ROE経営と米国型ガバナンスへの移行
2003年実施資本効率を問われた日本の精密企業は、なぜ社外取締役が過半を占める取締役会へ移ったのか
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- 概要
- 2003年6月、HOYAが日本企業として早い時期に委員会設置会社(現・指名委員会等設置会社)へ移り、社外取締役が過半を占める取締役会を敷いた経営判断。1990年代半ばに始めた資本効率=ROE重視の経営を、経営を監督する統治のかたちにまで落とし込んだ。
- 背景
- 1990年代半ば、HOYAは米国事業からROEの低さを問われたことなどを契機に、鈴木哲夫会長のもとで事業の選択と集中と組織のスリム化を進めた。1995年6月には社外取締役制度を導入し、社内出身者だけで取締役会を固める会社が多かった時期に外部の視点を招き入れた。
- 内容
- 2002年の商法改正を受け、2003年6月、鈴木洋CEOのもとでHOYAは委員会設置会社へ移行した。社外取締役を過半数以上とすることを定款で定め、指名委員会を社外取締役だけで構成して、業務の執行と監督を分けた。
- 含意
- 社外取締役5人・社内取締役1人という取締役会は、日本企業では突出して外に開かれていた。鈴木洋氏は見込みのない事業からの撤退を経営原則とし、資本効率と統治の両面で米国流に近い経営を、日本の企業として早く定着させた。
資本効率を、統治のかたちにした会社
この経営判断の核心は、資本効率を掲げる経営を、掛け声にとどめず統治のかたちにまで落とし込んだ点にある。1990年代半ば、米国事業からROEの低さを問われた鈴木哲夫氏が事業の選択と集中に踏み込み、続く鈴木洋氏が2003年に委員会設置会社へ移して、社外取締役が過半を占める取締役会をつくった。数値目標としてのROEと、経営を監督する仕組みとしてのガバナンス。二つを一続きのものとして扱った点に、この会社らしさがうかがえる。
もっとも、社外取締役が過半を占める取締役会は、それ自体が成果を約束するわけではない。仕組みが働くかどうかは、そこに座る人と、扱う事業の中身しだいである。HOYAの場合は、光学ガラスに発する高シェア・高収益の事業構造があり、その資本を効率で配り直す規律と、外部の目による監督とがかみ合った。日本の会社は変わらなければならない——鈴木洋氏がくり返したこの問いに、統治の器から先に組み替えて答えを出そうとした点で、この決断は日本企業のなかで早すぎたほど早い一手であった。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
資本効率という物差しと、社外取締役の導入
HOYAは、光学ガラスを源流に眼鏡レンズや半導体用マスクブランクスといった小さな市場で高いシェアを握り、高い利益率を保ってきた。その同社が、1990年代半ばに経営の物差しそのものを組み替える。米国事業からROE(自己資本利益率)の低さを問われたことなどを契機に、鈴木哲夫会長は事業の選択と集中と組織のスリム化を進め、資本効率を経営の中心に据えた。統治の面でも動きは早く、1995年6月に社外取締役制度を導入し、社内出身者だけで取締役会を固める会社がまだ多かった時期に、外部の視点を招き入れた[1]。
この改革が根づかせたのは、見込みのない事業に長くとどまらないという規律である。のちにCEOを継いだ鈴木洋氏は、事業の入れ替えを経営の中核に置き、うまくいかない事業は情緒を交えずやめると語ってきた。数多くの小さな買収と撤退をくり返しながら、資本を高い収益が見込める領域へ振り向ける。高いシェアと高い利益率を、資本市場が測る効率の言葉で説明できる会社へと、HOYAは自らを組み替えていった[2]。
決断
2003年、委員会設置会社へ
2002年の商法改正で、業務の執行を執行役に委ね、指名・監査・報酬の三委員会を社外取締役中心に構成する新しい会社形態が認められた。HOYAはこの器へ、日本企業として早い時期に移る。2003年6月、社長だった鈴木洋氏は代表執行役CEOとなり、会社は委員会設置会社(現・指名委員会等設置会社)へ移行した。1990年代半ばから積み上げてきた資本効率重視の経営を、経営を監督する仕組みそのものへと落とし込む動きであった[3]。
新しい統治の核心は、社外取締役へ実権を移した点にある。HOYAは、社外取締役を過半数以上とすることを定款に書き込み、取締役を指名する指名委員会を社外取締役だけで構成した。社外の人間が取締役を選び、執行役の業務を監督する。経営陣が自らの後任や監督者を実質的に決めてきた多くの日本企業とは異なり、選ぶ側と選ばれる側を制度として引き離した[4]。
結果
社外が過半数の取締役会
移行から十数年を経て、HOYAの取締役会は日本企業のなかで際立って外に開かれたものになっていた。2017年の時点で、取締役会は社外取締役5人と社内取締役1人の計6人で構成され、社内から入る取締役は鈴木洋氏ただ一人となった。鈴木自身、社内で取締役を出世の到達点とみる発想はもうないと語り、取締役という肩書きへの執着が社内から消えたと述べている。役員人事と取締役会の性格が、日本の多くの会社とは別の原理で動いていた[5][6]。
鈴木洋氏は、日本企業のあり方そのものにも疑問を向けてきた。日本の会社は整ってはいるが小さくまとまりがちだと述べ、その様子を箱庭にたとえた。ダメな事業をいくら頑張っても仕方がないと言い切り、資本を効率で配分する経営を貫いた。高いROEと、社外に開かれた取締役会。HOYAは、資本効率と統治の両面で米国流に近い経営を、日本の企業として早く形にした会社の一つとなった[7][8]。