日本精工2期連続の最終赤字を経ての委員会等設置会社への移行
社内の合議に委ねるか、社外へ渡すか——赤字の後で選んだ機関設計
- 概要
- 2004年4月、日本精工は委員会等設置会社(現・指名委員会等設置会社)へ移行した。前々期にあたる2002年3月期に176億円の当期純損失、翌2003年3月期にも26億円の損失を出した直後の機関設計の変更で、指名・監査・報酬の3委員会を置き、役員の指名と報酬の決定を社外取締役が加わる委員会に移した。日本の製造業としては早い時期の移行であった。
- 背景
- 2002年3月期の連結売上高は4,809億円で前期から522億円減り、当期純損失は176億円に達した。翌2003年3月期も26億円の損失で2期連続の赤字となった。会社は1990年代後半から工場閉鎖と人員削減を進め、従業員は2002年3月期の22,337人から翌期に20,351人へ減っていた。
- 内容
- 移行の前に、1999年に執行役員制度と任意の報酬委員会、2003年に任意の監査委員会を置いていた。2004年の移行では任意の指名委員会も加え、会社法上の指名・監査・報酬の3委員会を設けた。前年には翌年の移行をにらんで社外取締役を増員し、ソニー銀行会長と公認会計士が新たに就いている。
- 含意
- 移行の翌2005年3月期は経常利益331億円、当期純利益223億円へ回復し、2008年3月期には売上高7,720億円・営業利益693億円を記録した。一方、2011年には軸受の価格カルテルで公正取引委員会の立入検査を受けた。執行と監督を分ける機関設計が、現場の取引慣行まで届くかどうかは別の問題として残った。
赤字の後に権限を手放すということ
2期で200億円を超える最終損失を出した会社が、次に選んだのは役員の指名と報酬を社外の委員会へ渡すことであった。任意の報酬委員会を条件として就任した伊藤建彦氏が、最終赤字の期に取締役の賞与を規定どおり支払わせた一件は、社外に渡した権限が飾りではなかったことを示している。赤字で発言力が落ちた経営陣にとって、外から来た監督を受け入れることは、失った信用を制度の形で埋め直す手立てでもあったとみられる。
ただし、機関設計は現場の行いを直接には縛らない。3委員会を置いてから7年後、日本精工は軸受の価格カルテルで公正取引委員会の立入検査を受け、賠償請求が長く残った。社外取締役を増やし、委員長を全員社外にし、議長を非業務執行の取締役に委ねてきた20年の積み上げと、立入調査の日を「企業理念の日」と定めるという別の手当てが並んで存在している。監督の仕組みを替える判断は必要ではあっても、それだけで足りるものではなかったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
2期続いた最終赤字
2002年3月期、日本精工の連結売上高は4,809億円で前期の5,331億円から522億円減り、親会社株主に帰属する当期純損失は176億円に達した。前期は114億円の黒字であったから、1年で290億円の振れである。IT関連の投資が急に止まり、軸受の需要が細ったことが直接の理由であった。翌2003年3月期も26億円の損失で、最終赤字は2期続いた[1]。
赤字は需要の減少だけで生じたものではなかった。会社は1990年代後半から他の製造業と同じように工場の閉鎖と人員の削減を進め、ようやく経常利益の黒字を取り戻したところで株安の波を受け、保有株式の評価損が最終損益を押し下げた。従業員は2002年3月期の22,337人から翌期の20,351人へ2,000人近く減っている。稼ぐ力の立て直しと、過去に積んだ資産の目減りが同時に表に出た2年であった[2][3]。
社外の目を入れる助走
機関設計の変更は思いつきで始まったものではなかった。日本精工は1999年に執行役員制度を導入し、同じ年に任意の報酬委員会を置いて社外取締役1名を迎えている。2003年には任意の監査委員会を設け、社外取締役は2名になった。法律が委員会等設置会社を認める前から、報酬と監査という機微な領域に社外の目を入れる仕組みを、任意の委員会として先に置いていた[4]。
同社初の社外取締役となった伊藤建彦氏は、経営改革の目玉として関谷哲夫社長から請われて就任した。就任の要請を受けた際に条件として示したのが報酬委員会の設置で、役員報酬を社長ひとりで決めなければならない当時の会社にとっては渡りに船の申し出であった。伊藤氏が委員長として数年をかけて整えた報酬規定には、固定報酬に加えて業績に連動する賞与の定めが盛り込まれた[5]。
