マキタマキタUSAの設立と、欧州・オセアニア各国への販売子会社網の構築
55カ国へ輸出しながら現地に会社を持たなかった電動工具メーカーは、なぜ自前の販社を並べたか
- 概要
- 1970年7月、マキタは米国にマキタUSA Inc.を設立し、海外で初めて自社の販売会社を持った。以後1971年9月のフランスを皮切りに英国・オーストラリア・カナダ・オランダ・イタリア・ドイツ・ブラジル・シンガポールへ販売子会社を続けて置き、1984年9月には米国統括会社を設けて地域をまとめる段階に入った。
- 背景
- 1964年頃から輸出に力を入れ、1968年2月の時点で世界55〜56カ国へ製品が出ていた。ただし1967年度上期の輸出比率は6%にとどまり、現地に置いていたのは東南アジア各地の駐在員だけであった。後藤十次郎社長は1966年4月にオーストラリアとニュージーランド、1967年11月から12月にかけて米国と欧州を自ら回って市場を確かめている。
- 内容
- マキタUSA設立と同じ1970年7月、愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し、東京・名古屋・大阪三市場の第一部へ指定替えとなった。国内の生産能力増強と海外初の現地法人設立が同じ月に重なる。株式の受け皿も海外に置き、1973年6月にアムステルダム証券取引所へCDR形式で上場、1977年2月にナスダックでADRの取引を始めた。
- 含意
- 販売会社の網の上に、1989年12月の英国生産拠点、1991年1月のドイツ・ザックス・ドルマー買収、1993年12月の牧田(中国)有限公司が乗った。2025年3月期の外部顧客売上高は欧州3,747億円で連結のおよそ半分を占め、日本は1,464億円と2割を切る。輸出比率6%の会社が、売上の8割を海外で立てる構成へ移った。
量が出る前に会社を置くということ
輸出が伸びたから販売会社を置いた話として読むと、順番を取り違える。1968年2月の時点で製品は55〜56カ国へ出ていたが、輸出比率は6%にすぎなかった。それでも後藤十次郎社長は1カ月半かけて米国と欧州を自ら回り、駐在員の派遣を口にしている。量が出そろう前に現地へ人と会社を置く順で動いた点に、この判断の芯がある。国内で販売を問屋に委ね、自社の拠点をアフターサービスに充てた設計を、そのまま外へ移したとみられる。
もっとも、置いた会社がすぐ売上へ化けたわけではない。1970年のマキタUSAから1984年の米国統括会社まで十四年を要し、置いたのは販売会社であって工場ではない。欧州に生産拠点ができるのは1989年12月、ドイツのチェーンソーメーカー買収は1991年1月で、いずれも最初の一社から二十年後である。欧州が連結売上の半分を占める2025年3月期の姿は、販社を並べた十四年の上に、さらに数十年を重ねた結果といえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
55カ国へ届きながら、現地に会社がない
マキタが輸出に力を入れ始めたのは1964年頃であった。1968年2月の時点で製品は世界55〜56カ国へ出ており、輸出先の数だけを見れば十分に国際的な会社に見える。ところが1967年度上期の輸出比率は6%にすぎず、通期でも7%から7.5%の見込みであった。売上の大半は国内で立っており、輸出は数量より地図の広がりが先行していた。現地に置いていたのは東南アジア各地の駐在員だけであった[1][2]。
現地を見に行ったのは社長自身であった。後藤十次郎社長は1966年4月から1カ月間オーストラリアとニュージーランドを視察し、翌1967年は11月初旬から12月中旬まで米国と欧州を回って市場調査を行っている。1968年2月の講演では、その年のうちにフランスかイギリスへ駐在員を派遣したいと述べた。人を置く構想は、販売会社の設立に二年ほど先んじて社長の現地確認から動き出していた[3][4]。
決断
最初の一社を米国に置く
