ブランド集約とチェーン店再生
2001年実施約100に膨らんだブランドと赤字転落を前に、資生堂はなぜ新チャネルではなく大正時代の販売網へ回帰したのか
- 概要
- バブル崩壊後に約100まで膨らんだブランドの分散と、コンビニ専用ブランドの失敗による2001年3月期の赤字転落を受け、2001年に社長へ就いた池田守男が、中核ブランドへの集約と大正時代からのチェーン店網の再生に踏み込んだ経営判断。新チャネルの開拓ではなく既存の販売店組織への回帰を選び、スキンケアという創業の原点へ経営資源を絞り込んだ。2005年のメガブランド戦略の前史をなす。
- 背景
- 連結売上高は1998年3月期の6209億円を頂点に下落し、2001年3月期には最終損益が450億円の赤字へ転じた。国内化粧品市場の縮小に加え、1994年頃から毎年20〜30もの新ブランドを投入して数が約100に膨らみ、経営資源が分散して投資効率が悪化していた。前年に立ち上げたコンビニ専用ブランドも1年で戦略変更を迫られた。
- 内容
- 2001年6月に弦間明から社長を引き継いだ池田守男は、口紅やファンデーションなど量販向けブランドを大幅に削り、売上上位の中核ブランドへ販促・人員を集中する方針を掲げた。同時に、約2万5000店のチェーン店にPOS端末を無償提供してSCMを導入し、リベートを仕入れ基準から店頭売上基準へ改め、「もっと仕入れて」から「一緒に売る」提案営業への転換を進めた。
- 含意
- 新興チャネルの低価格競争に飛び込まず、最寄り性という既存資産を磨く道を選んだ判断は、2003年3月期の黒字転換につながった。ブランドを絞って広告投資を集中させる発想は、2005年に前田新造が掲げるメガブランド戦略(TSUBAKI等)へ引き継がれ、多品種・チェーン店依存モデルからの脱却を決定づけた。
選択と集中という、資生堂の反復
この判断の意味は、拡大の反対側へ転じた点にある。1987年の販社在庫の一括回収で数量拡大モデルを断ち切り、1997年に70年続いた再販価格維持を手放して市場競争に踏み込んだ資生堂は、その競争のなかでブランドを乱立させ、かえって資源を薄く広く散らしてしまった。池田守男の決断は、その反省の上で「増やす」から「絞る」へと経営を切り替え、創業の原点であるスキンケアと、最寄り性という固有資産に立ち返るものであった。
新しいチャネルの華やかさに背を向け、古い販売網の再生に賭ける選択は、一見すると保守的に映る。だが低価格競争に体力を削られる前に、他社が容易に真似できない系列店網へ資源を集中したことが、赤字からの反転を可能にした。ここで確立された「選択と集中」の型は、2005年のメガブランド戦略へと受け継がれ、多品種と系列依存で組み上がってきた資生堂の事業モデルを、少数ブランドへの集中投資という次の段階へ押し上げていった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
約100ブランドの分散と赤字転落
化粧品首位の座を占めてきた資生堂の業績は、1990年代末から伸び悩んでいた。連結売上高は1998年3月期の6209億円を頂点に下がり続け、国内化粧品市場の縮小とファンケルやDHCなど新興ブランドの台頭が競争を激しくした。病巣のひとつはブランドの乱立にあった。バブル崩壊以降、国際化とチャネル多様化への対応を名目に新ブランドを次々と投入し、その数は約100に達して、経営資源が分散し投資効率が悪化していた[1]。
拡大路線のつまずきは新チャネルでも露呈した。2000年に子会社を設けて立ち上げたコンビニ専用ブランドは、宣伝をインターネットに特化し、単品売りが勝負の市場へフルライン型のマーケティングを持ち込む誤りから販売不振に陥り、わずか1年で戦略変更を迫られた。こうした不振が重なり、2001年3月期の連結最終損益は450億円の赤字へ転落した[2][3]。
決断
新チャネルではなく、大正時代の販売網へ回帰
2001年6月に弦間明から社長を引き継ぐ池田守男が打ち出したのは、新しい販売チャネルの開拓ではなく、大正時代から続く伝統的な販売店組織「チェインストア」への回帰であった。ドラッグストアや量販店へ自ら打って出れば低価格競争に巻き込まれる——約2万5000店の系列店という他社が一朝一夕には築けない資産を磨く方が勝ち目がある、という判断であった。秋以降をめどにチェーン店へPOS端末を無償提供してサプライチェーン管理を導入し、在庫償却費の半減を目指した[4][5]。
販売網の立て直しと並ぶもうひとつの柱が、ブランドの集約であった。池田は口紅やファンデーションなど量販向けに乱立したブランドを大幅に削り、エリクシール、ホワイト、クレ・ド・ポー・ボーテ、リバイタルといった売上上位の中核ブランドへ販促と人員を集中する方針を掲げた。その拠り所として、創業商品「オイデルミン」に始まるスキンケアを資生堂の原点と定め、スキンケア中心の仕組みへ組み替える考えを示した[6]。
結果
黒字転換と、メガブランド戦略への助走
低価格競争に飛び込まず、最寄り性という既存資産を磨く選択は、業績の底打ちにつながった。ブランド集約とチェーン店改革、コンビニ市場への「化粧惑星」での再挑戦が進むなか、連結最終損益は2001年3月期の450億円の赤字、2002年3月期の227億円の赤字を経て、2003年3月期には244億円の黒字へ回復した。POS導入とリベート改革は、仕入れを競う関係から売れ行きを共有する関係へと、メーカーと小売店の距離を組み替えていった[7]。
ブランドを絞って広告投資を集中させるという発想は、ここで終わらなかった。2005年に社長へ就いた前田新造は、これをメガブランド戦略として推し進め、少数の基軸ブランドへ広告宣伝を集中投下する手法で「TSUBAKI」などを育て、ヘアケアで首位に立つ成果を挙げた。2000年代初頭のブランド集約とチェーン店再生は、その助走路にあたる[8]。
- 日経ビジネス 2001年4月9日号「資生堂 ブランド集約しチェーン店再生に注力」(日経BP社)
- 資生堂 有価証券報告書(連結)