松井証券外交営業の否定と広告・電話営業への転換、株式保護預り手数料の無料化
対面で売るか、広告で集めて薦めないか——業界横並びの手数料慣行に最初に手をつけた6年間
- 概要
- 1990年代前半、松井証券が対面の外交営業を捨てて新聞広告と電話による集客へ移り、1996年には業界がほぼ横並びで年3000円を徴収していた有価証券の保護預り手数料を事実上無料にした判断。日本証券業協会の拒否を、3年間100円という値づけでかわした。
- 背景
- 1986年ごろの給与体系変更で歩合給を圧縮した結果、エース級の営業幹部5人が退社し、重要な顧客も離れて営業部隊が壊滅した。広告営業は理念ではなく、その穴を埋める苦肉の策として始まった。
- 内容
- 株を薦めない営業へ切り替え、信用取引の委託保証金を大手の最低1000万円に対し200万円、保護預り手数料を年3000円から1000円へ下げた。1996年1月の協会への打診が拒まれると、2月から3年間100円とし、3月下旬に条件つきで容認された。
- 含意
- 業界横並びの手数料慣行を最初に破った。ただし当時の松井道夫氏は、付加価値の低い戦略が自由化後には体力のある大手に淘汰されるとも語っており、優位は制度が変わる遅さにも支えられていた。
事故から始まった原則
外交営業の否定は、理念が先に立った改革ではなかった。1986年ごろに歩合給を圧縮した結果、エース級の営業幹部5人が抜け、重要な顧客まで去り、営業部隊は壊滅した。残された手段が新聞広告による集客であり、そこに前向きな理由はなかったと当時の誌面もはっきり書いた。松井氏はその後始末として始めた方式を、対面が必要というのは供給者側の思い込みにすぎないという原則へ組み替えた。手段が先にあり、理屈は後から付いた。
値下げできた範囲は、規制の緩い隙間にかぎられていた。株式の委託手数料は10億円未満の取引で固定されたままで、松井証券が動かせたのは保護預り料と、もともと自由だった店頭銘柄しかない。松井氏自身、付加価値の低さゆえに自由化後は大手に淘汰されると1995年に認めた。顧客の側も、投資判断を丸ごと引き受けられる者でなければこの店を使えない。事故から生まれた原則が業界の慣行を破ったことと、その原則がなお制度の遅さに守られていたことは、同時に成り立っていた。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
兜町の弱小と、海運から来た娘婿
松井証券の屋号は、六を丸で囲んだ「マルロク」である。6人の相場師が1918年に米の仲買商「松井房吉商店」を起こしたことに由来する。証券会社としての設立は1931年3月にさかのぼる。老舗ではあっても規模は小さかった。松井道夫氏が入社した1987年当時、東京証券取引所に会員権を持つ正会員は100社を超えていたが、そのなかで松井証券の株式委託件数は下から2番目にとどまった。信用取引に強いという色はあった。それでも兜町では、弱小の地場証券に数えられた[1][2]。
松井氏が業界の常識を疑ったのは、前職での経験による。1976年に一橋大学経済学部を卒業して日本郵船へ入り、11年を海運で過ごした。当時の運賃は、荷主と船会社が集う運賃同盟の場で決まった。航路でコンソーシアムを組めば運ぶ船まで同じになり、差別化の材料がなかった。ところが同盟が崩れて価格競争が始まると、荷主の要求は運賃の引き下げに変わり、格安の盟外船会社へ移る顧客が後を絶たなかった。「顧客は納得できるコストにしか金を払わない」(週刊東洋経済 2020/6/13)[3]。
証券界への転身と、営業部隊の壊滅
1986年、33歳で証券界に移った松井氏は、まず商売の構造に驚いた。株の売買を取り次いでいるだけで、一機関投資家から1か月に1億円の株式委託手数料が入ってくる。「こんなにぼろい商売があるのか」(日経ビジネス 1996/8/5)。同時に恐怖も覚えた。行政の庇護のもとで利益が上がる閉ざされた世界は、いつか自由化の洗礼を受ける。日本郵船を離れた松井氏は日興証券で1年の研修を受け、1987年に松井証券へ入社した[4][5]。
同じころ、松井証券の営業部隊は内側から崩れた。人件費を圧縮するために給与体系を変え、営業マンの歩合給を大幅に削ったところ、反発したベテランが会社を去った。営業部長・次長・課長といったエース級の5人が退社し、これにともなって重要な顧客も離れた。従来の営業部隊が壊滅的な状態に陥ったなかで、苦肉の策として新聞広告による集客を始めた。「広告営業に転換したのは、前向きな理由からではなかった」(日経ビジネス 1995/6/12)[6]。
