資生堂 チェインストア方式確立 販売会社方式と組み合わせた、店と流通を組織化する体制の確立
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何をなぜ決めたか
- 概要
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のちに社長となる松本昇氏が持ち帰ったアメリカのボランタリー・チェーンを参考にし、値引き販売を抑えて価格を統一する仕組みを構築した。銀座の一調剤薬局が、製造から小売までの流れを自らの手で垂直統合する流通設計へ着手した転換であった。
- 背景
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大正期の化粧品業界は乱売で疲弊し、メーカー・問屋・小売店から倒産者が続出する恐慌の様相を呈していた。問屋は新製品への関心が薄く、小売店に商品を引き渡すだけで説明もしないという流通の摩擦もあった。1923年9月の関東大震災で既存の配給機構が壊滅した混乱が、問屋に頼ってきた販売の流れを根本から作り替える機会となった。
- 内容
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資生堂は問屋をまず自社の営業代理部とし、さらに資生堂製品だけを扱う専業の販売会社へ組織替えした。値引き販売の防止を小売段階まで徹底させ、販売会社の株式を所属チェインストアに持たせて、メーカーと小売店が利害を共にする関係で結びつけた。1937年には消費者組織"花椿会"を結成し、メーカー・販売会社・小売店・消費者を貫く系列網を整えた。
- 含意
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メーカーが流通を握る仕組みは半世紀機能し、1973年時点で販売会社89社・ボランタリーチェーン1万6000店を数え、 『”家電の松下”と並び称される』 流通支配を築いた。一方で問屋依存を断ってメーカー主導の秩序を固定化したことは、のちの再販売価格維持の撤廃(1997年)やチェーン店再生(2001年)が向き合う流通構造の原型ともなった。
いつ何が起きたか 9件
筆者の見解
銀座の薬局が描いた流通支配の型
この判断の芯にあるのは、銀座の一調剤薬局が、製造から小売までの流れを自らの手で垂直統合しようとした構想の大きさである。問屋の無関心と乱売という流通の摩擦を、資生堂は取引条件の交渉ではなく、流通の構造そのものを作り替えることで解こうとした。関東大震災で既存の配給機構が崩れた偶然を好機に変え、問屋を専業の販売会社へ、小売店をチェインストアへ、消費者を花椿会へと、川上から川下までを一本の系列で貫いた設計は、のちに"家電の松下"と並べて語られる流通支配の型を、化粧品の世界で先に描いたものとみられる。
同時にこの仕組みは、メーカーが流通の秩序を握り続ける構造を半世紀にわたって固定した。価格を保つ再販制度と結んで資生堂の強さを支えた一方で、問屋や小売店の自律を薄め、市場の変化への感度を鈍らせる面も抱えていた。のちに再販売価格維持の撤廃(1997年)で市場競争へ入り、ブランド集約とチェーン店再生(2001年)で"大正時代の販売網"への回帰を語ることになる資生堂にとって、1923年の流通設計は繰り返し立ち返る原点であり続けた。効率と統制のどちらを優先するかという問いは、流通の主導権を誰が握るのかという問いと重なりながら、いまも化粧品の商いに影を落としていると推察される。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
業績の推移
同じ問いに直面した会社
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参考文献
- 東商 1963年5月号「我が社の販売組織とスーパー・マーケットに対する考え方」
- ダイヤモンド 1963年6月3日号
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社編、1968)資生堂の項
- 日経ビジネス 1973年7月9日号(日経BP)