1915年3月21日[1]、名古屋市中区横三ツ蔵町で『牧田電機製作所』が個人創業した。創始者は当時23歳の若い電気技術者・牧田茂三郎氏で、従業員15〜16人からの出発だった[2]。扱ったのは電灯器具・モーター・変圧器の販売修理で[3]、モーター・トランス・スイッチ類を電灯会社・電鉄会社へ納めた[4]。創業の月には、三重県桑名市生まれで17歳の後藤十次郎氏が茂三郎氏に誘われ『職工』として入社している[5]。のちに2代目社長として会社の性格を作り替える人物が、創業の現場に居合わせていた。当時の電機業界は未成熟で、パナソニックの創業(1918年)より3年早い参入にあたる。配電インフラが大正初期に地方都市まで広がり、若者中心の小規模事業者にも電動機器の販売修理という市場参入の余地があった時代である。
昭和初期の経済パニックを乗り越えたうえで、1938年12月、個人経営から株式会社牧田電機製作所に改組した。改組時の資本金は18万円、従業員は94名で、初代社長には創業者の牧田茂三郎氏が就いた。[6]第二次世界大戦下では紡織機械・工作機械・木工製作機械などに使われるモーターの生産に注力[7]した。1945年4月には、当時生産するモーターの6割までを納入していたワシノ機械(今村工場)との関係から[8]、工場疎開を兼ねて愛知県安城市(現本社所在地)に工場を移し、戦後の本社所在地が確定した。終戦直後のモーター業界は、松下電器や日立など大手企業が財閥解体の対象に指定されて事業遂行が困難となり、マキタのような中小企業が辛うじて生き残る環境にあった。だが戦後の復興期には大手のマスプロ化に遅れをとり、苦境期[9]を迎えることになる。
終戦直後は、戦火で焼けたモーターを買い集めて修理し販売する商売がかなり有利で、会社はこれで食いつないだ[10]。だが経済の混乱が収まると各地で大企業がモーターの生産を再開する。資本金1,000万円・従業員100名足らずの小企業だったマキタは正面から対抗できず、大企業が手がけない特殊モーターの受注生産で生き延びた[11]。多機種少量生産の工場経営はきわめて非能率で、朝鮮動乱の特需が切れたあと、1953年から1955年にかけて会社は倒産寸前まで追い込まれる[12]。借入金3,000万円を抱え、従業員の給与も満足に払えない町工場だった[13]。創業から40年、何を作る会社なのかを決め直さなければならない地点に立たされていた。
1955年4月、創業者・牧田茂三郎氏に請われる形で後藤十次郎氏が2代目社長に就いた[14]。創業時からの社員だが、1941年からの14年間はいったん独立してモートルの販売・修理を営み、マキタ電機の代理店・下請けを務めていた人物である[15]。就任直後に神武景気が走り出して事業は持ち直し、無配を続けてきた会社は1956年度に1割配当へ復配した[16]。だが後藤社長は好調の最中に、特殊モーターだけでは次の不況で再び無配へ落ちると読む。モーターは所詮部品にすぎず完成品メーカーにあしらわれる、大手電機メーカーがモーターの自社生産に乗り出すのは明白だ──そう見切って、1957年6月に従業員へ『商売変え宣言』を出し、新商売のアイデアを出せと命じた[17]。役員も従業員も驚いたが、いやがる本人を懇請して社長に就けた経緯もあり、全社で新商売探しに動いた[18]。
1958年1月、国産第一号の携帯用電気カンナを発売した[19]。造船所ではすでに使われていたが国産品はなく全て輸入品で、現物を取り寄せて検討した[20]。米国製は刃幅80ミリだったが、日本の建築では4寸柱が普通であるとして刃幅を4寸に改めている[21]。価格では8万5,000円だった輸入品の半値以下を掲げ、技術陣に3万円を割る製品を作れと命じ、売出し価格を2万9,800円と決めた[22]。発売と同時に景気は後退し、モーター部門の月商は1957年6月の2,000万円から1958年10月には800万円へ落ち込んだが、電気カンナは順調に売れ、会社はこれがなければ遭遇したはずの危機を回避した[23]。同年8月には電気ミゾキリを発売し[24]、相次ぐ新機種で電動工具界に新風を起こした。職人の現場という限られた顧客層に絞り込むことで、大手モーター企業との正面衝突を避ける選択でもあった。
1959年、マキタはモーターの生産を中止して電動工具専門メーカーへ転換した[25]。得意先の要請でわずかに残していた生産もこの年に完全にやめ、電動工具ひと筋に進む[26]。同じ年にオーストラリアへ小型電気カンナ1300を出荷し、電動工具として初めての輸出となった[27]。1962年5月に商号を株式会社マキタ電機製作所へ変更し[28]、同年8月に名古屋証券取引所市場第二部へ上場[29]、1968年8月には東京・大阪両証券取引所市場第二部へ上場し[30]、公開価格は940円だった[31]。1970年7月には東京・名古屋・大阪の各市場第一部へ指定替えとなった[32]。1968年2月期の売上高は32億84百万円、電動工具全体のシェアは30.2%で、電気カンナ64.2%、電気ミゾキリ49.1%と主力製品のシェアが高く、営業所・出張所は全国73カ所、登録販売店は10,130店を数えた[33]。
輸出に本腰を入れたのは1964年頃からで、1967年度上期の輸出比率は6%、1968年2月期には7.1%となり、輸出先は約50〜55カ国へ広がった[34]。1967年11月から12月にかけては後藤十次郎社長自身が米国と欧州を回って市場調査を行い、翌年のフランスか英国への駐在員派遣を検討している[35]。国内では1962年の不況期に、全国22カ所だった営業所・出張所を30カ所増やして一県一店舗主義を実現する拡張策を打っており[36]、この網が輸出拡大の前提になった。借入金は1963年に消え、1968年時点のマキタは無借金・高成長・高収益・高配当で株式市場の人気銘柄の筆頭とされている[37]。1959年2月期を100とすれば1968年2月期は1830という伸びであった[38]。1968年末の自己資本比率は日立工機61%、米ブラック・アンド・デッカー58%に対しマキタ80%である[39]。
