HOYA の歴史

更新: Author:

創業 1941年
創業者 山中正一・山中茂
創業地 東京都北多摩郡保谷町
創業
1941年11月、製紙業を営んでいた山中正一氏と山中茂氏の兄弟が、東京府北多摩郡保谷町に東洋光学硝子製造所を創業した。ドイツからの輸入が途絶えた光学ガラスの国産化が国家の急務で、正一氏は溶解炉の前に寝泊まりしてるつぼの形と溶融温度を試し続け、1943年3月に『保谷BK7』へ到達し、海軍管理工場の指定を受ける。だが1945年の終戦で軍需が消え、100名規模の従業員を抱えたまま売上はほぼゼロになった。戦後はクリスタル食器の北米輸出で立て直し、売上の約9割をそこに寄せたところへ、1949年の単一為替『1ドル360円』が採算を崩す。1950年に従業員550名の大半を解雇し、創業から9年で性質の異なる二度の崩壊を経験した。
決断
事業を並べる会社から、資本の利回りで事業を入れ替える会社に変わった。1962年に眼鏡レンズ、1974年に半導体用マスクサブストレート、1991年にHDD用ガラスディスクと関連の薄い製品を手がけた結果、成熟事業と成長事業へ同じ資産コストを当てる無理が残る。1997年4月、本社を戦略企画・財務・法務・総務だけに絞り、成長事業を社内カンパニー、成熟事業を子会社とした。本体従業員2,020人を50人にする構想を掲げ、取締役会も16人から8人へ半減させている。翌1998年には資本コストを上回る付加価値を事業ごとに測るSVAを導入し、2003年6月には社外取締役が過半を占める委員会設置会社へ移行した。事業の存廃を情ではなく利回りで決める仕組みが、のちの買収と売却を速くした。
現況
利益の半分以上は、売上では3分の1あまりしかない事業が出している。2026年3月期の売上収益9,477億円のうちライフケアが5,907億円、情報・通信が3,548億円で、セグメント利益は1,295億円対1,923億円と逆転する。情報・通信の利益率54.2%は、ライフケアの21.9%の倍以上にあたる。売上の側を厚くしたのは2012年以降の買収で、セイコーエプソンの開発製造事業に続いて米社を476億円で取得し、眼鏡レンズで世界2番手の規模を確保した。利益の側は1974年に始めた半導体用マスクブランクスとHDD用ガラス基板が支える。2022年3月に鈴木洋CEOから21年の長期政権を継いだ池田英一郎CEOは、事業の入替をCEO最大の使命と述べている。
競合
カメラを手放して医療に残る道を、オリンパスは自ら育て、HOYAは買収で得た。オリンパスは1969年に第三事業部を置いて内視鏡を製品として立て、2020年にカメラ事業を譲渡している。HOYAは2007年に947億円でペンタックスを買収し、狙いどおり内視鏡を残して、赤字のデジタルカメラ事業を2011年10月にリコーへ譲渡した。2009年3月期にはペンタックス関連で274億円の減損損失を計上している。眼鏡レンズでも中小メーカーの買収を重ねて世界で業界2番手に付けた。育てる時間を買収の対価と減損で置き換えたことが、光学ガラス一社を医療とマスクブランクスの二つで稼ぐ会社へ変えた。
HOYA:長期業績の推移(売上高・利益率)売上高(億円純利益率(%)
1997年3月期2026年3月期

創業ストーリー 軍需とクリスタル輸出の連続崩壊という原体験 (1941年〜)

異業種参入から始まった光学ガラスBK7溶融への執念

1941年11月に山中正一氏と山中茂氏の兄弟が東京府北多摩郡保谷町に東洋光学硝子製造所を創業したのがHOYAの起点である[1]。兄弟はそれまで製紙業を営んでおり、光学ガラス製造とは縁遠い業界からの参入だったが、太平洋戦争下で軍需用光学ガラスの国産化が急務だった国家的要請が起業の直接的なきっかけとなった。当時の日本の光学産業はドイツからの輸入に依存する脆弱な体制にあり、戦時下でサプライチェーンが遮断されるなかで国内生産基盤を急造する必要に迫られていた。山中正一氏自身は溶解炉の前に筵を敷いて寝泊まりし、坩堝の形状と溶融温度の組み合わせを昼夜を問わず試行錯誤する執念でガラス溶解法の独自開発を行った。

