日本精工販売会社から現地生産への移行と、豪州・英国・米国への工場設置

輸出で押し続けるか、相手国の内側で作るか——高関税と現地の労使に向き合った10年

時期 1974年4月
意思決定者(推定) 今里広記 社長
論点 海外生産の立ち上げと現地の労使
概要
日本精工は1962年に米国、1963年にドイツへ販売会社を置いたのち、1969年にオーストラリア、1970年にブラジル、1974年に英国ダーラム州、1975年に米国アイオワ州へ製造拠点を設けた。輸出で稼ぐ体制から、相手国の内側で作って売る体制へ切り替える10年の判断であり、現地の労務をどう組み立てるかという課題を同時に抱え込んだ。
背景
1965年3月の講演で長谷川正男常務は、輸出が全販売高の17%を占める一方、前年に米国で日本製ベアリングの輸入阻止が提起され、その前年には欧州から輸出の自粛を求められていたと語った。米国ではベアリングが軍需産業と定義され、外国への依存そのものが問題にされていた。
内容
オーストラリアでの生産は今里広記社長の判断で決まった。世界でも高い関税をかける国では、関税の引き下げを求めるより現地で作るほうが市場を確保できるという読みであった。英国では1971年から調査を始め、1974年4月にピータリー工場を設け、1976年初めに操業を開始した。
含意
オーストラリアの工場は操業4年目でも累積赤字が残り、市場規模が日本の約20分の1という制約を抜けられなかった。英国では目標管理を持ち込み、旋盤工1人当たり生産高が6割向上、不良率は27%低下し、離職率は2.7%にとどまった。海外で作るという判断の費用は、設備よりも人を育てる年月として支払われた。
筆者の見解

関税を避けるために背負ったもの

操業4年目のオーストラリア工場を、今里広記社長は自ら「マッチ箱のような工場」と呼んだ。月産30万個、シェア3.5%、累積赤字。輸出を続ければ関税と輸入制限に削られ、現地で作れば市場が日本の20分の1しかない国で規模の利を得られない——1960年代末の日本精工が置かれていたのは、どちらを選んでも痛みの残る条件であった。それでも関税を嘆くより内側に入るという判断を通したのは、米国での輸入阻止の動きを目の前で見ていたからだとみられる。

一方で、この判断の費用は設備ではなく年月として支払われた。オーストラリアでは職長6人を日本へ送って中核を育てたものの、役員6人は全員が日本人のままで、現地化は課題として残った。英国では1971年の調査開始から10年以上を経て、離職率2.7%、不良率27%低下、売上高経常利益率10%超という数字にたどり着いている。工場を建てる判断と、その工場が稼ぐ体になる時期のあいだに10年が横たわる事実は、この会社が後年に英国最大手の買収へ向かう理由の一端を示しているといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

輸出では摩擦をかわせなかった

1965年3月、日本精工常務取締役の長谷川正男氏は証券アナリスト向けの講演で、輸出が全販売高の17%を占め、軸受が代表的な輸出産業のひとつとして評価されていると述べた。同時に、前年には米国で日本製ベアリングの輸入阻止が持ち上がり、その前年には欧州から輸出の姿を正してほしいという自粛の求めが出ていたことも挙げている。米国ではベアリングが軍需産業と定義され、外国への依存そのものが問題にされていた[1][2]

売る足場は先に置いていた。1962年12月に米国ニュージャージー州へNSKコーポレーション社を設け、1963年10月にはドイツのデュッセルドルフにNSKドイツ社を置いた。米国向けには1958年からフーバー社との販売契約に頼っていたが、1964年10月には同社との共同出資で現地に販売会社を設け、電気機械以外の分野にも自社製品を売れる体制へ改めている。売る仕組みは整っても、作る場所は日本のままで、関税と輸入制限の壁はそのまま残った[3][4]

決断

高関税の国では内側で作る

最初の海外工場は、輸出の壁が最も高い国に置かれた。1969年11月21日、日本精工はオーストラリア第二の都市メルボルンから南東へ約70キロのジロン市にNSKマニファクチュアリング社を設立した。生産に踏み切ったのは今里広記社長の一声であった。オーストラリアは世界でも高い関税をかける国で、引き下げを求めても動かない事情があるため、関税を嘆くより現地で作るほうがこの市場を確保できると判断したものであった[5]

