「NP21」による社内の壁の打破と最高益への復活

前社長急逝と自身の闘病のなかで、傍流の社長はなぜ社内改革に賭けたか

更新:

時期 2002年5月
意思決定者 鈴木泰信 社長
論点 業績低迷下の社内改革
概要
ITバブル崩壊後の業績低迷で経常利益が急減したNTNが、前社長の急逝で登板し自身も闘病中だった鈴木泰信社長のもと、2002年に経営計画「NP21」を掲げ、聖域の人員削減と縦割り組織の再編で2004年3月期に過去最高益へ復活した経営判断。
背景
NTNは軸受で国内3位。1970年代以降は銀行出身者らが社長を務め、生産畑の鈴木氏は傍流であった。営業と技術、国内と海外の間で顧客情報が共有されず、鈴木氏は業績低迷の原因を経済環境よりも社内の壁に見た。
内容
2002年5月の「NP21」で、国内従業員の9%にあたる700人の希望退職と年間経費400億円削減という聖域に切り込んだ。営業組織を顧客別の7区分に再編し、営業と技術を束ねるグローバルアカウントマネージャーを置いた。
含意
前社長の急逝と自身の余命への向き合いという極限で、傍流ゆえに既存の力学に縛られず断行した改革であった。等速ジョイント世界一という攻めの目標と組織の壁の打破が、過去最高益という結果に結びついた。
筆者の見解

極限の危機が壊した壁

この経営判断の核心は、前社長の急逝と自身の余命への向き合いという極限のなかで、業績低迷の原因を景気でなく社内の壁に定め、聖域とされた人員削減と縦割り組織の再編を同時に断行した点にある。銀行・事務系が社長を継いできた会社で、生産畑の傍流であった鈴木氏が、既存の力学に縛られず改革を進めた。歴代が手をつけられなかった希望退職に切り込みながら、等速ジョイント世界一という攻めの目標で組織を一つの方向へ束ねたことに、この復活の性格がうかがえる。

もっとも、闘病の執念に支えられたトップダウンの改革は、強い個人の意志に多くを負っていた。危機のなかで壁を壊す速さは称賛される一方、その速さを平時の制度としてどう続けるかは、次の課題として残る。等速ジョイントに象徴される駆動部品は、軸受と並ぶNTNの2本柱として、その後のグローバル展開の軸となっていく。危機が個人に集めた力を、危機の去った後の組織へどう引き継ぐか——2002年からのNTNの復活は、その問いを含んでいるといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

傍流の社長と「社内マフィア」

NTNは軸受で国内3位、世界でも有数のメーカーであった。同社は1970年代に銀行からトップを招聘し、その後も銀行出身者か事務系が社長に就いてきた。生産畑を歩んだ鈴木泰信氏は、自身が語る通り傍流であった。40代の工場勤務時代には本社の役員と対立してカナダへ「左遷」を経験し、社内報には本社への嫌みを込めて「地の果てカナダから」と書いたこともあった。1990年代に入り、顧客である自動車会社の国内生産台数が減るのに伴って、NTNの業績はじわじわ落ち込んでいった[1]

鈴木氏の目には、業績低迷の原因は経済環境よりも社内の問題として映った。「営業、技術、総務…みんな自分のことしか考えてへん。この会社は社内マフィアだらけや」[2]。営業と技術、営業のなかでも国内営業と海外営業という具合に、部門間の交流は少なく、顧客情報が共有されずに効果的な商談ができなかった。海外営業部隊がつかんだ日系自動車会社の欧米工場の情報も、国内営業部隊にはなかなか伝わらなかった。縦割りの組織が、需要の変化に機敏に応じる力を削いでいた。