決断
2004年4月、委員会等設置会社へ
2004年4月、日本精工は委員会等設置会社へ移行した。同時に会社法上の指名・監査・報酬の3委員会を置き、任意の指名委員会も設けている。1999年の報酬委員会、2003年の監査委員会と、任意の委員会として積み上げてきた仕組みを、法律の定める機関設計へ載せ替える手順であった。上場企業の多くが監査役会設置会社にとどまっていた時期で、製造業としては早い移行にあたる[6][7]。
移行が体制として動くよう、人の手当ても前年から進んでいた。2003年、日本精工は翌年に予定する委員会等設置会社への移行をにらんで社外取締役を増員し、ソニー銀行会長と公認会計士の就任が決まった。伊藤氏は当初の予定より退任を遅らせ、監査委員会の設置準備にも関わっている。後任には年間で一定の時間を割けることを条件として人選が進められた[8]。
監督と執行を分ける設計
移行が変えたのは委員会の数ではなく、決定の場所であった。日本精工が掲げる機関設計の指針は、監督機関と執行機関とを分離することによって、監督機関の執行機関に対する監督機能を確保することにある。取締役会は経営の基本方針の決定にあたるとともに、業務執行の決定を執行機関へ積極的に委任し、その執行状況を監督する。委任を受けたCEOが業務執行全般について最高の権限と責任を持つ形に組み替えられた[9]。
社外に渡した権限は、規定の運用の場面で試された。報酬委員会が整えた規定では、執行役員の賞与は営業損益、執行役員を兼務しない取締役の賞与は最終損益に連動する。最終赤字を計上した期には後者の賞与が支払われないことになり、一部の役員から再考を促す声が上がった。伊藤氏は例外を作るならそれも規定の中に盛り込むべきだとして、なし崩しに運用を変えることを認めなかった[10]。
結果
社外の比重が増え、業績も戻った
移行の翌2005年3月期、日本精工の経常利益は331億円、当期純利益は223億円へ回復した。2008年3月期には連結売上高7,720億円、営業利益693億円を記録し、2002年3月期の赤字は遠い数字になった。取締役会の構成も動き、2005年には取締役の3分の1以上が社外となった。制度の名称は2006年に委員会設置会社、2015年に指名委員会等設置会社へと法改正に沿って変わっている[11][12]。
社外へ委ねる範囲はその後も広がった。2017年には指名・監査・報酬の各委員会の委員長がすべて社外取締役となり、2018年に女性取締役が加わり、2020年には取締役の過半数が社外となった。2021年からは業務を執行しない取締役が取締役会の議長を務めている。2004年に法定の機関設計へ移した時点では社外2名だった構成が、20年で社外が多数を占める取締役会に変わった[13]。
制度が届かなかった場所
執行と監督を分ける設計は、現場の取引慣行までは覆わなかった。2011年、日本精工は軸受の価格カルテルで公正取引委員会の立入検査を受け、顧客からの賠償請求が長く残った。内山俊弘社長は2016年の取材で、二度と事件を起こさないためにコンプライアンスの強化が重要な課題であると述べ、体制も整い社員の意識も変わったと語っている[14]。
会社は事件を忘れないための日付も定めた。公正取引委員会の立入調査を受けた7月26日を、2016年から「企業理念の日」としている。機関設計としては1999年から段階を追って社外の目を入れてきた会社が、独占禁止法違反によって信頼を損ね、その反省を年に一度の社内行事として制度化した。委員会に権限を移すことと、現場の商慣行を変えることが別の作業であることを示す経過であった[15]。
- 日本精工 有価証券報告書 第164期(2025年3月期)【沿革】
- 日本精工 有価証券報告書 第145期(2006年3月期)【主要な経営指標等の推移】
- 日本精工 有価証券報告書(連結)
- 日本精工 NSKレポート2025(統合報告書)
- 日経ビジネス 2003年7月14日号「ひと烈伝 伊藤建彦氏[日本精工 前社外取締役]「企業人の武士道」を伝授」
- 週刊東洋経済 2016年6月18日号「この人に聞く 日本精工 社長 内山俊弘 ベアリングにこだわらず新製品、新事業へ挑戦」