日産自動車 英国サンダーランド進出 決断——石原俊氏と労連会長・塩路一郎氏の攻防

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時期 1984年2月
当時の社長 石原俊
論点 海外現地生産の決断と労使政治
何をなぜ決めたか
概要

1980年代前半、石原俊社長のもとで日産が英国サンダーランドでの乗用車現地生産に踏み切った経営判断。貿易摩擦で完成車輸出の壁が高まるなか現地生産を"トヨタを追い越す好機"と位置づけたが、その進め方は国内の空洞化を警戒する自動車労連・塩路一郎会長との労使対立を頂点まで高めた。

工場は1986年7月にブルーバードの生産を開始し、1988年10月から欧州大陸への輸出に移った。

背景

石原俊社長は就任時に国内シェア30%奪回を掲げたが挫折し、第2次石油危機後は日本車輸出の急増が通商摩擦を招いて欧米が保護貿易に傾いた。完成車輸出の限界を破るには現地生産以外に道はなく、日産の労使は1953年の大争議以来 『なれあい』 と評されるほど協調的で、労連会長・塩路一郎氏が工場管理や合理化に強い発言力を持っていた。

内容

1981年1月に打ち出した初計画は、エンジン生産を含む一貫生産で年産20万台、投資は約1000億円という構えだった。3年を費やした企業化調査を経て1984年2月1日に発表した計画は、まず約200億円で年産2万4000台のノックダウン工場を建設し、1987年までに年産10万台の一貫生産へ移るかどうかを判断する段階方式へ組み替えられていた。

英国政府には一貫生産の開始時に現地調達率60%、フル生産時に80%を約束した。第1段階はいつでも撤退できる"実験工場"で、現地法人の社長に就任した土屋利昭氏は 『要は部品をうまく買って、販売をうまくやることだ』 と、成否を分ける論点を部品調達と販売に絞っていた。

含意

英国進出という決断自体は先見的だった。工場は1986年7月に生産を開始し、現地調達率は1988年1月に約束の60%へ届き、10月末には70%を超えた。同月からは欧州大陸への輸出も始まっている。

一方でこの決断は労使政治の火種となり、社員のモラールを損なった。塩路会長の退任と久米体制の 『会社は会社らしく、組合は組合らしく』 で労使関係は転換したものの、決定を実らせる実行力の弱さと、なれあい労使という構造課題は後の経営危機へ持ち越された。

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筆者の見解
筆者の見解

決断は簡単、問題は「フォロー」

この決断は、大型投資というより退路を残した実験だったと思われる。1981年に掲げた一貫生産・約1000億円の構想は、3年の企業化調査を経て、まず約200億円で年産2万4000台のノックダウン工場を建設するところまで縮んだ。後に『戦略的』と評される進出の実体は、英国で乗用車が採算に乗るかを確かめる賭けであり、日産自身が第1段階をいつでも撤退できる設計にしていた。それでもこの慎重な一歩は国内で空洞化の象徴と受け取られ、唐突な進め方が役員の亀裂と労使対立を呼び込んで、攻めの一手が社員のモラールを削ぐ結果を招いた。踏み出した幅と、社内が払った代償とが釣り合っていない。

英国進出は決断としては正しく、そして早かった。しかし、なれあい労使という構造と、決定を貫く実行力の弱さは、この一件では克服されなかった。それらの課題は、座間工場の閉鎖に着手する辻義文体制、そして外資の規律で聖域なき再建を断行するゴーン体制という、より痛みを伴う次の決断へと持ち越されていった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

業績の推移
進出の条件

進出の条件

科目 概要 備考
現地法人 英国日産自動車製造会社 1984年2月設立。NMUK と呼ばれ、当初は NMMUK とも表記された
出資比率 100% 日産自動車の全額出資。2023年3月期時点も間接所有を含めて100%
所在地 イギリス タイン・アンド・ウェア州サンダーランド市ワシントン 民間飛行場の跡地300エーカー(約120万平方メートル)。栃木工場に匹敵する広さ
計画の発表 1984年2月1日 1981年1月30日に発表した初計画を、3年の企業化調査を経て組み直した
第1段階の投資額 約200億円 初計画はエンジン生産を含む一貫生産で約1000億円を投じる構えだった
第1段階の生産規模 年産2万4000台 ノックダウン生産。1984年着工、1986年生産開始の計画
第1段階の雇用 400〜500人 初計画では4000〜5000人を見込んでいた
第2段階の生産規模 年産最低10万台 一貫生産。1987年までに移行を判断し、1990年の生産開始を計画
第2段階の雇用 約2700人
第3段階 年産20万台体制 第2段階が完成した時点で、進むかどうかを改めて決める
現地調達率の約束 一貫生産の開始時60%、フル生産時80% 英国政府に対して約束した水準
授権資本 1億5000万ポンド(約340億円) 1988年時点。2023年3月期の資本金は250百万ポンド

出所:日経ビジネス 1984年10月29日号「日産英国工場、現地部品の調達で壮大な実験」(日経マグロウヒル社)/日産自動車 有価証券報告書 第124期(2023年3月期)【沿革】【関係会社の状況】

売上高と経常利益の推移(単体)

日産自動車:売上高と経常利益の推移(単体)

(億円) 売上高経常利益 備考
1979年3月期 23,0671,201
1980年3月期 27,3891,830
1981年3月期 30,1621,661 1月に一貫生産による英国進出の初計画を発表
1982年3月期 31,9871,786
1983年3月期 31,8771,543
1984年3月期 34,6011,209 1984年2月1日に英国での乗用車生産計画を発表し、現地法人を設立
1985年3月期 36,1811,482 11月にサンダーランドで工場を起工
売上高と経常利益率
売上高(億円)経常利益率(%)

出所:会社年鑑(日本経済新聞社)——日産自動車 単体

同じ問いに直面した会社

同じ問いに直面した会社

雇用の維持1977年日本精工販売会社中心の海外展開から現地生産体制へ切り替える方針の転換海外生産の立ち上げと現地の労使
1973年船井電機変動相場制移行を機とした海外工場建設と生産の国外移転為替対策と生産体制
1992年ペンタックス再建組織委員会の設置と、人員削減によらない全社コストダウン、カメラ生産の海外移管赤字体質からの脱却と雇用の維持
1986年カナデビア二度の合理化策による人員・設備の削減と生産拠点の絞り込み構造不況下の人員・設備削減
1987年住友重機械工業主力2部門を対象とした1,700人の人員削減と事業規模の縮小造船部門の縮小と雇用調整
海外進出と現地生産1985年上村工業顧客の海外移転に追随した10か国への拠点設置と、地域完結型の営業体制の構築海外展開と営業体制
1983年ダイフク現地法人を設立することによる北米市場への初めての自力進出国内需要の頭打ちと海外市場への展開
1986年宝ホールディングス焼酎が健在なうちに進めた海外酒類ブランドの取得本業のピークにおける先行的な多角化
1986年関西ペイント子会社化を起点とした、新興国を軸に据える成長路線への転換新興国市場への参入方式
1986年トヨタ自動車合弁に頼らず北米で単独現地生産へ踏み出す決断北米現地生産と貿易摩擦
参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号(日経BP社)
  • 日経ビジネス 1984年10月29日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1988年11月21日号(日経マグロウヒル社)
  • 日産自動車 社史「日産自動車社史(1985年)」
  • 日産自動車 有価証券報告書「第124期(2023年3月期)【沿革】【関係会社の状況】」

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