日産自動車 座間工場の生産中止 主力拠点の車両生産打ち切りと、規模の拡大を追わない事業構造への転換
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1993年2月、日産自動車は座間工場の車両生産中止を中核とする合理化計画を発表した。国内の年産能力を270万台から230万台へ削り、5,000人を減らして、年産200万台で利益が出る体制を目指す内容である。組立工場の閉鎖は日本の自動車産業で初めてのことだった。
座間で生産していたサニーは九州工場へ、プレセアは村山工場へ移し、75%まで低下していた他工場の稼働率を90%へ引き上げる。車両生産が実際に終わったのは1995年3月で、1965年5月の完成から30年だった。
- 背景
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1980年代の拡大路線の反動で国内販売が低迷し、1992年度の国内生産台数は直近のピークだった1990年度の238万台を35万台下回った。1ドル80円台に迫る円高が輸出採算を圧迫し、円が1円進むごとに約50億円の利益が消えた。1993年3月期は経常赤字へ転落する。久米豊氏から経営を承継した辻義文社長は 『つらい決断も下していかなければならない。今やらないと、私が社長在任中に業績が回復することはないだろうと思います』 と、痛みを伴う整理に着手した。
- 内容
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拠点の集約と並んで、車種と部品の整理が進んだ。1993年1月にモデルチェンジしたローレルのハンドルは86種類から10種類へ減った。形状・材料・色の掛け合わせで増え続け、実際に生産したのは十数種類にすぎなかった。1992年5月に生産を始めながら稼働率70%にとどまっていた九州工場にはサニーが移り、最新鋭設備がフル稼働へ向かう。
一方で品ぞろえは絞らなかった。 『車種や部品を削減しても、フルラインメーカーをやめる考えはありません』 のが辻義文社長の立場で、フルライン体制は維持された。座間工場の閉鎖についても、 『座間の問題は改革の一部に過ぎません。社会的な影響が大きいため目立ちますが、これだけで収益が改善するわけではない』 。
- 含意
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聖域とされた国内組立工場の閉鎖に着手した点は画期的だったが、フルライン堅持と系列部品メーカーへの原価低減要求という枠内にとどまった。1995年3月期は610億円の経常赤字・748億円の営業赤字で、営業赤字は3期連続となる。
翌期の黒字転換のために、日産は取引先193社でつくる日翔会へ前年度比3.5%の原価低減を求めた。同時期のトヨタ自動車の要求は1.5%前後である。自前再建の限界は、1999年のルノーとの資本提携へと連なっていく。
いつ何が起きたか 5件
筆者の見解
聖域に手をつけても、枠組みは変えられなかった
座間工場の車両生産中止は、国内雇用という"聖域"に最大手が初めて手をつけた決断であり、その象徴性は大きかった。問題分析の鋭さと、つらい決断を引き受ける覚悟は、後のゴーン改革にも通じる再建の出発点だったのだろう。
もっとも、この再建はフルライン堅持と系列依存という従来の枠組みの内側にとどまった。品ぞろえを絞らずに能力だけを削れば、固定費の重さは残る。足りない利益を系列の原価低減で埋める手法は、独立企業である部品メーカーの体力を削り、関係の軋みを生んだ。結果として1995年3月期の経常赤字は610億円まで膨らみ、抜本的な策——資本提携や系列そのものの見直し——は、1999年に迎えるルノーとカルロス・ゴーン氏の手へと持ち越されることになる。聖域に手をつけてなお十分でなかったという事実が、次の決断の射程をかえって広げた。
Yutaka Sugiura, 2026年6月
業績の推移
合理化計画の条件
合理化計画の条件
| 科目 | 概要 | 備考 |
|---|---|---|
| 対象の拠点 | 座間工場(神奈川県) | 1965年5月完成。トラックの専門工場として発足し、のちに乗用車を生産した |
| 閉鎖の時期 | 1995年春 | 車両生産の中止は1995年3月。稼働開始から30年での閉鎖となった |
| 人員削減 | 5,000人 | 座間・村山・栃木の3工場で続けていたライン休止と昼夜2交代の見直しに続く措置 |
| 生産の移管先 | サニーは九州工場、プレセアは村山工場 | 九州工場は1992年5月に生産を開始しながら稼働率70%にとどまっていた |
| 国内の生産能力 | 年270万台から230万台へ | 車種の整理と部品点数の削減を併せて進める |
| 目指す損益分岐点 | 年産200万台で利益が出る体制 | 1992年度の国内生産台数は1990年度のピーク238万台を35万台下回っていた |
| 他工場の稼働率 | 75%から90%へ | 九州工場をフル稼働に持ち込み、最新鋭設備を活用して生産効率を高める |
| 維持する体制 | フルラインメーカー | 弱い商品分野は他社からの供給を受ける。2桁のシェア維持を条件に置いた |
出所:日経ビジネス 1993年3月8日号「日産の工場閉鎖・集約化、他社にも波及へ」(日経BP社)/日産自動車 有価証券報告書【沿革】
連結業績の推移
日産自動車:連結業績の推移
| (億円) | 売上高 | 当期純利益 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 1992年3月期 | 64,179 | 1,012 | 連結の収録はこの期から始まる |
| 1993年3月期 | 61,975 | △559 | 辻義文氏が社長に就任した期。合理化計画を発表し、経常損益も赤字へ転落した |
| 1994年3月期 | 58,008 | △869 | |
| 1995年3月期 | 58,341 | △1,660 | 座間工場の車両生産が終わった期。経常赤字610億円・営業赤字748億円 |
| 1996年3月期 | 60,391 | △884 | |
| 1997年3月期 | 66,588 | 777 | 4期ぶりに最終黒字へ戻る |
| 1998年3月期 | 65,646 | △140 |
出所:会社年鑑(1992年3月期〜1996年3月期の連結損益) / 日産自動車 有価証券報告書(1997年3月期・1998年3月期の連結損益)
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参考文献
- 日経ビジネス 1992年5月4日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1993年3月8日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1993年5月17日号(日経BP社)
- 日経ビジネス 1995年6月5日号(日経BP社)
- 日本経済新聞 1995年3月21日
- 日産自動車 有価証券報告書「【沿革】」