工場の規模は小さかった。資本金は70万オーストラリア・ドルで、日本精工が80%、日商岩井が20%を持った。設立から1973年までの総投資額は約200万オーストラリア・ドルで、うち土地が31万ドル、機械関係が約110万ドルであった。敷地は約3万6,000平方メートルあったが建物は1,500平方メートルにとどまり、従業員は現地の78人と日本人3人であった。1965年3月にメルボルンへ置いた販売会社が先に軌道に乗っており、製造会社はその販売会社より収益を優先する扱いを受けていた[6][7]

英国と米国へ工場を出す

欧州での現地生産は、調査から10年をかけて形になった。日本精工が欧州で作ることを目指して調査を始めたのは1971年で、当時本社の海外営業本部企画部長であった河崎利昭氏がこれに加わっている。現地法人は1974年4月に英国ダーラム州へピータリー工場を設けて設立され、1976年初めに操業を始めた。米国とブラジルに次ぐ3番目の生産拠点で、調査を担った河崎氏が操業開始の間もなく現地へ赴任した[8][9]

現地で作る比重は、数字の目標として置かれていた。1980年時点で日本精工は3カ国4カ所に海外の生産工場を持ち、海外生産額と日本からの輸出額の比はおよそ1対2であった。これを1対1へ近づける目標を掲げ、輸出は微増にとどめる見通しを示している。輸出を早めに抑えた理由について、長谷川正男社長は、現地の販売会社が黒字になることを第一に考えて拡大しなかったと述べ、売れずに在庫となれば金利がかさむと説明した[10][11]

結果

オーストラリアで動かなかった採算

関税をかわすために置いた工場は、なかなか稼げなかった。操業から4年近くたった1973年の時点で、直近6カ月の仮決算がようやく収支の均衡に届いたところで、累積赤字が残っていた。月産30万個は日本国内の大工場と比べればごく小さな量で、今里広記社長はこの工場を「マッチ箱のような工場」と呼んだ。オーストラリアの軸受需要は日本の20分の1程度、約110億円の市場で、日本精工の売上は3億6,000万円、シェアは3.5%にとどまっていた[12]

出資の形も重荷になった。1972年末に労働党政権が生まれ、あらゆる業種で国産化政策が打ち出されると、日本精工80%・日商岩井20%という全額が日本資本の会社であることが不利に働いた。政権は国内資本の育成を掲げ、外資系企業に厳しく当たった。会社は職長クラス6人を日本へ実習派遣する方式を採り、6人の募集に46人が応じて、うち5人が工場の中核として残った。それでも役員6人は全員が日本人で、資本と人材の現地化は課題として残された[13][14]

英国では目標管理で組み立てた

英国の拠点では、河崎利昭社長が目標管理を軸に運営を組み立てた。営業部門はすべて英国人で構成し、1年あるいは2年を期間として、既存の取引先だけでなく新規の顧客を何社獲得しどれだけの金額を達成するかを報告させた。ロンドンからスコットランド方向へ約400キロのピータリー工場では230人が働き、日本人は製造や生産計画など各部門にひとりずつ計9人であった。目標は短期・中期・長期の3段階に分かれ、長期は1990年4月期までを対象としていた[15]

数字は10年ほどで動いた。旋盤工1人当たりの生産高は操業開始時に比べて6割向上し、不良率は27%下がった。ストライキは一度も起きず、周辺の一般的な離職率が14〜15%であるのに対して同社は2.7%にとどまった。河崎氏は、目標をはっきりさせて達成できたかどうかで評価しなければ不公平になると語っている。1982年4月期の売上高経常利益率は10%を超え、銀行からの借入もない状態であった[16][17]

出典・参考
  • 日本精工 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
  • 日本精工 会社年鑑(1976年版・単独業績)
  • 証券アナリストジャーナル 1965年 第3巻第4号「ベアリング業界と日本精工」(長谷川正男)
  • 日経ビジネス 1973年10月1日号「海の向こうのニッポン経営 NSKマニファクチュアリング(日本精工=オーストラリア)労働党政権下に問われる百%外資」
  • 日経ビジネス 1980年12月1日号「ケーススタディ 日本精工 在庫圧縮の効率経営と多角化が奏功」
  • 日経ビジネス 1983年7月25日号「NSKベアリングズ・ヨーロッパ(日本精工=英国)世界の巨人相手に奮戦、がっちり稼ぐ」

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