日産自動車 企業文化の刷新 官僚体質の解体と労使関係の結び直しによる構造不況体質からの脱却

更新:

時期 1985年6月
当時の社長 久米豊
論点 官僚体質の解体と労使関係の立て直し
何をなぜ決めたか
概要

1985年6月に社長へ就任した久米豊氏が全社員へ掲げた言葉は「流れを変えよう」である。重点課題は商品開発力と国内販売体制の強化、そして海外事業の推進の3つだった。着手したのは財務のリストラではなく、会社の体質そのものだった。

上司を「さん」づけで呼ぶ社内運動から、本給の4割を能力給へ切り替える賃金体系の組み替え、労使関係の結び直しまでが2年のあいだに動いた。フレックスタイム制の導入や女子社員の制服廃止も、硬直した上下関係に風穴をあける試みだった。

背景

1ドル140円台の円高と対米貿易摩擦のなかで、日産は設備と人員の過剰を抱えていた。1986年9月中間期の経常損益は財テクと株式売却益で386億円の黒字を保ったが、営業損益は197億円の赤字となる。戦後の混乱期を除けば約50年ぶりの営業赤字だった。連結純利益では1983年度に本田技研工業へ抜かれ、1986年3月期は日産の356億円に対しホンダが1465億円である。

1977年に社長へ就任した石原俊氏も「社風刷新」を掲げたが、業績が順調なうちは危機感が広がらず挫折した。

内容

まず壊すべき対象とされたのが官僚体質である。 『これまでの日産はお客様より社内の方を見ていた。上に認められることが最大の仕事になり、みんなが上を向いていた。まずこの"ヒラメ組織"を壊さなければならない』 という認識のもと、社内には「活発、本音、ざっくばらん」と記したビラが貼られ、会議中も上司を「さん」づけで呼ぶ運動が広がった。ただし 『僕がいっているのは上司を"さん"づけで呼ぶような自由闊達な社風をつくろうということで、形式的に"さん"付けで呼べ、といっているわけではない』 という歯止めが同時に置かれている。1985年8月には、社内で客を見かけたら知らない人でもあいさつをする「さわやか応対運動」が始まった。

1987年春には本給の4割が能力給へ変わり、残る6割だけが年功で昇給する形になる。労使では1986年12月に包括労使協定を締結し、中央経営協議会を中央労使協議会へ改めた。

含意

パルサーが日産初のカー・オブ・ザ・イヤーを受け、1987年1月発売の限定車Be-1が約1カ月で完売すると、社内の自信は戻った。1987年3月期には500億円のコストダウンを達成し、下期の営業損益は均衡へ戻る。 『企業文化を本当に変えられるのか。それはやってみなければ、わからない。最近は私のいっていることがわかってきてくれたと思うが、仕事自体のやり方はそう変わっていないし、ミドル層の意識もまだ追いついてきていない』 というのが久米豊社長自身の見立てだった。

もっとも、設備と人員の過剰、系列販売店の累積赤字という構造には届かなかった。販売会社へのセールス出向は1987年10月に5,000人へ達し、人件費の一部を販売店側が負担する形になっている。過剰そのものを削る決断は、1993年2月の座間工場の車両生産中止の決定まで持ち越された。

いつ何が起きたか 6件
筆者の見解
筆者の見解

文化を変えても、過剰は消えない

久米豊氏の改革の特徴は、財務のリストラに先んじて"会社の体質・文化"へ手を入れた点にある。お客より社内を向く体質を断ち、呼称や賃金、労使の関係から作り替えるという順序は、数字の手術を急ぎがちな再建のなかでは異質であった。10年前に石原俊氏が掲げた社風刷新が挫折したのは、業績が順調で社員の危機感が薄かったからだった。営業赤字という屈辱をそのまま梃子に使えた点で、久米豊氏の改革は前任者より有利な位置から始まっていたとみられる。

