← 日産自動車の年表

「構造不況企業」からの脱却——久米豊の企業文化刷新と欧州現地生産

1985年実施

「技術の日産」はなぜ50年ぶりの営業赤字に沈み、久米豊は財務より先に「会社の文化」へ手を入れたのか

時期 1985年7月
意思決定者 久米豊(社長)
論点 企業文化の刷新とグローバル生産
概要
1985年に社長へ就いた久米豊が、円高と国内シェアの低下で50年ぶりの営業赤字に沈んだ「技術の日産」を立て直すため、財務のリストラより先に企業文化の刷新(久米イズム)に踏み込み、あわせて貿易摩擦に対応する欧州現地生産を進めた一連の経営判断。
背景
1ドル140円台の円高と対米貿易摩擦のなか、日産は設備・人員の過剰、国内販売シェアの25%割れ、系列販売店の累積赤字を抱え、1986年9月中間期に戦後の混乱期を除き50年ぶりとなる営業赤字へ転落した。連結純利益ではホンダに抜かれて業界3位へ後退していた。
内容
久米社長は、社内ばかりを見る官僚的な「ヒラメ組織」を否定し、"さん"付けの呼称や能力給の導入、労使関係の再定義といった企業文化の刷新を進めた。同時に、貿易摩擦の解消を主眼に英国での現地生産を本格化させ、現地経営と高い現地調達率による「グローカル」企業を志向した。
含意
パルサーのカー・オブ・ザ・イヤー受賞やBe-1のヒットで社内の自信は回復し、英国の現地生産はEC統合に先行する布石となった。しかし設備・人員の過剰や系列の重い構造には踏み込みきれず、文化と意識を先に変える改革の限界が、1990年代の経営危機へと持ち越された。
筆者の見解

文化を変えても、過剰は消えない

久米豊の改革の特徴は、財務のリストラに先んじて「会社の体質・文化」へ手を入れた点にある。お客より社内を向く体質を断ち、呼称や賃金、労使の関係から作り替えるという順序は、数字の手術を急ぎがちな再建のなかでは異質であった。貿易摩擦を見すえて早くに英国へ出て、現地経営と高い現地調達率で根を下ろす「グローカル」の発想も、後の時代の常識を先取りするものであった。意識と文化から変えるという選択は、それ自体としては先見的だったとみることができる。

もっとも、文化を変えても、積み上がった過剰そのものは消えなかった。70万台を超える生産能力の余り、5万人を超える人員、系列販売店の累損という重い構造は、ソフトの改革では届かない領域に横たわっていた。社内の自信が戻り、商品が当たり、下期の営業損益が均衡へ戻っても、構造不況体質の根は残った。文化を変えるだけでは過剰は消えない——この事実が、座間工場の閉鎖に踏み込む辻義文体制、そして聖域なき再建を外資の規律で断行するゴーン体制という、より痛みを伴う次の決断を準備していった。

Yutaka Sugiura, 2026年6月

背景

「技術の日産」を蝕んだ構造不況体質

1980年代後半、1ドル140円台に進んだ円高と対米貿易摩擦が、輸出に多くを頼る日産の収益を直撃した。スカイラインなどの名車を生み「技術の日産」と呼ばれた超優良企業は、いつしか設備と人員の過剰を抱える体質に変わっていた。生産能力は年295万台に達していたが、1986年の実生産は224万台にとどまり、国内販売シェアは25%を割り込み、系列の販売店には4000億〜5000億円規模の累積赤字が積み上がっていた[1]

体質の弱まりは、決算にもあらわれた。1986年9月の中間決算で、日産は財テクや株式売却益によって経常段階では386億円の黒字を保ったものの、本業の営業損益は197億円の赤字となった。完成車メーカーの本業が赤字に沈むのは、戦後の混乱期を除けばおよそ50年ぶりであった。連結純利益でも、1986年3月期の356億円はホンダの1465億円に遠く及ばず、日産は業界3位へと後退していた[2][3]

決断

財務より先に「会社の文化」を変える

1985年7月に社長へ就いた久米豊は、危機の根を数字よりも組織の体質に見た。お客より社内の顔色をうかがう官僚的な体質を「ヒラメ組織」と呼び、これを壊すことから着手した。役職での呼び合いを改めて"さん"付けを広げ、本給の4割を能力給に振り替え、労使の関係も「会社は会社らしく、組合は組合らしく」と引き直した。販売現場を知るためのセールス出向制度も拡げ、財務のリストラに先んじて企業そのものの文化を作り替えようとした[4][5]

文化の刷新と並んで久米社長が進めたのが、欧州での現地生産であった。円高への対応を主眼とする後発のメーカーとは異なり、日産が早くに英国へ出たねらいは貿易摩擦の解消にあったと久米社長は説明する。現地の人が経営する「英国の会社」として根を下ろし、部品の現地調達率を1990年に80%まで高め、1992年のEC統合では規格や法規の統一を先取りのメリットに変える——地球規模で考えつつ地域に根ざす「グローカル」の発想が、その戦略を貫いていた[6][7]

結果

自信は戻ったが、過剰は残った

改革の手応えは、まず商品とムードにあらわれた。1986年から87年にかけて、四輪駆動を備えたパルサーが日産で初めてカー・オブ・ザ・イヤーを受け、1万台限定のBe-1は1987年1月の発売から約1カ月で完売した。久米イズムの号令のもとで現場のコスト意識も働き、1987年3月期には500億円のコストダウンを達成して下期の営業損益はほぼ均衡へ戻った。英国の現地生産も、高い現地調達率を掲げてEC統合に先んじる欧州事業の土台となっていった[8]

しかし、文化と意識の刷新だけでは消せないものが残った。年295万台の生産能力に対して実生産は224万台にとどまり、70万台を超える過剰能力と5万7000名規模の人員、そして系列販売店の累積赤字という重い構造は手つかずのまま据え置かれた。販売現場の累積赤字について、東京日産自動車販売の泉勝社長は、その大半が赤字店であることはメーカーにも責任があると率直に語っている。久米改革の先進性にもかかわらず、工場と雇用と系列という日本的経営の中核に踏み込む役回りは、1993年の座間工場閉鎖を決断する辻義文体制へと持ち越された[9]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号「進化の研究 日産自動車『構造不況企業』脱却のシナリオ」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号「『不沈艦』を取り巻く明と暗 赤字経営へ屈辱の転落」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号「久米イズムで『流れ』は変わるか 久米豊社長に聞く」(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号「編集長インタビュー 久米豊氏(日産自動車社長)『日産の古い常識は害になる』」(日経BP社)