1970年7月、マキタは米国にマキタUSA Inc.を設立した。同じ月に愛知県岡崎市へ岡崎工場を新設し、さらに東京・名古屋・大阪三市場の第一部へ指定替えとなっている。国内の生産能力の増強と、海外で初めて持つ現地法人と、資本市場での格上げが一つの月に重なった。輸出の受け皿を商社や現地の代理店に任せず、自社の名前を掲げた会社を置くという選び方が、ここで決まった[5][6]。
米国が最初になったことには理由があった。同社の主力である電気カンナは、もともと米国製の輸入品を取り寄せて日本の柱寸法に合わせ、8万5,000円の輸入品に対し2万9,800円という価格で国内を取った製品である。手本にした市場へ、自社の商品を持って入る順になった。国内では販売を問屋に委ね、自社の営業所・出張所をアフターサービスに割り当てていた。海外でも同じ役割分担を移そうとしたとみられる[7][8]。
欧州・オセアニアへ続けて置く
米国の翌年から設立が続いた。1971年9月にマキタ・フランスSA、1972年12月に英国のマキタ・エレクトリック(UK)、1973年5月にマキタ・オーストラリアPty Ltd、同年11月にマキタ・カナダを設けている。1968年2月の講演で口にした「フランスかイギリス」には、駐在員ではなく販売会社が三年から四年のうちに置かれた。一国ずつ会社を積み上げる進め方であった[9][10]。
資金の調達先も売り先に合わせた。1973年6月、アムステルダム証券取引所に大陸預託証券CDR形式で株式を上場し、欧州の資本市場に受け皿を置いた。1977年2月には米国預託証券ADRの発行に伴ってナスダックで取引が始まり、1982年2月にはルクセンブルク証券取引所へも上場している。販売会社を並べた地域に株主も持つという構えで、事業と資本の両面から海外へ足場を移した[11][12]。
結果
十四年で並んだ販社網と統括会社
設立は1970年代後半から1980年代前半にかけて途切れなかった。1974年5月にマキタ・ベネルックス、同年6月にイタリアのマキタSpA、1977年4月にドイツのマキタ・ヴェルクツォイクGmbH、1981年6月にマキタ・ド・ブラジル、同年9月にオーストリア子会社、1983年4月にマキタ・パワー・ツールズ・シンガポールが加わる。欧州・米州・東南アジアの主要国に、自社の販売会社が並んだ[13][14]。
1984年9月、米国に統括会社マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを置いた。個々の販売会社を束ねる層が加わり、最初の一社から十四年で網に骨格が入る。その上に生産と買収が乗るのはさらに先で、1989年12月に英国のマキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパLtd、1991年1月にドイツのチェーンソーメーカー、ザックス・ドルマーGmbHの買収、1993年12月に牧田(中国)有限公司が続いた[15][16]。
輸出比率6%から海外8割へ
売上の構成は入れ替わった。2025年3月期の外部顧客売上高は、欧州が3,747億円で連結のおよそ50%を占め、日本は1,464億円で19%程度にとどまる。北米は868億円で約12%、オーストラリア・ブラジル・アラブ首長国連邦などを含むその他が1,133億円で約15%、アジアが316億円で約4%であった。1967年度上期に輸出比率6%だった会社が、売上の8割を海外で立てる構成へ移っている[17]。
各国に会社を持つ構えは、製品の入れ替えにも効いた。2022年、マキタはエンジン製品の生産を終了し、チェーンソー・刈払機・ブロワーなど屋外作業用機器をリチウムイオン電池駆動へ移している。規制も需要期も国ごとに異なる商品を切り替えるには、現地で在庫を抱え、修理と部品供給を引き受ける会社が要る。1970年から積み上げた販売網が、その受け皿になったとみられる[18]。
- 証券アナリストジャーナル 1968年 第6巻第2号「マキタ電機製作所の現況と見通し」
- 企業の歴史:明治百年(経済春秋社, 1968)
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【沿革】
- マキタ 有価証券報告書(2025年3月期)【セグメント情報】
- マキタレポート2025(2025年7月)