだ勇気は正しかったが、改革の中身が競争に追いつくには、なお時間を要した。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
定価販売という高収益モデルの限界
資生堂は1923年(大正12年)に始めたチェーンストア制度で「資生堂の製品はチェーンストアだけで扱い、全国同一価格とする」原則を敷き、1953年に化粧品が再販指定品目となったことで、メーカーが小売価格を維持できる仕組みを長く享受してきた。値引きの起きない環境は高い利益率を支えたが、その裏側で対面販売の義務づけが小売店に大きなコスト負担を課し、美容部員の派遣費を軸とする販売管理費が経営に重くのしかかっていた[1]。
1990年代に入ると、細川政権下の規制緩和を背景に安売り店との係争が相次いだ。対面販売を怠ったとして契約を解除された富士喜本店は契約存続を求めて勝訴し、東京地裁は対面販売の義務づけが「価格維持の効果を生み、独占禁止法の趣旨に反する可能性がある」と踏み込んだ。1993年9月には河内屋の申し立てを受けて公取委が販売会社を立ち入り検査し、再販制度そのものも1998年までに全廃される見通しが強まっていた[2]。
決断
「争いより改革に力を使おう」
1995年6月、公取委はダイエーなど量販店への価格拘束と生協との契約を理由に、資生堂へ排除勧告を出した。当初、福原義春社長は販促商品の提供と価格拘束は別物だとして審判で争う構えを見せ、受諾に反対する役員も少なくなかった。だが安売りが現実に広がり市場が流動化するなか、福原社長は争いの実質的な意味を疑い始める。9月末に自ら受諾を決め、10月2日の役員会で方針を固めた[3][4]。
受諾は、戦前から約70年にわたり続けてきたメーカー主導の価格統制を自ら手放すことを意味した。福原社長はこれを大正時代のチェーンストア発足以来の歴史的な転換点ととらえ、オープン価格化とセルフ商品の拡充へ進んだ。1997年、資生堂は再販価格維持を撤廃し、小売店に価格設定を委ねる体制へ移った[5]。
結果
値引きの常態化と、遅れて突き付けられた代償
撤廃後、資生堂は価格競争の影響を直接被った。小売段階で値引き販売が広がり、対面ではなく客が自分で選ぶセルフ商品の比率が高まって国内販売は伸び悩んだ。一方で海外のプレステージ路線は伸長し、収益の地域差が広がった。価格拘束問題を専務として仕切り、1997年6月に社長へ就いた弦間明は、この経験を経営の原点になったと振り返った[6]。
それでも資生堂は、値引き対象になりにくいスキンケアを中心に対面販売の強みを残す道を選び、約2万5000店の系列店のテコ入れに向かった。だが価格を競争手段として使う体制の整備は追いつかず、ドラッグストアを主戦場とする低価格帯ブランドが手薄だった価格帯を侵食した。売上高は1998年3月期の6209億円を頂点に頭打ちとなり、2001年3月期には連結最終損益が450億円の赤字へ転落する[7][8]。
- 日経ビジネス 1993年11月8日号「資生堂 がけっぷちの定価販売 莫大な販管費圧縮急ぐ」(日経BP社)
- 日経ビジネス 1995年10月30日号「編集長インタビュー 福原義春氏[資生堂社長]排除勧告受諾、会社の糧に 争いより改革に力を使おう」(日経BP社)
- 日経ビジネス 1998年6月29日号「編集長インタビュー 弦間明氏[資生堂社長]値引き商品志向はそろそろ収束 対面販売強化へ系列店をテコ入れ」(日経BP社)
- 資生堂 有価証券報告書(連結)