チェインストア・販売会社方式の確立

化粧品の乱売と関東大震災後の流通壊滅を前に、資生堂はなぜ問屋依存をやめてメーカー主導の販売会社制へ組み替えたのか

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時期 1923年12月
意思決定者 福原信三・松本昇 資生堂 二代目社長・資生堂 のちの社長
論点 流通の設計と価格統制
概要
1923年、関東大震災後の流通混乱を機に、資生堂が問屋を「資生堂製品のみを扱う販売会社」へ組織替えし、その下にチェインストア(協力店)を束ねてメーカー主導の系列販売網を築いた経営判断。のちに社長となる松本昇氏が持ち帰ったアメリカのボランタリー・チェーンを参考にし、値引き販売を抑えて価格を統一する仕組みを整えた。銀座の一調剤薬局が、製造から小売までの流れを自らの手で束ねる流通設計へ踏み込んだ転換であった。
背景
大正期の化粧品業界は乱売で疲弊し、メーカー・問屋・小売店から倒産者が続出する恐慌の様相を呈していた。問屋は新製品への関心が薄く、小売店に商品を引き渡すだけで説明もしないという流通の摩擦もあった。1923年9月の関東大震災で既存の配給機構が壊滅した混乱が、問屋に頼ってきた販売の流れを根本から作り替える機会となった。
内容
資生堂は問屋をまず自社の営業代理部とし、さらに資生堂製品だけを扱う専業の販売会社へ組織替えした。値引き販売の防止を小売段階まで徹底させ、販売会社の株式を所属チェインストアに持たせて、メーカーと小売店が利害を共にする関係で束ねた。1937年には消費者組織「花椿会」を結成し、メーカー・販売会社・小売店・消費者を貫く系列網を整えた。
含意
メーカーが流通を握る仕組みは半世紀機能し、1973年時点で販売会社89社・ボランタリーチェーン1万6000店を数え、「”家電の松下”と並び称される」流通支配を築いた。一方で問屋依存を断ってメーカー主導の秩序を固定化したことは、のちの再販売価格維持の撤廃(1997年)やチェーン店再生(2001年)が向き合う流通構造の原型ともなった。
筆者の見解

銀座の薬局が描いた流通支配の型

この判断の芯にあるのは、銀座の一調剤薬局が、製造から小売までの流れを自らの手で束ねようとした構想の大きさである。問屋の無関心と乱売という流通の摩擦を、資生堂は取引条件の交渉ではなく、流通の構造そのものを作り替えることで解こうとした。関東大震災で既存の配給機構が崩れた偶然を好機に変え、問屋を専業の販売会社へ、小売店をチェインストアへ、消費者を花椿会へと、川上から川下までを一本の系列で貫いた設計は、のちに「家電の松下」と並べて語られる流通支配の型を、化粧品の世界で先に描いたものとみることができる。

同時にこの仕組みは、メーカーが流通の秩序を握り続ける構造を半世紀にわたって固定した。価格を保つ再販制度と結んで資生堂の強さを支えた一方で、問屋や小売店の自律を薄め、市場の変化への感度を鈍らせる面も抱えていた。のちに再販売価格維持の撤廃(1997年)で市場競争へ入り、ブランド集約とチェーン店再生(2001年)で「大正時代の販売網」への回帰を語ることになる資生堂にとって、1923年の流通設計は繰り返し立ち返る原点であり続けた。効率と統制のどちらを優先するかという問いは、流通の主導権を誰が握るのかという問いと重なりながら、いまも化粧品の商いに影を落としているとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

乱売の恐慌と問屋依存の摩擦

大正期の化粧品業界は、値引きの応酬による乱売で疲弊していた。のちに資生堂が自らの販売組織の来歴を語ったところによれば、この時期はメーカーも問屋も小売店も倒産者が続出する恐慌の様相を呈しており、同社は公正な利潤の確保こそ消費者への正しいサービスにつながると考えて、販売組織の研究に着手していた。値引き競争が業界全体の体力を削るなかで、価格の秩序をどう保つかが、一メーカーの範囲を超えた課題になっていた[1]

もうひとつの摩擦は、メーカーと小売店の間に立つ問屋のふるまいにあった。資生堂側の回想では、当時の問屋は開発された新製品への関心が薄く、十分な説明もせずに小売店へ商品を引き渡せば仕事は終わりという扱いをしており、作り手であるメーカーの側には不満が残った。新しい化粧品の価値を売場まで伝える担い手が流通の途中で欠けていたことが、問屋を介した従来の商いの限界を映していた[2]

震災の混乱と、薬局時代からの下地

業界全体が乱売で揺れるなかで、流通の枠組みを一度に崩す出来事が起きた。1923年9月の関東大震災である。既存の配給機構が全く壊滅して商品の流れが止まり、資生堂もその混乱に直面した。だが崩れた流通は、問屋に依存してきた従来の商いを根本から組み替える余地でもあった。資生堂はこの震災後の混乱を、系統だった販売組織を確立する好機ととらえた[3]