  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1941年11月 東洋光学硝子製造所を創業(光学ガラス製造に着手)

約2年の試行錯誤を経て1943年3月に新型坩堝を完成させ、光学ガラス『保谷BK7』の溶融に到達した。品質が海軍に認められて管理工場の指定を受け、軍需向けの安定した納入先を確保できたが、この到達点は出発点の危うさを宿していた。1945年の終戦とともに軍需向け需要は消滅し、100名規模の従業員を抱えたまま売上がほぼゼロになる事態が会社を襲った。創業から僅か4年で事業存続の基盤を失った経験は、経営陣と創業家の双方に集中リスクの危うさを記憶として刻み込んだ。平時の好調が内包する破綻の種を初期段階で身をもって体験したことが、後の分散志向の源泉となる。

  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [1]1941年11月 東洋光学硝子製造所を創業(光学ガラス製造に着手)

為替崩壊が教えた集中リスクと分散志向の原点

終戦後のHOYAは軍需光学からクリスタルガラスの食器製造へ事業の主軸を転じ、[2]米軍関係者向けの販売を起点として北米市場への参入を本格化した。ちょうどチェコの共産化で欧州からの高級シャンデリア供給が途絶えていた時期で、北米市場にはクリスタル食器需要の空白が生まれていた。HOYAはこの空隙に機敏に参入して成長し、売上の約90%をシャンデリア中心の北米輸出に依存する構造が短期間で形成された。この依存構造は前回の軍需100%体制と同じ構図で、依存先の業界と地理が変わっただけで集中リスクは解消されていなかった。軍需崩壊を経ても依存型の収益構造が繰り返された。

  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [2]終戦後にクリスタルガラス(食器製造)へ参入=事業主軸の転換(1945年10月 クリスタルガラス食器製造開始)

1949年に単一為替レートとして『1ドル360円』が制定され、従来の実勢レート1ドル600円からの切り上げで、輸出採算は一夜にして約40%の円高圧力に晒されて崩壊した。1950年にHOYAは従業員550名の大半を解雇して100名未満の態勢で再スタートを切る選択を迫られ、創業から9年のうちに軍需消滅とクリスタル輸出崩壊という性質の異なる2度の経営危機を連続して経験した。この2度の体験が以後の経営文化を形成する原点として働き、単一顧客・単一市場・単一製品への依存を警戒する志向と、複数のニッチ市場を同時に抑えて全体のリスクを分散させる発想を会社の底流に刻み込んだ。

  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [2]終戦後にクリスタルガラス(食器製造)へ参入=事業主軸の転換(1945年10月 クリスタルガラス食器製造開始)

5ヵ年計画と直販体制が生んだ景気耐性の設計

1957年に創業家が急逝したことを受けて、当時32歳の技師長・鈴木哲夫氏が社長に就任した[3]。1960年に創業以来初となる5ヵ年計画を策定し、系列3社の合併、事業部制の導入、直販網の整備という3本柱を中核施策に据えた。[4]鈴木氏は、国内市場で受け入れられない製品が海外で成功する可能性は稀だという経営哲学を繰り返し説き、内需市場での競争優位を確立することを経営の出発点に据えた。直販体制の核心は操業設計そのものにあり、販売力を100として生産能力を85に敢えて抑え、不足分を外部委託で埋める生産と販売の均衡設計を独自の仕組みとして採用した。販売力と生産力を意図的に非対称に設計したこと自体が、HOYA流の景気耐性の源泉となる。

  • Hoya group 40 1981年「株式会社保谷硝子創立40周年記念誌」
    • [3]1957年に鈴木哲夫が社長就任
  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]系列3社の合併(保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し保谷硝子へ)

