座間工場の車両生産中止と「最適成長企業」への転換
1995年実施戦後初の国内組立工場閉鎖に踏み込んだ辻義文の自前再建は、なぜ道半ばに終わったのか
- 概要
- 1993年、バブル崩壊後の販売不振と急速な円高で経常赤字へ転落した日産自動車が、辻義文社長の主導で座間工場の乗用車生産を中止し、国内の年産能力を270万台から230万台規模へ削減した経営判断。組立工場の閉鎖は戦後の日本の自動車産業で初めてのことであった。
- 背景
- 1980年代の拡大路線の反動で国内販売が低迷し、1ドル80円台に迫る円高が輸出採算を圧迫した。1993年3月期には経常赤字へ転落し、久米豊から経営を引き継いだ辻社長は日産を「詰めの甘い会社」と自己批判して、つらい決断を辞さない再建に臨んだ。
- 内容
- 1993年2月に座間工場の車両生産中止を発表し、サニーを九州、プレセアを村山へ移管した。車種と部品の整理(ローレルではハンドルを86種類から10種類へ)を進める一方、フルラインメーカー体制は堅持し、「最適成長企業」への転換を掲げた。
- 含意
- 「聖域」とされた国内組立工場の閉鎖に踏み込んだ点は画期的であったが、フルライン堅持と系列部品メーカーへの原価低減要求という枠内にとどまり、1995年3月期も過去最大の経常赤字を計上した。自前再建の限界は、1999年のルノーとの資本提携へと連なっていく。
聖域に手をつけても、枠組みは変えられなかった
座間工場の車両生産中止は、国内雇用という「聖域」に最大手が初めて手をつけた決断であり、その象徴性は大きかった。辻社長が日産を「詰めの甘い会社」と総括し、ムダの排除と能力削減に踏み込んだことは、拡大を当然としてきた経営からの明確な転換であった。問題分析の鋭さと、つらい決断を引き受ける覚悟は、後のゴーン改革にも通じる再建の出発点だったとみることができる。
もっとも、この再建はフルライン堅持と系列依存という従来の枠組みの内側にとどまった。品ぞろえを絞らずに能力だけを削れば、固定費の重さは残る。足りない利益を系列の原価低減で埋める手法は、独立企業である部品メーカーの体力を削り、関係の軋みを生んだ。結果として1995年3月期も赤字は止まらず、抜本的な策——資本提携や系列そのものの見直し——は、1999年に迎えるルノーとカルロス・ゴーンの手へと持ち越されることになる。聖域に手をつけてなお十分でなかったという事実が、次の決断の射程をかえって広げた。
Yutaka Sugiura, 2026年6月
背景
拡大路線の反動と「詰めの甘い会社」
1980年代、日産自動車は内外で生産能力の拡張を続けたが、バブル崩壊後の国内販売の低迷と急速な円高がその拡大路線の前提を崩した。輸出に多くを頼る同社にとって円高の痛手は深く、為替が1円動くごとに約50億円の利益が揺らぐ収益構造になっていた。1992年6月に久米豊の後を継いで社長に就いた辻義文は、生産畑を歩んできた「物作りのプロ」であり、強引な拡販や部品メーカーを犠牲にした合理化をやめ、身の丈に合った「最適成長企業」への転換を掲げた[1]。
1993年3月期、日産は経常赤字へ転落した。1980年代に蓄えた国内外の設備が、需要の縮小と円高の二重苦のなかで一転して重荷となり、生産拠点の稼働率は低下した。辻社長は「つらい決断も下していかなければならない。今やらないと、私が社長在任中に業績が回復することはない」との覚悟を語り、拡大を前提に積み上げてきた経営からの転換を急いだ[2]。
決断
座間工場の車両生産中止という「聖域」への一歩
1993年2月、辻社長は座間工場(神奈川県)の乗用車車両生産を中止する方針を発表した。これに伴い国内の年産能力を270万台から230万台規模へと40万台削減し、座間で生産していたサニーを九州工場へ、プレセアを村山工場へ移すこととした。終身雇用と国内雇用を重んじる日本の自動車産業にとって、組立工場の閉鎖は長らく踏み込むことのできない「聖域」であり、最大手の一角がそこへ手をつけた点に当時の危機の深さがあらわれていた[3]。
ただし辻社長は、座間の閉鎖を再建の全体像のなかでは限られた一手と位置づけた。社会的な注目は大きいが、それだけで収益が好転するわけではないとして、むしろ日々の車種や部品の作り込みに潜むムダの排除を本丸とみていた。たとえばローレルでは、形状や材料・色の組み合わせで86種類にのぼっていたハンドルを10種類へ絞り込んだ。一方で、車種や部品を整理してもフルラインメーカーであることはやめないと明言し、二桁のシェアを保つための品ぞろえは手放さなかった[4][5]。
結果
系列頼みの黒字計画と自前再建の限界
1995年3月22日、1965年の稼働以来30年にわたり車両を送り出してきた座間工場の車両生産が終了した。しかし能力削減だけでは赤字体質は止まらず、1995年3月期に日産は過去最大の経常赤字を計上し、営業損益は3期連続の赤字となった。1ドル80円台に迫る円高が、合理化で生み出した利益を相殺していった[6]。
翌1996年3月期の黒字転換に向けて日産が頼ったのは、系列の部品メーカーであった。1995年、日産は部品・素材メーカー193社で構成する系列組織「日翔会」に対し、前年度比3.5%の原価低減を要請した。同時期のトヨタの要求が1.5%前後とされたのに比べて要求の幅は際立っており、二年続きの値下げ要請に、独立企業である部品メーカーの側からは反発と不信が表面化した。自社内の合理化で出せる利益を出し切ったのちに、なお不足分を系列に求める構図は、自前の再建がすでに限界に近づいていたことを示していた[7][8]。
- 日経ビジネス 1992年5月4日号「辻義文氏[日産自動車]登場 最適成長企業目指す『物作りのプロ』」(日経BP社)
- 日経ビジネス 1993年5月17日号「編集長インタビュー 辻義文氏[日産自動車社長]詰めの甘さ改めムダを整理 フルライン体制は堅持する」(日経BP社)
- 日経ビジネス 1995年6月5日号「3期連続の営業赤字から脱出図る日産自動車 部品メーカー頼みの黒字計画」(日経BP社)
- 日本経済新聞 1995年3月21日