国内販売5チャネル体制への拡大と、バブル崩壊後の破綻

1989年実施

規模で劣る「弱者」のマツダは、なぜトヨタと同じ5系列の拡販に賭け、そして行き詰まったのか

時期 1989年9月
意思決定者 古田徳昌(社長)
論点 販売網の拡大と過剰投資
概要
1989年、マツダが「マツダ」「マツダオート(後のアンフィニ)」「オートラマ」「オートザム」「ユーノス」の5系列へ国内販売網を広げ、異業種と組んで店舗を倍増させた拡張の判断。バブル崩壊で過剰投資と販売不振が表面化し、1990年代前半の巨額赤字を招いた。
背景
売上の6割を輸出に頼るマツダは国内乗用車で弱く、1988年に国内販売を40万台から80万台へ倍増させる「B-10」計画を掲げた。柱がトヨタと同じ5系列体制で、規模で劣る同社には当初から「無謀な賭け」と危ぶむ声も高かった。
内容
1989年、既存3系列にオートザムとユーノスを新設。単独なら2000億〜3000億円を要する店舗投資を避けるため三越・JR九州など異業種を引き込み、販売店を1607拠点から3089拠点へ倍増させた。上級車への移行と姉妹車の乱造も同時に進めた。
含意
異業種提携で投資は抑えても、5系列を維持する開発費は規模の小ささを埋められず、固定費が膨張して損益分岐点比率は97.5%へ達した。バブル崩壊で拡販策は挫折し、円高と重なって前半期の赤字を招き、1996年のフォード経営権掌握の前史となった。
筆者の見解

拡大が招いた従属

この判断の核心は、規模で劣る「弱者」が、上位メーカーの土俵である多系列の拡販へ正面から勝負を挑んだ点にある。異業種との提携で店舗投資こそ抑えたが、五つの系列に絶えず新車を供給する開発費という固定費は、規模の小ささを埋められないまま重くのしかかった。上級車への一斉移行と系列の細分化を同時に進め、バブルの追い風を恒久的な成長と見誤ったことが、本体の財務を痛めた。1977年のAM制度5000人出向と同じく、販売現場の無理な拡大が本体を傷める失敗を、マツダは二度繰り返した。

過剰な販売網と車種を抱えたところへ円高が重なり、マツダは1994年3月期に441億円の経常赤字へ沈む。転換社債の償還が迫るなかで自主再建は行き詰まり、1996年、筆頭株主のフォードは出資比率を33.4%へ引き上げて経営権を握った(別稿「フォードによる出資引き上げとマツダ経営権の掌握」)。弱者が拡大で上位を狙った1989年の賭けは、皮肉にも外資への従属を深める入り口になった。規模に見合わない拡張が、次の資本の異動を呼び込んだ折り返し点だった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

輸出依存という弱さと「B-10」計画

マツダは1979年にフォードの傘下へ入って経営危機を脱したが、売上の6割を輸出に頼る体質は変わらず、国内では乗用車の弱さがつきまとった。トラックを含む登録車のシェアで業界3位を保っても、軽を除く乗用車では4位に落ちる。1988年、同社は5カ年で国内販売を当時の40万台から80万台へ倍増させる「B-10」計画を掲げた。海外市場に依存した経営体質を、国内販売の拡大で立て直そうという構想だった[1]

倍増の柱に据えたのが販売系列の多層化である。計画を主導した安森専務は、生き残るには最低10%のシェアが要り、それには80万台を売らねばならない、そのためにはトラックや大衆車のメーカーというイメージを消し、乗用車で上位メーカーに対抗する新チャネルが要ると説いた。国内で5倍を売るトヨタと同じ5系列を、規模で劣るマツダが敷く。当初から「無謀な賭け」と危ぶむ声が業界には高かった[2]

決断

異業種を巻き込んだ5系列の一気呵成

1989年、マツダは既存の「マツダ」「マツダオート」「オートラマ」の3系列に、6月開業のオートザムと9月開業のユーノスを加え、5系列体制をそろえた。オートザムは自動車修理業者などの業販店をディーラー化し、鈴木自工からOEM供給を受けた軽自動車やイタリア製のランチアを扱う。ユーノスはフランスのシトロエンと自社の高級車を売り、参加した111社のうち16社が三越・JR九州・昭和産業など異業種だった[3]

販売網を自力で築けば土地代と店舗建設費だけで2000億〜3000億円を要する。この負担を避けるため、マツダは土地や資本を持つ異業種を店舗網へ引き込んだ。古田徳昌社長は、メーカー中心のチャネル創設では資金も人材も足りず無謀と批判されるが、異業種の参加で経営リスクを分担できると説いた。手本は1982年開業のフォード系オートラマで、異業種の参加・店頭販売・輸入車という3点セットを再利用した「弱者の論理」だった[4][5]

拠点倍増と、開発力を超えた姉妹車の乱造

店舗網は速やかに膨らんだ。1988年12月末に1607拠点だったマツダの販売店は、1992年6月末に3089拠点へ倍増した。1991年11月には車種の重複が多かったマツダオートをアンフィニと改め、高級乗用車系列に仕立て直す。だが五つの系列に絶えず新車を供給するには膨大な開発費が要る。マツダの規模で系列ごとに専用車を用意する余裕はなく、同じ基本構造でボディーだけ変えた姉妹車を増やして急場をしのいだ[6]

姉妹車戦略はかえって顧客を遠ざけた。「カペラ」の後継クロノスシリーズは「MS6」「MS8」「MX6」など7車種に分かれ、記号のような車名で系列ごとに割り振られたため、同じ車のセダンとハードトップを別の系列でしか比べられない不便を生んだ。5系列を確立した1989年の時点で、全国マツダ販売店協会長の大木康司・千葉マツダ自動車社長は、チャネル作りに開発力が伴うかが最大の懸念だと述べていた[7][8]

結果

バブル崩壊と拡大戦略の撤回

1991年3月期に国内販売を60万台弱まで伸ばした矢先、バブル崩壊が拡販策を直撃した。「形として80万台を売る体制がようやく出来上がったと同時に販売不振に陥った」と和田淑弘社長は振り返る。倍増した販売店は1拠点あたり月15台しか売れず、他社平均の約35台の半分にも届かない。相次ぐ新車開発と設備投資が固定費を押し上げ、1987年10月期に2564億円だった固定費は1992年3月期に4188億円へ63%増え、損益分岐点比率は97.5%に達した[9][10]

設備投資も財務を痛めた。減価償却費の2倍にあたる年1300億円規模の投資が続き、有利子負債は4年前の3886億円から5449億円へ膨らむ。1992年2月に稼働した最新鋭の防府第二工場は、生産車種の不振で稼働率が4割にとどまった。1993年、マツダは「B-10」計画を撤回し、専売から併売へ、系列別から地域別の販売体制へと切り替える。5系列はオートラマをフォードに委ね、実質2.5系列まで縮んだ。拡大の看板は5年で下ろされた[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1989年9月11日号「マツダ 弱者に徹し異業種と提携」
  • 日経ビジネス 1992年8月24日号「マツダ 相次ぐ新車開発で負担増 販売5系列体制もあだ」
  • 日経ビジネス 1993年9月20日号「マツダ 苦難の戦線縮小 販売網の整理統合は発進したが簡単には切れぬ余剰設備」