もっとも、小売店とともに販路を築く発想は、震災で急に生まれたものではなかった。資生堂の売薬は、創業の資生堂薬局だけでなく、そこに勤めた薬剤師が独立して開いた薬局を通じても広く売られていた。小売店と共に生きる共存共栄という商いの型は薬局の時代から続いており、これがのちに化粧品メーカーとなった資生堂がチェインストア組織を採る下地となった。震災は、その下地を全国規模の系列網へ育てる引き金であった[4]

決断

アメリカのチェーンを換骨奪胎する

販売組織を作り替える構想そのものは、震災より前に用意されていた。のちに社長となる松本昇氏はアメリカへ渡ってボランタリー・チェーンの仕組みを調べ、これを日本の実情に合わせて換骨奪胎し、日本的なチェーンへ組織しようと考えていた。当初この案は商工省に取り上げられず棚上げされていたが、震災で配給機構が崩れた1923年、資生堂は温めていた構想を一気に実行へ移した[5]

松本昇氏がまず手をつけたのは、問屋との取引の切り分けであった。資生堂の商品は小売から現金で入ってくるため、他社の取引とは分けて別会計にするよう問屋に求め、問屋を資生堂の営業代理部にあたる格好へ移した。そのうえで一歩を進め、これらの問屋を、資生堂製品だけを取り扱う販売会社へと組織替えしていった。問屋を排して直販へ走るのではなく、流通の担い手を自社の機構の内側へ作り替える道であった[6]

値引きを封じる二段の設計

この組織替えの狙いは、価格の乱れを流通の末端まで抑え込むことにあった。問屋を専業の販売会社に変えたことで、資生堂は自社製品の値引き販売の防止を、初めて小売段階にまで徹底させることができた。乱売で崩れていた価格の秩序を、個々の交渉ではなく流通の構造を通じて保つ仕組みへと組み替えた。値引きが利かない売場を作ることが、販売量の見通しを立てやすくし、キャンペーンを軸にした計画的な商いを支えていった[7]

設計にはもう一段の工夫があった。資生堂は販売会社の株式を、その下に連なるチェインストア全部に持たせた。小売店に「これはあなた方の会社だ」という当事者の意識を持たせ、メーカー・販売会社・小売店が利害を分け合う関係で結んだ。株式を通じて系列の内側から結束を固めたところに、単なる特約店契約とは異なる密度があった。契約で縛るのではなく、資本と利害で結ぶこの二段の仕掛けが、川上から川下までを一本の系列で貫く土台になった[8]

結果

協力店の広がりと花椿会

新しい販売組織は、資生堂自身の見込みを超えて広がった。当初は協力店が20店ほどにとどまるという予想もあったが、まもなく数千の協力店を得るまでに伸び、メーカー主導のチェインストア網が全国へ根を張った。1927年6月には株式会社資生堂へ改組して法人の体裁を整え、拡大した販売機構を会社組織として支える構えができた[9]

系列網の最下層では、消費者そのものの組織化が進んだ。チェインストアである小売店は利用者を会にまとめ、これを「花椿会」と名付けて、会員に雑誌『花椿』を配り、購買額に応じて景品を贈り、化粧の映画などへ招いた。1937年1月に消費者組織として正式に結成された花椿会は、メーカー・販売会社・小売店に消費者の層を重ね、流通の末端まで資生堂の側へ引き寄せる役割を担った[10][11]

流通を握る「家電の松下」と再販の揺れ

三層の系列網は、戦後も資生堂の商いを支える土台として働いた。1968年の時点で全国に73の販売店、その下に約1万3000のチェインストア、さらに1000万人規模の花椿会が連なり、年間売上高は約650億円、業界シェアは30%を超えた。同時代の経済誌は、この「中央集権的に組織化されたチェーン・システム」を、代理店の自主性を重んじる中山太陽堂の方式と対置し、両者の優劣は簡単にはつかないと論じており、掌握型の流通は化粧品の販売戦を二分する典型とみられていた[12][13][14]

流通を握るこの構造は、外部からも資生堂の強さの源と受け止められた。1973年には問屋と共同出資する販売会社が89社、その傘下のボランタリー・チェーンは1万6000店に達し、流通段階は資生堂が完全に握っているといわれた。「”家電の松下”と並び称される」巧みなマーケティングの土台には、大正期に築いたこの販売網があった。ただし価格を保つ拠り所であった再販売価格維持の制度はこの頃から揺らぎ始め、掌握した流通そのものが問い直される時期に入っていた[15][16][17]

出典・参考
  • 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
  • ダイヤモンド 1963年6月3日号「700万人のトップレディをつかんだ"花椿会"」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968)資生堂の項
  • 日経ビジネス 1973年7月9日号「"揺れる再販商法"活路はどこに」(日経BP)