この仕組みでHOYAは不況期でも自社工場をフル稼働のまま維持でき、過剰在庫とそれに続く安売りの悪循環を回避する景気耐性を獲得した。1967年に眼鏡事業への先行投資が原因で赤字が発生し、主要取引銀行からの圧力を受けて鈴木氏は一時社長の座を退いたが、[5]その後株式の買い増しを通じて1970年に社長へ復帰した。この退任と復帰の経緯は鈴木氏個人の経営者としての意思の強さを示す逸話として語り継がれ、創業家が経営から退いた後もHOYAが一貫した経営哲学のもとに運営されるきっかけとなった。銀行主導のガバナンスに一度屈した経験が、後年のROE重視・資本効率重視の経営への伏線となる。

  • Hoya group 40 1981年「株式会社保谷硝子創立40周年記念誌」
    • [5]1967年に眼鏡事業先行投資が原因で赤字・鈴木哲夫が引責退任
  • Hoya group 40 1981年「株式会社保谷硝子創立40周年記念誌」
    • [3]1957年に鈴木哲夫が社長就任
    • [5]1967年に眼鏡事業先行投資が原因で赤字・鈴木哲夫が引責退任
  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [4]系列3社の合併(保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併し保谷硝子へ)

シェアを「資産」と定義した寡占化の経営論

復帰後の鈴木哲夫氏はシェアを資産と定義し、主力製品でシェア50%以上という数値目標を全社で掲げた。シェアの高さが製品1単位当たりのコストを引き下げ、競合との投資余力格差を広げるサイクルを生む設計だった。1974年に半導体用マスクサブストレートの製造を開始し、[6]IBMからの受注を起点としてガラス基板からクロムマスクまでの一貫生産体制を構築し、情報通信事業の長期的な収益基盤の種を播いた。国内の経済環境が変わるなかでも、鈴木氏のシェア戦略は維持された。半導体向けマスクブランクスという、顧客数が限られ参入障壁の高いニッチに早期から布石を打ったことが、後年の強みとなった。

  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1974年に半導体用マスクサブストレートの製造開始

1987年時点でHOYAは眼鏡レンズ36%、クリスタル食器65%、光学レンズ60%、マスクブランクスで世界75%と、複数のニッチ市場でいずれもトップシェアを確保していた。巨大な総合市場を追いかけるのではなく、技術的な参入障壁の高い小規模市場で支配的地位を握るニッチ寡占の集合体として企業を設計するこの戦略は、1990年3月期の営業利益率12.5%で表れた。複数の小さな『ほぼ独占』を並列で抱える構造は、集中リスクの分散と高収益を同時に可能にし、創業期に刻まれた経営文化が財務構造として形になった。軍需消滅とクリスタル輸出崩壊で学んだ教訓が、30年を経て反転した形で表れた。

  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
    • [6]1974年に半導体用マスクサブストレートの製造開始

API for AI Agents — 認証不要、URLをGETするだけで機械可読なJSONをトークン消費を抑えつつ取得できます。

HOYAの沿革1941〜2022年における主な出来事を抜粋

時代年月社長・CEO出来事重要度
1941〜1956年軍需とクリスタル輸出の連続崩壊という原体験東洋光学硝子製造所を創業
株式会社に改組
東洋光学硝子製造所に商号変更
クリスタルガラスに参入
商号を保谷クリスタル硝子製造所に変更
光学ガラスの生産再開
1957〜1989年鈴木哲夫体制とニッチ寡占の高収益モデル確立鈴木哲夫鈴木哲夫氏が社長就任
鈴木哲夫メガネ事業に参入
鈴木哲夫保谷光学工業・山中光学工業・保谷光学硝子販売を吸収合併
鈴木哲夫保谷硝子に商号変更
鈴木哲夫東京証券取引所市場第二部に上場
鈴木哲夫メガネレンズ製造開始★★
島田義鈴木哲夫氏が引責退任★★
鈴木哲夫多角化を遂行・シェアを重視
鈴木哲夫ソフトコンタクトレンズの製造開始
鈴木哲夫東京証券取引所市場第一部へ指定
鈴木哲夫半導体用マスクサブストレートの製造開始★★
鈴木哲夫半導体用フォトマスクの製造を開始★★
鈴木哲夫商号をHOYAに変更
鈴木哲夫眼内レンズ(白内障術後用)製造開始
鈴木哲夫光学ガラスによる非球面モールドレンズ製造開始
鈴木哲夫北米統括会社HOYA CORPORATION USAを設立
1990〜2023年ROE経営と事業ポートフォリオの入替による企業変貌鈴木哲夫未承認コンタクトレンズの回収★★
鈴木哲夫HDD用ガラスディスク(ガラス磁気メモリーディスク)発売
山中衛ROEを重視・組織改革を推進
山中衛本社50人化と持株会社型カンパニー制への移行

