重要な意思決定
194510月

クリスタルガラスに参入

背景

終戦による軍需消滅で企業存続を賭けたクリスタルガラスへの業態転換

1945年8月の終戦により、HOYAは創業以来の主力であった軍需向け光学ガラスの需要を完全に失った。従業員を抱えたまま売上が消滅するという企業存続の危機に直面し、民需製品への転換を迫られた。選択されたのがクリスタルガラスによる食器製造であり、1945年10月に製造を開始して日本に駐留する米軍(GHQ)向けに販売を始めた。

製品の品質が認められ、1947年には「駐留軍用達品」の指定を受けた。この業態転換を反映して、同年に商号を「東洋光学硝子製造所」から「保谷クリスタル硝子製造所」に変更した。光学ガラスメーカーからクリスタルガラスメーカーへの転身であり、HOYAの事業の軸が変わった転換点であった。

クリスタルガラスへの参入は、光学ガラスの溶解・成形技術がガラス製品全般に応用可能であったからこそ実現した。しかし軍需消滅という外圧に追われた転換であり、民需市場における競争力を十分に検証した上での判断ではなかった。存続のために手近な市場に飛び込むという選択は、以後の為替変動による崩壊の伏線を含んでいた。

決断

チェコの共産化を商機と捉えシャンデリアの北米輸出に事業を集中

1947年にHOYAはシャンデリアの製造を開始し、北米向け輸出事業として本格展開した。戦前に欧州有数のシャンデリア産地であったチェコがソビエト傘下の共産圏に入ったことで、米国市場ではシャンデリアの供給不足が生じていた。HOYAはこの供給の空白を突く形で北米市場に参入し、急速に売上を拡大した。

北米輸出の拡大は急激であり、1949年頃にはHOYAの売上高の約90%がシャンデリアの北米輸出に依存する事業構造が形成された。軍需から民需への転換を果たしたものの、単一製品の輸出に集中するという依存構造は、軍需時代と本質的に同じであった。依存先が変わっただけで集中度の高さはむしろ深まっていた。

シャンデリアの量産体制を整えるために設備投資を実行しており、北米市場の需要が継続する前提で資本を投下していた。この設備投資が、為替変動時に固定費の負担として経営を圧迫する構造的な脆弱性を内包することになった。好調時の投資判断が不況時のリスクを拡大するという構図は、HOYAの初期経営に繰り返し現れるパターンであった。

結果

1ドル360円の制定で輸出採算が崩壊し従業員の大半を解雇する経営危機に

1949年4月に政府は単一為替レート「1ドル360円」を制定した。HOYAの輸出取引は従来1ドル600円のレートで行われていたため、実質的な40%の円高となり輸出採算が急激に悪化した。シャンデリア量産のための設備投資で資本を投下していたこともあり、資金繰りは逼迫した。

1950年にHOYAは人員整理を決定し、労働争議に直面しながらも従業員550名の大半を解雇した。最終的に100名未満の従業員で再スタートを切ることとなった。創業からわずか9年の間に、軍需消滅・業態転換・輸出急成長・為替変動・経営危機という一連の激変を経験したことになる。

売上の9割を単一の輸出製品に依存する構造が、為替という外部環境の変化で一挙に崩壊した事例であった。軍需依存からクリスタル輸出依存へと依存先が変わっただけで、集中リスクの構造は解消されていなかったことが明らかになった。この経験は、1960年に鈴木哲夫が策定する5ヵ年計画において、内需重視と直販体制の構築が最優先課題として位置づけられる直接の背景となった。