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英国サンダーランド進出の決断——石原俊氏と労連会長・塩路一郎氏の攻防

1984年実施

貿易摩擦下で「トヨタ追い越しの好機」と見た石原社長の英国現地生産は、なぜ国内空洞化を警戒する塩路労組との対立を頂点まで高めたのか

時期 1984年2月
意思決定者 石原俊(社長)
論点 海外現地生産の決断と労使政治
概要
1980年代前半、石原俊社長のもとで日産が英国での乗用車現地生産に踏み切った経営判断。貿易摩擦で完成車輸出の壁が高まるなか現地生産を「トヨタを追い越す好機」と位置づけたが、その進め方は国内の空洞化を警戒する自動車労連・塩路一郎会長との労使対立を頂点まで高めた。
背景
石原社長は就任時に国内シェア30%奪回を掲げたが挫折し、第2次石油危機後は日本車輸出の急増が通商摩擦を招いて欧米が保護貿易に傾いた。完成車輸出の限界を破るには現地生産以外に道はなく、日産の労使は1953年の大争議以来「なれあい」と評されるほど協調的で、労連会長・塩路一郎氏が工場管理や合理化に強い発言力を持っていた。
内容
石原社長は現地生産を国際化とトヨタ追撃の好機ととらえ、1980〜81年に米国・欧州各地の拠点を矢継ぎ早に具体化した。英国乗用車工場は「戦略的な進出」と後に評価された一方、発表が唐突であったため役員間に亀裂が生じ、当初は慎重だった川又克二会長や塩路労組の反対と重なって、労使対立が英国問題で頂点に達した。
含意
英国進出という決断自体は先見的だったが、労使政治の火種となり社員のモラールを損なった。塩路会長の退任と久米体制の「会社は会社らしく、組合は組合らしく」で労使関係は転換したものの、決定を実らせる実行力の弱さと、なれあい労使という構造課題は後の経営危機へ持ち越された。
筆者の見解

決断は簡単、問題は「フォロー」

この経営判断の核心は、決断そのものの是非よりも、決断を実らせる過程にある。貿易摩擦のなかで完成車輸出の限界を見すえ、摩擦の激しい欧州市場へ現地企業として根を下ろす英国進出は、後にも「戦略的」と評された先見的な一手であった。だが、日産にはその決断を静かに実行に移す組織の土壌がなかった。長らく続いた「なれあい」の労使構造と、工場管理から合理化にまで及ぶ労連会長・塩路一郎氏の権勢を前に、唐突な進め方は役員の亀裂と労使対立を呼び込み、攻めの一手が社員のモラールを削ぐ結果を招いた。

後年、社長となった塙義一氏は、この教訓を「デシジョン(決定)は簡単だが、問題はフォローがうまくいくかどうかだ」と言い、「石原が種をまいたのは非常に早かった」が、そのフォローが不十分であったと述べている。英国進出は決断としては正しく、そして早かった。しかし、なれあい労使という構造と、決定を貫く実行力の弱さは、この一件では克服されなかった。それらの課題は、座間工場の閉鎖に踏み込む辻義文体制、そして外資の規律で聖域なき再建を断行するゴーン体制という、より痛みを伴う次の決断へと持ち越されていった。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

「シェア30%奪回」の挫折と、輸出立国の限界

石原俊氏は1977年に社長へ就くと、就任早々に「国内シェア30%奪回」の旗を掲げ、全国を行脚して販売店の経営者とシェア向上策を話し合った。しかし、この立て直しは長続きしなかった。1978年後半からの第2次石油危機を機に、高性能・省エネの日本車が欧米で爆発的に売れ、その輸出急増が通商摩擦の引き金となって、欧米先進国は一斉に保護貿易へ走ったからである[1]

管理貿易が定着すれば、完成車の輸出はいずれ難しくなる。この壁を打ち破り、なお成長を続けるには現地生産のほかに手はない——輸出に多くを頼ってきた日産にとって、海外での現地生産は選ぶというより迫られた道であった。折からの円安と対米輸出自主規制のもとで、日産は米国市場だけで巨額の利益を上げ、その大半を海外戦略と国内販売につぎ込んでいた[2]

