鈴木哲夫氏が引責退任
眼鏡直販網の先行投資が裏目に出て上場以来初の無配に転落
1966年3月期にHOYAは当期純損失7億円を計上し、上場以来初となる無配に転落した。原因は眼鏡事業における先行投資にあった。HOYAは眼鏡レンズの直販網を構築するために営業人員を大量採用していたが、1965年の証券不況により販売が低迷し、営業人員の固定費が収益を圧迫した。直販体制は長期的な収益安定に寄与する設計であったが、構築途上の段階で不況に遭遇したことが裏目に出た。
赤字転落を問題視したのは取引先の銀行であった。銀行はもともと眼鏡事業における直販網の形成に反対しており、推進者であった鈴木哲夫社長(当時42歳)に経営責任を追及した。社内でも社長に対する批判が噴出し、経営体制の刷新を求める声が高まった。鈴木が主導した直販体制は後年の収益安定に寄与することになるが、この時点では先行投資の負担だけが表面化していた。
直販体制の構築は、完成すれば不況期でも稼働率を維持できる仕組みを生むが、構築途上では固定費の増加として経営を圧迫する。投資の時間軸と業績評価の時間軸の不一致が、鈴木の退任劇の構造的な背景であった。長期的な設計思想が短期業績の悪化として現れた場合に、その設計思想ごと否定されるリスクが顕在化した局面であった。
社内クーデターにより鈴木哲夫が相談役に降格し銀行出身の社長が就任
1967年に鈴木哲夫は社長から相談役に降格された。代わりに監査役であった島田氏(商工中金出身)が社長に就任した。鈴木の降格は銀行の圧力と社内の批判が重なった結果であり、事実上の社内クーデターであった。鈴木は自身が降格する代わりに、眼鏡事業の直販網構築を継続することを条件として提示した。
降格後の鈴木は相談役の地位にとどまりつつ、工場などの製造現場を渡り歩いた。本社を訪れると「何をしにきた」という態度で迎えられ、自ら採用した社員に裏切られたと感じたという。鈴木自身は後年、この経験を「手のひらを返したような態度」と振り返っている。しかし退任ではなく復帰を選んだ鈴木は、水面下で株式の買い増しを開始した。
鈴木は3年間の相談役時代に自身の持株比率を2倍に引き上げた。銀行の圧力と社内の人事によって排除された経営者が、資本の論理で復帰の足場を築くという展開は、日本企業のガバナンスにおける株式保有の重みを示すものであった。人事権による排除は株式保有によって覆されうるという構造が、この3年間で露呈した。
株式買い増しで経営権を奪還し対立した役員を入れ替えて復帰
1970年に鈴木哲夫はHOYAの社長に復帰した。3年間で株式保有比率を高めたことが復帰の最大の要因であった。復帰にあたって鈴木は、相談役時代に裏切った役職員のリストを作成しており、社長就任と同時に役員の入れ替えを断行した。退任から復帰までの一連の過程は、経営権をめぐる人事の奪還戦であった。
復帰後の鈴木は、直販体制の完成に加え、多角化とシェア重視の経営方針を本格化させた。退任の原因となった眼鏡事業の直販網は、その後HOYAの収益安定の基盤として機能し、1974年時点で国内シェア20%を確保するに至った。退任時に否定された投資判断が、結果的に正当化された形であった。
この退任と復帰の経緯は、日本企業における経営権の帰属が最終的に資本保有によって決定されることを実証した事例であった。銀行の圧力や社内の多数派工作という人事の論理は、株式の買い増しという資本の論理に覆された。以後、鈴木は1993年に会長に退くまでHOYAの経営を主導し、同社の事業構造と経営思想を不可逆的に変えた。