1997年4月、HOYAは持株会社を想定した組織改革を断行し、成長事業のエレクトロオプティクスとビジョンケアを社内カンパニー、成熟事業のクリスタル・ホトニクス・ヘルスケアを子会社とした。本社を戦略創造型の少人数組織に絞り、翌1998年4月に独自の資本効率指標SVAを全社へ導入した経営判断。

詳細を読む
★★★
山中衛オランダ・米国と合わせ3極の地域本社体制を確立
鈴木洋沖電気工業の半導体用フォトマスク製造部門を譲り受ける
鈴木洋ROE経営と米国型ガバナンスへの移行

2003年6月、HOYAが日本企業として早い時期に委員会設置会社(現・指名委員会等設置会社)へ移り、社外取締役が過半を占める取締役会を敷いた経営判断。1990年代半ばに始めた資本効率=ROE重視の経営を、経営を監督する統治のかたちにまで落とし込んだ。

詳細を読む
★★★
鈴木洋日本板硝子のHDD用ガラスディスク事業を譲り受ける
鈴木洋ペンタックス買収と事業ポートフォリオの入れ替え

2007年、複数のニッチ事業を分散して抱えるHOYAが、医療用内視鏡事業の獲得を主目的にペンタックス(旧・旭光学工業)をTOBと株式交換で子会社化し、2008年3月に吸収合併した経営判断。赤字続きのデジタルカメラ(イメージング)事業は2011年10月にリコーへ譲渡し、医療用内視鏡を残してカメラを切った。

詳細を読む
★★★
鈴木洋TFT液晶ガラス基板から撤退★★
鈴木洋HDD用ガラスメディア製造事業・関連資産をWESTERN DIGITAL CORPORATIONに譲渡★★
鈴木洋PENTAXイメージング・システム事業をリコーに譲渡★★
鈴木洋HOYAのライフケアへの優先投資と眼鏡レンズ事業の連続買収

2012年以降、HOYAが景気変動に強い生活財=メガネレンズへ優先して投資し、セイコーエプソンからの眼鏡レンズ事業取得(2013年)を皮切りに海外メーカーを相次いで買収して、世界で業界2番手の規模を築いた経営判断。ガラスから多角化した同社の事業構成を、安定した収益の側へ寄せ直す選択であった。

詳細を読む
★★★
鈴木洋セイコーエプソンから眼鏡レンズ事業を買収
鈴木洋音声読み上げのReadSpeaker社を買収
鈴木洋EUVマスクブランクスの量産開始
池田英一郎鈴木洋CEOの21年と、池田英一郎氏への承継

2021年12月22日、HOYAは鈴木洋CEOが2022年3月1日付で退任し、後任に最高技術責任者(CTO)の池田英一郎執行役が昇格すると発表した経営承継。鈴木は2000年の社長就任から約21年にわたりトップを務め、ROEと資本効率を軸とする経営で同社を高収益・高時価総額の企業に育てた。生え抜きのCTOへ引き継ぐ交代を、市場は『サプライズ勇退』と受け止めた。

詳細を読む
★★★
鈴木洋HOYAデジタルソリューションズを富士フイルムビジネスイノベーションへ 譲渡
池田英一郎BOEグループとFPD用フォトマスク事業の合弁会社を設立
出典・参考
  • HOYA 有価証券報告書 第87期(2025年3月期)【沿革】
  • Hoya group 40 1981年「株式会社保谷硝子創立40周年記念誌」

免責事項およびポリシー