決断

「NP21」と聖域への切り込み

2001年11月、前社長の伊藤豊章氏が急逝し、副社長だった鈴木氏の登板が決まった。だが就任後に自身の病気が発覚し、医師は「2年間が病気克服の勝負になる」と告げた。鈴木氏は「2年で事業改革の決着をつける。半ばで倒れても、後任が後戻りできんところまで道筋をつける」[3]と決意し、ごく少数の幹部をベッドの横に座らせて改革のプラン作りを始めた。2002年5月、病気が快方に向かい始めた頃に発表した経営計画「NEW Plan21(NP21)」の冒頭には、「脆弱化した企業体質を筋肉質に変えるため、トップダウンの有言実行計画としてNP21を始める」と書き込まれた。期限は2004年3月までの2年間であった。

直前の2002年3月期、連結経常利益は前期比70%減の27億円に落ち込み、当期は赤字であった。売り上げの減少もあったが、最大の要因は人件費の重さであった。同期の単体の売上高人件費率は24.8%で、上場企業上位500社中、製造業では2番目に高かった。鈴木氏は、グループを含めた国内従業員の9%に当たる700人の希望退職者募集に踏み切った。歴代の経営者が手をつけられなかった聖域に、まず切り込んだ格好であった。購買費・物流費なども含めて、年間経費を400億円削減する計画を立てた[4]

組織の壁を壊す「マフィア崩し」と攻めの目標

鈴木氏の改革は、後ろ向きの人員削減にとどまらなかった。目詰まりした組織を活性化し、全社で共通の目標を追いかけるため、二つの高い目標を打ち出した。「等速ジョイントで世界一」と「中国に負けない工場の実現」である。等速ジョイントはエンジンの回転をタイヤに伝える駆動系部品で、2002年のNTNの世界シェアは17%で2位、首位の英GKNは30%を持っていた。鈴木氏が定めた世界一の実現時期は2010年で、NTNが初めて掲げた「世界一」の目標であった。自動車会社が内製していた駆動系部品を外部調達へ切り替え始めた業界の構造変化も、念頭にあった[5]

目標の実現には、縦割りの打破が欠かせなかった。鈴木氏は、国内と海外に分かれていた営業組織を、資本関係のある自動車メーカーを一括りとする7つの顧客別に再編し、それぞれの商談責任者としてGAM(グローバルアカウントマネージャー)を置いた。GAMには営業・技術双方の出身者を起用し、さらに欧米人も入れた。受注の成否を握る要職に外国人を使うのは、以前のNTNでは考えられなかった。開発部隊もGAMの指示で設計や試作を進める体制とし、鈴木氏は「24時間ずっと目を開けとれ」と即応を求めた。2003年7月には、海外への生産移管が全盛のなかで、あえて三重県多度町での国内新工場の建設に踏み切った[6]

結果

過去最高益への復活

2年間のNP21は、2004年3月に期限を迎えた。2004年3月期の連結経常利益は208億円と過去最高を更新した。人件費や購買費の削減効果が大きかったが、全社が同じ目標に向けて受注や原価低減を進めた成果でもあった。攻めの目標も形になりつつあった。等速ジョイントの2007年3月期の売上高予想は、受注確定分で1345億円に達し、NP21の開始前より5割増える見通しで、シェアでも首位GKNと4〜5ポイント差に迫った。営業担当副社長の後藤雍裕氏は「世界一が確実に見えつつある」と手応えを語った。国内新工場では、投資額を55%、スペースを62%減らした設備を若手社員が自ら開発した[7]

鈴木氏は就任直後の取材で、薬の副作用で抜けた頭髪を「合理化の意欲を示すために頭を丸めた」とごまかしていた。この改革が形になった頃には「体調は万全」となり、髪も戻って月に数回の海外出張もこなすようになった。1918年の創業以来培ってきたモノ作りの力がまだ眠っており、それを引き出すことが自らの役割だと鈴木氏は任じた。崖っぷちに立った社長が開き直り、「会社はこうあるべき」と突き進んだ結果が、復活を生んだ[8]

出典・参考
  • 日経ビジネス 2004年1月5日号「かくして我らは復活した NTN 闘病の執念が生んだ最高益」(日経BP社)
  • NTN 有価証券報告書(連結)