外交営業の否定(1995年・松井証券の決断)

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広告・電話営業への転換、株式保護預り手数料の無料化1990年代前半、松井証券が営業マンによる顧客訪問をやめ、新聞広告で個人投資家を集めて電話で取引する方式へ転換した経営判断。1996年4月には、業界がほぼ横並びで年3000円を徴収していた株式の保護預り料を無料にした。日本証券業協会の拒否を、3年間100円という値づけでかわしている。

何をなぜ決めたか:広告・電話営業への転換、株式保護預り手数料の無料化

概要

1990年代前半、松井証券が営業マンによる顧客訪問をやめ、新聞広告で個人投資家を集めて電話で取引する方式へ転換した経営判断。1996年4月には、業界がほぼ横並びで年3000円を徴収していた株式の保護預り料を無料にした。日本証券業協会の拒否を、3年間100円という値づけでかわしている。

背景

1986年ごろ、人件費を圧縮するため給与体系を変え、営業マンの歩合給を大幅に削減した。これに反発して営業部長・次長・課長らエース級の5人が退社し、重要な顧客も去って、従来の営業部隊は壊滅した。広告営業は前向きな理由からではなく、その穴を埋める苦肉の策として始まった。

日本郵船から転じた松井道夫氏は1987年に入社し、1990年に常務取締役営業本部長となって営業部隊を率いた。

内容

株を薦めない広告営業へ切り替えたのは1991年で、信用取引の委託保証金を大手の最低1000万円に対し200万円とし、保護預り手数料を年3000円から1000円へ下げた。

1996年1月に無料にしたいと協会へ打診したところ、"徴収しないことは許可できない"という回答が返ってきた。手数料は2月から3年間100円とされ、3月下旬、協会は他の手数料へ波及させないことを条件に、保護預り手数料をゼロにすることを認めた。4月に無料化を実施し、1997年2月には店頭登録株式と転換社債の委託手数料を半額にした。

含意

同業者は当初こうした施策を冷笑したが、投資家の支持が集まるにつれて追随した。営業マンをなくすことだけは、他社が後を追わなかった。1998年5月にはインターネット取引"ネットストック"を始め、電話で始めた非対面の取引をネットへ広げた。

のちに松井道夫社長は『私が営業マンを不要だとしたのは、デジタル化できるアナログの否定だったのです』と、営業マンを置かない理由を説明している。

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考察

考察:事故から始まった原則

外交営業の否定は、理念が先に立った改革ではなかった。手段が先に生まれ、理屈はそれを追いかけた。歩合給の圧縮で営業部隊が崩れ、新聞広告で客を集める方法はその穴埋めとして残った唯一の手だった。後始末として始めたこのやり方を、松井道夫氏は、顧客に会って売る必要があるとは売り手が信じていたにすぎないという原則へ仕立て直したのだろう。のちに本人が語る"デジタル化できるアナログの否定"は、事故のあとから与えられた言葉と思われる。

もっとも、値下げできた範囲は規制の緩い隙間にかぎられていた。株式の委託手数料は固定されたままで、動かせたのは保護預り料と店頭株の手数料しかない。同業者が保護預り料の無料化には追随しながら、営業マンの廃止だけは真似しなかったことが、この原則の重さを示している。価格は真似できても、人員の構造は真似できない。外交営業の否定が差別化要因になるのは、委託手数料そのものが自由化されたときだった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月
参考文献

参考文献

参考

  • 日経ビジネス 1995年6月12日号
  • 日経ビジネス 1996年8月5日・12日号
  • 松井証券 業務及び財産の状況に関する説明書(2002年3月期)【沿革】
  • 日経ビジネス 1999年9月13日号
  • 松井証券「社長対談 激変する証券業界の勝ち組に学ぶ」(2002年11月5日)
  • 松井証券 社長メッセージ「社長対談 激変する証券業界の勝ち組に学ぶ」
  • 松井証券 業務及び財産の状況に関する説明書「2002年3月期【沿革】」

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