米国流トップダウンへの意思決定様式の転換

同族色の強い老舗で、茂木友三郎社長は意思決定の速さそのものをどう変えようとしたか

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時期 1995年2月
意思決定者 茂木友三郎 キッコーマン 社長
論点 経営体制と意思決定様式
概要
1995年2月に社長へ就いたキッコーマンの茂木友三郎氏が、米国での経営経験をもとに、同族色の強い老舗の意思決定を米国流のトップダウン型へ改めた経営体制の判断。商品別の責任者を定め、社長室を拡充し、情報を社長に集めて直接指示を出す運営に切り替えた。
背景
キッコーマンは創業八家に連なる同族色の強い老舗で、意思決定はスピードとは縁遠かった。主力のしょうゆはプライベートブランド(PB)に侵食され、業績は減収益の見込みで、周辺商品の育成や海外拠点の増強など課題が山積していた。
内容
米コロンビア大学で経営学を修め、同社の米国進出を主導した茂木社長は、就任早々に商品別の責任者を決め、社長室を拡充した。情報を自分に集めて直接指示を出し、部下への指示には必ず期限を設けた。「攻めの経営」を掲げ、意思決定の速さを競争力に変えようとした。
含意
前社長の急逝で就任が早まったなかで、老舗の運営様式そのものに手を入れた判断であった。この体制づくりは、翌1996年のプロダクト・マネジャー制と「攻め」への方針転換の前段にあたり、同族企業の統治を実力本位へ組み替える流れの入り口をなしたとみることができる。
筆者の見解

老舗の統治を、実力本位へ

この判断の核心は、事業の中身より先に、意思決定の様式に手を入れた点にある。茂木友三郎社長は、創業八家に連なる老舗の合議的な運営を、情報を社長に集めて速く指示を出すトップダウンへ組み替えようとした。米国の経営で身につけた指揮の型を、同族色の強い会社へ持ち込む試みには、緊張と反発もともなったとみられる。前社長の急逝で就任が早まった不利な条件のなかで、まず組織の動かし方そのものを変えにいったところに、この体制判断の性格が表れている。

もっとも、意思決定を速めること自体は、業績を好転させる保証ではなかった。しょうゆがPBに侵食され減益が続く状況は、トップダウンへの転換だけで解けるものではない。統治の様式を変えた1995年の判断が実を結ぶかどうかは、翌年に本格化する商品戦略と海外拡張がどこまで成果を上げるかにかかっていた。老舗の運営を速さで鍛え直すこの試みは、その後のキッコーマンが同族企業でありながら実力本位の統治を保てるかという、長い問いの入り口にあったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

同族色の強い老舗と、スピードと無縁の意思決定

キッコーマンは、しょうゆ醸造の系譜を継ぐ創業八家に連なる同族色の強い老舗であった。茂木友三郎社長もその一員だが、就任は血縁だけによるものではなく、長期計画の立案や情報システムの導入といった新基軸を担い、米国進出を主導した実績を背景にしていた。同社の意思決定は、それまでスピードとは縁遠かった。老舗の慣行のなかで、決定に時間がかかる運営が続いていた[1]

意思決定の遅さは、業績の停滞と表裏をなしていた。就任当時の茂木社長は、社内にトップダウンの緊張感を持ち込んだ人物として受け止められた。ある中堅社員が「一気に緊張感がみなぎった」と語ったように、それまでの同社の運営は、速さや緊張感とは対照的な性格を帯びていた。老舗の落ち着いた意思決定様式が、市場の変化に追いつけなくなりつつあった[2]

主力しょうゆのPB侵食と、減収益の見込み

就任時のキッコーマンが抱えていたのは、大黒柱のしょうゆがプライベートブランドに食われるという難題であった。流通側の低価格なPB商品に主力商品が侵食され、業績はこの期に3期連続の減収益が見込まれていた。しょうゆという成熟した本業の採算が落ちるなかで、周辺商品の育成や海外拠点の増強など、取り組むべき課題が山積していた。老舗の運営を立て直さなければ、これらの課題に速く手を打てない状況であった[3]

数字のうえでも、停滞ははっきりしていた。前年の1994年12月期の連結売上高は2010億円、経常利益は83億円、当期純利益は66億円で、伸びを欠いた状態が続いていた。国内しょうゆの縮みと価格競争が、老舗の業績を静かに削っていた。速く意思決定できる体制へ切り替えることが、業績の立て直しと同じ課題の裏表になっていた[4]

決断

前社長の急逝と、米国流トップの登場

茂木友三郎社長の就任は、中野孝三郎前社長の急逝によって少し早まった。米コロンビア大学で経営学修士を取得し、英語も堪能な茂木社長は、同社の米国進出を主導してきた国際派であった。1935年に生まれ、1958年に慶応義塾大学法学部を出て野田醤油(現キッコーマン)に入り、取締役・常務・専務・副社長を経て1995年に社長へ就いている。米国流のトップダウンを好み、理想とする組織のあり方も前社長と対照的であった[5]

茂木社長が持ち込もうとしたのは、米国の経営で身につけた指揮の型であった。理想とする組織の姿が前任者と対照的であったことは、単なる世代交代ではなく、意思決定の様式そのものを入れ替える意図をうかがわせる。老舗の合議に流れがちだった運営を、トップが方向を定めて速く動かす体制へ——就任という節目を、統治のかたちを変える機会として使おうとした[6]

情報の集約と、商品別責任者制

就任早々、茂木社長は具体的な体制づくりに着手した。商品別に責任者を決め、社長室を拡充する。情報を自分に集め、指示を直接出す体制を整えた。「攻めの経営」を口癖にし、部下への指示には必ず期限を設けた。合議のなかで薄まりがちだった責任の所在を、商品ごとの担当者と社長との直結によってはっきりさせ、決定から実行までの時間を詰めにかかった[7]

情報を社長へ集める運営は、現場の実感としても表れた。ある幹部は、前社長との違いについて「電話、手紙など社長への生の情報量がケタ違いに増えた」と語っている。決定に必要な情報をトップが直接つかみ、そのまま指示へつなげる回路を作ることで、伝言と稟議に費やしていた時間を削ろうとした。意思決定の速さを、老舗の運営に組み込むための土台がここで据えられた[8]

結果

緊張感の醸成と、翌年の本格改革へ

トップダウンへの切り替えは、まず社内の空気を変えた。スピードと無縁だった同社に一気に緊張感がみなぎり、社長への生の情報が急増して、指示に期限がつく運営が根づき始めた。就任1年を経た茂木社長は、「どこをどう押せば、組織が動くのかがわかってきた」と語り、老舗を動かす手がかりをつかんだ手ごたえを示した。統治の様式を変える試みは、就任直後の混乱を越えて、組織を動かす実践へと移りつつあった[9]

この体制づくりは、翌年の本格的な事業改革へとつながった。1995年に整えた商品別責任者の仕組みは、1996年に社長直属のプロダクト・マネジャー制として制度化され、「守り」から「攻め」への方針転換の先導役になる。トップダウンで意思決定を速める1995年の統治改革が、翌年の商品戦略と海外拡張を動かす下地になった。同族企業の運営様式を実力本位へ改める流れの入り口が、この就任直後の一連の手にあった[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1995年5月15日号「茂木友三郎氏[キッコーマン]登場 米国流トップダウンで老舗を改革」
  • 日経ビジネス 1996年4月22日号「キッコーマン、『攻め』へ大転換 プロダクト・マネジャーが先導役 停滞打ち破れるか茂木改革」
  • キッコーマン 有価証券報告書(1994年12月期・連結)