操業4年目のオーストラリア工場を、今里広記社長は自ら『マッチ箱のような工場』と呼んだ。月産30万個、シェア3.5%、累積赤字。輸出を続ければ関税と輸入制限に削られ、現地で作れば市場が日本の20分の1しかない国で規模の利を得られない——1960年代末の日本精工が置かれていたのは、どちらを選んでも痛みの残る条件であった。それでも関税を嘆くより内側に入るという判断を通したのは、米国での輸入阻止の動きを目の前で見ていたからだと推察される。
一方で、この判断の費用は設備ではなく年月として支払われた。オーストラリアでは職長6人を日本へ送って中核を育てたものの、役員6人は全員が日本人のままで、現地化は課題として残った。英国では1971年の調査開始から10年以上を経て、離職率2.7%、不良率27%低下、売上高経常利益率10%超という数字にたどり着いている。工場を建設する判断と、その工場が稼ぐ体になる時期のあいだに10年が横たわる事実は、この会社が後年に英国最大手の買収へ向かう理由の一端を示しているといえる。