もっとも、文化を変えても、積み上がった過剰そのものは消えなかった。生産能力の余り、5万人を超える人員、系列販売店の累損という重い構造は、ソフトの改革では届かない領域に横たわっていた。販売会社へ5,000人を送り込むセールス出向にしても、出向者の賃金の多くを販売店側が負担する仕組みで、本体の負担を系列の外へ押し出す色が濃い。社内の自信が戻り、商品が当たり、下期の営業損益が均衡へ戻っても、構造不況体質の根は残った。文化を変えるだけでは過剰は消えない——この事実が、座間工場の閉鎖に着手する辻義文体制、そして聖域なき再建を外資の規律で断行するゴーン体制という、より痛みを伴う次の決断を準備していった。

Yutaka Sugiura, 2026年6月

業績の推移
企業風土改革の内容

企業風土改革の内容

科目 概要 備考
掲げた言葉 流れを変えよう 1985年6月の社長就任にあたり全社員へ訴えた
重点課題 商品開発力と国内販売体制の強化、海外事業の推進 久米豊社長が自ら挙げた3つの柱
接客運動 さわやか応対運動(1985年8月開始) 社内で客を見かけたら知らない人でもあいさつをする。総務部が社内を巡回した
呼称 会議中も上司を「さん」づけ 「活発、本音、ざっくばらん」と記したビラを社内の至るところに掲示した
賃金体系 本給の4割を能力給へ 1987年春に実施。残る6割は年功で昇給し、4割は仕事の質に応じて上下する
労使協定 1986年12月に包括労使協定 塩路一郎氏の退任後に自動車労連会長へ昇格した清水春樹氏らの新執行部と結んだ
労使機関 中央経営協議会を中央労使協議会へ改称 労使で経営問題を事業協議してきた枠組みを改めた
セールス出向 販売会社へ5,000人(1987年10月) 1985年に始めた3S制度。出向期間は当初の2年から原則3年へ延長した
勤務体制 村山工場で3交代の時間帯を前倒し 2週間試したところ深夜作業は減ったが、午前6時出勤に無理があり実施を止めた
併せて実施したもの フレックスタイム制の導入と女子社員の制服廃止 いずれも他社では実施済みで、硬直した上下関係に風穴をあける狙いがあった

出所:日経ビジネス 1987年4月27日号「久米イズムで『流れ』は変わるか」(日経マグロウヒル社)

単独業績の推移

日産自動車:単独業績の推移

(億円) 売上高経常利益当期純利益 備考
1981年3月期 30,1621,661859 前期の1980年3月期に計上した経常利益1830億円が過去最高だった
1982年3月期 31,9871,786861
1983年3月期 31,8771,543955
1984年3月期 34,6011,209705
1985年3月期 36,1811,482743
単独売上高と経常利益率
売上高(億円)経常利益率(%)

出所:会社年鑑(1981年3月期〜1985年3月期の単独損益)

同じ問いに直面した会社

同じ問いに直面した会社

雇用の維持1992年ペンタックス再建組織委員会の設置と、人員削減によらない全社コストダウン、カメラ生産の海外移管赤字体質からの脱却と雇用の維持
1993年日本アイ・ビー・エム三次にわたる人員と事業の絞り込みによる収益構造の立て直し人員削減・分社と再統合・サービスへの転換
2017年三陽商会Sanyo Innovation Plan 2017 の始動と、2年で修正に追い込まれた定量計画主力ブランド喪失後の事業構造改革と経営再建
1978年オークマ大隈孝一社長の引責退陣と、大隈武雄社長への交代経営責任と労使の信頼回復
1971年コニカ電子複写機の投入に合わせた八王子工場のカメラからの転換写真材料依存からの脱却と第二の柱づくり
経営再建1989年日揮ホールディングス円高危機で傷んだ収益の立て直しを狙った仕入れ先の組み替え円高への構造対応と海外調達改革
1989年ライオン育毛剤のデータねつ造をめぐる小林敦社長による経営危機の総括育毛剤事件への対応と収益体質の転換
1990年SUBARU独自の流儀を貫いた指揮による本体黒字化への立て直し経営再建と量産志向からの転換
1983年ヤマハ発動機シェア争いの代償として受け入れた、年産半減までの縮小再建過剰生産の清算と二輪車事業の再建
1992年ローム半導体不況下の受注整理と生産改革収益体質と受注構造
参考文献
出典・参考
  • 日経ビジネス 1987年4月27日号(日経マグロウヒル社)
  • 日経ビジネス 1989年2月27日号(日経BP社)

免責事項およびポリシー