重要な意思決定
194111月

東洋光学硝子製造所を創業

背景

製紙業の経営者兄弟が戦時の国産化要請を受けて光学ガラス製造に転身

1941年11月に山中正一と山中茂の兄弟は、東京都北多摩郡保谷町に東洋光学硝子製造所(現HOYA)を創業した。山中正一は当時44歳であり、兄弟は創業以前、尾張製紙株式会社の経営に携わっていた。光学ガラスとは無縁の製紙業からの参入であったが、太平洋戦争下において軍需用光学ガラスの国産化が急務とされていたことが起業の契機となった。山中正一は陸軍の砲兵効果学校を卒業した経歴を持ち、当時の首相である東條英機からの支援を受けたとされる。

しかし製紙業からの転身であったため、光学ガラスの生産に不可欠な「ガラス溶解」の技術的蓄積を持たなかった。山中正一は溶解炉の前にむしろを敷いて寝泊まりし、昼夜を問わず光学ガラスの溶解実験を繰り返した。既存の粘土坩堝では品質の安定した光学ガラスを溶融することができず、社外から広く資料を収集するとともに、独自のガラス溶解法と坩堝の開発に着手した。技術的な出発点がほぼゼロであった点が、HOYAの創業期を特徴づけている。

製紙業における製造管理の経験は光学ガラスの品質管理にそのまま転用できるものではなかったが、原材料の配合と焼成温度の制御という製造工程上の類似性は、山中正一が溶解実験に取り組む際の基本的な素養となった可能性がある。戦時下では既存の光学ガラスメーカーからの技術移転は期待できず、独力での試行錯誤によって技術を確立する必要があった。この状況が、後のHOYAに通底する自前主義の原型を形成したと推定される。

決断

約2年の開発期間を経て新型坩堝による光学ガラスBK7の溶融に到達

約2年間の試行錯誤を経て、1943年3月に山中正一は新型坩堝を完成させ、光学ガラス「保谷BK7」の溶融に到達した。BK7は分散が小さく、湿気や汚れに強い特性を持つガラスであり、軍需用双眼鏡のレンズとして採用された。品質の良さが認められた結果、1943年5月にHOYAは海軍の管理工場に指定された。管理工場の指定は安定的な受注を意味し、創業からわずか1年半で軍の調達網に組み込まれた形であった。

溶融の実現にあたっては、既存メーカーの製法を模倣するのではなく、独自のガラス溶解法を考案する必要があった。製紙業出身であったがゆえに、光学ガラス業界の既成概念に縛られずに坩堝の改良に取り組むことができたとも考えられる。1944年8月には株式会社に組織変更を実施し、終戦時には100名の人員が事業に従事する規模にまで成長した。創業から3年余りで軍需向けの光学ガラスメーカーとしての基盤を構築した計算になる。

BK7は当時の光学ガラスの代表的な製品として位置づけられ、その後も長期にわたり生産が継続された。技術的には粘土坩堝の改良という地味な工程改善の積み重ねであったが、光学ガラスの品質は坩堝の性能に全面的に依存するため、この改良が製品品質の根幹を成した。軍需向けという限定された市場であったとはいえ、ゼロからの技術開発で品質基準を満たす製品を量産するに至った過程は、HOYAの技術志向の原点として位置づけられる。

結果

軍需向けBK7の量産体制を確立するも終戦により需要基盤を一夜で喪失

BK7の品質が認められたことで、HOYAは軍需向け光学ガラスメーカーとしての事業基盤を確立した。海軍管理工場への指定は安定的な受注の保証であり、創業からわずか2年で軍の調達体制に不可欠な供給者となった。100名の従業員を擁する規模にまで成長した事実は、戦時経済下における国産化需要の大きさを示している。しかし1945年8月の終戦により、軍需向け双眼鏡レンズの需要は一夜にして消滅し、HOYAは創業からわずか4年で事業の前提そのものが崩壊する事態に直面した。

終戦による需要消滅は、軍需に全面依存した事業構造の脆弱性を露呈させた。売上がゼロになるという極端な事態は、単一顧客への完全依存が外部環境の一変に対して構造的に無防備であることを示すものであった。この経験が、HOYAの経営にとって最も根源的な教訓となった。以後のHOYAが事業の多角化と需要源の分散を一貫して志向し続けた背景には、創業期の軍需依存が終戦で崩壊したという原体験が存在している。

この危機がクリスタルガラスへの業態転換を生むことになるが、軍需に依存した創業期の構造が終戦とともに無価値になったという経験は、HOYAの初期経営を決定的に規定した。需要源の多様化なき成長がいかに脆弱であるかを、創業からわずか4年で体験したことの意味は大きい。後の鈴木哲夫による直販体制の構築やシェア戦略、さらにはROE経営への転換に至るまで、HOYAの経営判断の底流には単一依存の回避という一貫した志向が読み取れる。