1970年7月、東京・大阪・名古屋の各証券取引所第一部への昇格と同時に、初の海外拠点としてニューヨークにマキタU.S.A., Inc.を設立した[40]。派遣したのは本社の若手社員2人。最初の半年間の売上はゼロで、給与だけが出ていく毎月赤字の状態が続き、視察に来た後藤修宏社長に対して現地法人の社長が、経費の足しにラーメンの屋台を引かせてほしいと直訴したという逸話が残る。社長の答えは、副業は認めない、金はいくらでも出すからとにかく売れ、だった[41]。同月には愛知県岡崎市に岡崎工場を新設し[42]、国内生産能力の増強と海外初拠点の設立を同時に進めている。1971年9月のマキタ・フランスS.A.は豊田通商と各40%を出資する合弁で立ち上げ[43]、1972年12月にマキタ・エレクトリック(U.K.)、1973年5月にマキタ・オーストラリアPty Ltdが続いた[44]。
1973年6月にはアムステルダム証券取引所へ大陸預託証券CDR形式で上場し[45]、1977年2月には米国預託証券ADRの発行に伴いナスダックで取引を開始した[46]。販売子会社は1974年5月のマキタ・ベネルックス、同年6月のマキタSpA[47]、1977年4月のマキタ・ヴェルクツォイクGmbH[48]、1981年のブラジル・オーストリア、1983年のシンガポール、1984年のマキタ・コーポレーション・オブ・アメリカ(米国統括会社)へと続き[49]、1980年にはカナダで現地生産を始めて初の海外現地生産となった[50]。1978年時点の海外販売拠点は現地法人・支店あわせて26カ所、1978年2月期の輸出売上は190億円で前期比53%増、売上全体に占める割合は4割を超えた[51]。創業60年を挟む10年間で、国内メーカーから世界十数カ国に拠点を持つ国際企業への転身を果たした。
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| 1915〜1969年名古屋の電灯器具修理店から国産電気カンナへ──電動工具メーカーの源流 | 牧田電機製作所を創業 | ★★ | ||
| 株式会社に改組 | ★ | |||
| 本社所在地の工場を新設 | ★ | |||
| 特殊モーター受注生産からの転換と、国産第一号の携帯用電気カンナによる電動工具専業化 1955年4月に社長へ就いた後藤十次郎氏は、大企業のモーター生産再開で先細りが見えた特殊モーターの受注生産から離れ、モーターを使う最終製品へ主力を移した。選んだのは国産品がなく輸入に頼っていた電気カンナで、1957年中に試作品を仕上げ、1958年1月に国産第一号を2万9,800円で発売した。 詳細を読む | ★★★ | |||
| モーターの生産を中止し電動工具専門メーカーに転換 | ★★★ | |||
| マキタ電機製作所に商号変更 | ★ | |||
| 名古屋証券取引所二部に上場 | ★ | |||
| 東京証券取引所・大阪証券取引所二部に上場 | ★ | |||
| 1970〜2016年海外売上比率8割超への国際化と電動化シフト──世界55カ国販売網の構築 | マキタUSAの設立と、欧州・オセアニア各国への販売子会社網の構築 1970年7月、マキタは米国にマキタUSA Inc.を設立し、海外で初めて自社の販売会社を持った。以後1971年9月のフランスを皮切りに英国・オーストラリア・カナダ・オランダ・イタリア・ドイツ・ブラジル・シンガポールへ販売子会社を続けて置き、1984年9月には米国統括会社を設けて地域をまとめる段階に入った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡崎工場を新設 | ★ | |||
| マキタ・フランスを設立 | ★ | |||
| アムステルダム証券取引所に上場 | ★ | |||
| ナスダックでADR取引開始 | ★ | |||
| ルクセンブルグ証券取引所に上場 | ★ | |||
| マキタ・コーポレーション・オブ・アメリカを設立 | ★ | |||
| 城山開発を設立 | ★ | |||
| マキタ・タイワンを設立 | ★ | |||
| 後藤昌彦 | マキタ・マニュファクチュアリング・ヨーロッパを設立 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | ザックス・ドルマーを買収 | ★★ | ||
| 後藤昌彦 | マキタに商号変更 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | 牧田を設立 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | マキタ一宮を設立 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | ルクセンブルグ証券取引所上場廃止 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | 牧田(昆山)を設立 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | 城山開発が民事再生手続開始 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | 城山開発の経営権を譲渡 | ★★ | ||
| 後藤昌彦 | 兼松日産農林の自動釘打機事業を譲受 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | 富士ロビンを子会社化 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | マキタ・タイ生産拠点を設立 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | マキタ沼津を吸収合併 | ★ | ||
| 後藤昌彦 | ナスダック上場廃止 | ★ | ||
| 2017〜2025年バッテリー電動化シフトとバランスシート経営──創業110周年への新基盤 | 後藤宗利 | 尼寺空圧工業を子会社化 | ★ | |
| 後藤宗利 | 尼寺空圧工業を吸収合併 | ★ | ||
| 後藤宗利 | プライム・プレミア市場へ移行 | ★ |
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事実根拠:出所(マキタ)