第1次5カ年計画を策定
クリスタルガラスの輸出依存から脱却するための経営計画の必要性
1950年代後半のHOYAは、北米向けシャンデリアを中心とするクリスタルガラスの輸出が売上高の大半を占めていた。1949年の単一為替レート制定による経営危機をかろうじて乗り越えたものの、北米市場における競合の増加や為替リスクへの脆弱性は解消されていなかった。クリスタルガラス単独での成長には構造的な限界が生じていた。
加えて、1955年の証券不況を契機に業績が悪化し、創業家の山中茂社長が脳溢血で倒れるなど経営体制の立て直しが急務となった。1957年に社長に就任した鈴木哲夫は、クリスタルガラスの輸出に依存する収益構造からの脱却を最優先の経営課題と認識した。「国内市場で受け入れられない製品が海外で成功する可能性はきわめて稀である」という鈴木の考えが、計画の方向性を規定した。
鈴木が構想した転換は、輸出から内需への重心移動と、クリスタルガラスから光学製品への事業軸の転換の2つを同時に進めるものであった。単一製品・単一市場への依存が9年間で2度の崩壊を招いたHOYAにとって、事業構造の分散は生存のための必須条件であった。
系列3社を合併し事業部制と直販体制を同時に導入する5ヵ年計画を始動
1960年にHOYAは創業以来初となる5ヵ年経営計画を策定した。計画の柱は、系列会社3社(保谷光学・保谷光学硝子販売・山中光学)の合併による経営資源の集約、事業部制の導入、直販網の整備の3点であった。合併にあたり商号を「保谷クリスタル硝子」から「保谷硝子」に変更し、クリスタルの名称を外すことで光学メーカーへの転換を社名レベルで宣言した。
組織面では「光学事業部」と「クリスタル事業部」の2事業部制を導入し、1967年には「眼鏡事業部」を加えた3事業部体制に移行した。販売面では1962年から代理店・問屋経由の取引を縮小し、直接販売の体制を構築した。営業人員の中途採用を進め、全国8地区に小売店組織「保谷会」を発足させた。
この直販体制の設計には、鈴木哲夫の操業思想が反映されていた。自社の販売力を100とすると、生産能力は85ないし80にとどめ、不足分は同業他社や海外メーカーに委託する。この仕組みにより、不況期でも自社工場はフル稼働を維持でき、在庫増と安売りの悪循環を回避できる。好況期に過剰投資を避け、不況期に稼働率を維持するという操業設計は、HOYAの収益安定の骨格となった。
眼鏡レンズの直販網が事業の柱に成長し高収益体質の基盤を形成
5ヵ年計画に基づく多角化と直販体制の構築は、1960年代を通じて着実に成果を上げた。クリスタル事業では照明から食器へと製品構成を転換し、光学事業ではカメラブームを背景にニコンやミノルタ向けのレンズ下請け生産が拡大した。とりわけ1958年に参入した眼鏡レンズは、直販網の整備とともに販売を伸ばし、1974年時点で国内シェア20%を確保するに至った。
HOYAの直販体制は、好況期だけでなく不況期における収益の安定性に寄与した。同業他社が不況時に過剰在庫と安売りに苦しむ中、HOYAは自社工場のフル稼働を維持し、安定した操業を続けた。直販という販売チャネルの選択が、生産管理と収益管理を一体化させる仕組みとして機能した。
この計画は、HOYAがクリスタルガラスの輸出企業から光学メーカーへと自己定義を書き換えた起点であった。合併・事業部制・直販という3つの施策は、個別には一般的な経営手法であるが、それらを操業設計という一つの思想のもとに統合した点に鈴木哲夫の経営の特徴がある。以後30年にわたりHOYAが維持した高収益体質の骨格は、この1960年の計画に遡ることができる。