「なれあい」労使と、労連会長・塩路一郎氏の権勢

日産を語るうえで、労使関係は避けて通れない。日産の労使は1953年の大争議以来、「なれあい」と評されるほど協調的で、1966年のプリンス自動車工業との合併が円滑に進んだのも組合の協力によるところが大きかった。会社はその見返りに組合へ大きな権限を与え、工場の管理はもとより、生産性の向上や合理化までもが組合主導で進められた。その中心にいたのが、自動車労連会長・塩路一郎氏であった[3]

決断

石原氏、現地生産を「トヨタ追い越しの好機」と見る

石原社長は、迫られた現地生産をむしろ攻めの好機ととらえた。それを「国際化をはかる絶好のチャンス」と位置づけると同時に、世界規模で見れば「トヨタを追い越す千載一遇のチャンス」と見た。当時、ライバルのトヨタは海外進出に二の足を踏んでおり、ここで一気に先行すれば差をつけられる。そこで1980年から81年にかけ、米国のトラック工場を皮切りに、スペインやイタリア、メキシコ、西独との協力、そして英国の乗用車工場建設まで、国際戦略を矢継ぎ早に具体化していった[4]

数ある海外展開のなかでも、英国進出には確かな戦略があったと後の日経ビジネスは評している。米国工場が完成車輸出を補う戦術の域にとどまったのに対し、英国は摩擦の激しい欧州市場に現地企業として根を下ろす戦略的な一手であった。かねて対英進出に慎重だった川又克二会長も、1983年2月末には進出の推進へと転じ、欧州事務所長として赴任する後藤光弥氏に「あのプロジェクトにかめ」と、進出への関与を指示している。サッチャー英首相の熱意も、進出を後押しした[5][6]

唐突な発表が招いた役員間の亀裂と労使対立

しかし、戦略の正しさと進め方の巧拙は別であった。英国進出は発表があまりに唐突であったため、役員のあいだに亀裂を生み、これが労使対立を引き起こした。国内の空洞化を警戒する塩路会長の率いる労働組合と、海外戦略を推し進める石原社長との対立はエスカレートし、日産の労使関係は英国問題で最悪の頂点に達した。後年、社長となった塙義一氏は、当時の混乱をこう振り返っている[7][8]

塙氏は、石原社長が英国新工場の建設を打ち出したところ組合が反対し、会社側と組合側の双方から自らに都合のよいデータが流れてきて、どちらの信頼性も判断がつかなかったと述べる。しかも当時は川又克二会長も進出に反対しており、社員も役員も揺れた。組合か会社かで迷う社員を抱えた企業と、労使が一体で進む企業とでは、活力に差が出る——労使対立の代償を、塙氏はそう位置づけている[9]

結果

モラール低下という代償、そして労使関係の転換

英国進出そのものは戦略的な一手として実行に移されたが、その進め方が残した傷は小さくなかった。日経ビジネスは、日産が凋落した原因を、国内販売のシェア低下、拙速すぎた海外戦略、商品開発力のレベルダウン、そして労使対立が複雑にからみ、最終的に社員の勤労意欲をそいだことに求めている。攻めの決断が、逆に社内の求心力を弱める皮肉な結果を招いた[10]

労使関係は、その後に転機を迎える。1986年に塩路一郎氏が自動車労連会長の座を退き、清水春樹副会長が昇格した。新執行部は同年12月に会社側と新たな労使関係を目指す包括協定を結び、労使が経営問題を協議してきた中央経営協議会は中央労使協議会へと名を改めた。「会社は会社らしく、組合は組合らしく」——石原氏の後を継いだ久米豊社長が掲げたこの言葉に、なれあいから対等へと引き直された労使の関係が表れている[11]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号「進化の研究 日産自動車 海外傾斜が国内『空洞化』生む」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号「久米イズムで『流れ』は変わるか」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1984年1月23日号「日本人ビジネスマン 後藤光弥氏(日産自動車欧州事務所長)」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1998年2月16日号「編集長インタビュー 塙義一氏(日産自動車社長)」(日経BP社)