決断
株を薦めない、という営業
松井氏は1990年に常務取締役営業本部長となり、経営の実権を握った。翌1991年、証券会社の常識を覆す方針を掲げた。株を薦めない、という営業である。営業マンが客を訪ねて株を薦める行為は、コストがかかるうえにリスクも大きい。当時の損失補填問題も、営業マンが薦めた株の値下がりに端を発した。対面が必要というのは供給者側の思い込みにすぎない。のちに松井氏は、この判断をそう説明した(週刊東洋経済 2020/6/13)[7][8][9]。
支店の担当エリアを営業マンが回る地域密着型の営業を、松井氏は「お仕着せ商法」(日経ビジネス 1995/6/12)と切り捨てた。投資の判断は顧客に委ね、証券会社の原点である売買仲介に絞って効率を上げた。裏を返せば、株に疎い客には使いにくい店になった。本店営業部は午後5時に閑散とした。営業マンが外回りに出ているのではない。すでに退社していたためである。1995年4月入社の新入社員17人のうち10人を本店営業部へ配し、全社員の3分の1を広告営業に充てた[10][11]。
保護預り手数料をめぐる協会との攻防
価格でも横並びを崩した。信用取引の委託保証金は、大手証券が最低1000万円とするなかで200万円まで下げた。業界がほぼ横並びで年3000円を徴収していた有価証券の保護預り手数料も、3分の1の1000円へ引き下げた。「本当は我々が顧客にカネを払いたいくらい」(日経ビジネス 1995/6/12)。保管を任されれば、その顧客から売買手数料が入る。松井氏はそう理屈づけた[12]。
1996年1月、松井氏は日本証券業協会に保護預り手数料の無料化を打診した。返ってきた答えは「徴収しないことは許可できない」(日経ビジネス 1996/8/5)だった。そこで2月から3年間100円へ引き下げ、事実上の無料とした。広告には今後も引き下げの努力を続けると明記し、協会への挑戦状ともとれる言葉を並べた。3月下旬、協会は「他の手数料に波及させない」(日経ビジネス 1996/8/5)という条件つきで、保護預り手数料ゼロを認めた[13][14]。
結果
個人客の流入と、自由化の先取り
個人の客が松井証券に流れ込んだ。1日に50件の新規顧客を獲得する日もあり、口座数は3年前の3倍以上に膨れ上がって1万口座を超えた。1995年3月期の東京証券取引所での委託売買金額は約1500億円、シェアは0.17%と、バブル期の2.5倍に伸びた。同じ期に経常黒字を確保した国内証券は222社中20社にすぎず、松井証券はその1社に入った。経常赤字に陥ったのは1991年度の一期だけにとどまった[15][16]。
値段を動かせる場所は、制度の隙間にもあった。顧客から受けた株式売買のうち10億円未満の取引には、業界横並びの固定手数料がかかる。一方で店頭登録株式は、手数料率がもともと自由だった。松井証券はそこに目をつけた。委託手数料の完全自由化が1999年10月に実施される前の1997年、店頭銘柄の株式と転換社債の委託手数料を半額へ下げた。免許制のもとで動ける範囲は狭く、松井氏は「早く手枷足枷を外してほしい」(日経ビジネス 1996/8/5)と訴えた[17][18]。
業界の反発と、本人が認めた限界
同業からの風当たりは強かった。「そんなことをしたら証券業界から村八分になるぞ」(日経ビジネス 1995/6/12)と脅されたこともある。社内でも当初は違和感を持つ者が多かった。叔父にあたる会長の松井正俊氏は「最初は自由化反対だった」(日経ビジネス 1996/8/5)と明かした。兜町の住人は、証券の素人がおかしなことをしていると受け止めた。松井氏は後年、社長業を振り返って「よくあんなことをやったな」(週刊東洋経済 2020/6/13)と思える一件に、この外交営業の否定を挙げた[19][20][21][22]。
松井氏自身は、この戦略の限界を早くから認めていた。付加価値が低いサービスほど、また規制に守られた時間が長いほど、自由化後の過当競争は激しくなる。その理屈は自社にも当てはまる。いまの営業戦略は付加価値が低く、続ければ自由化後には体力のある大手に淘汰される、と1995年の時点で語った。取材した記者も、証券業界の自由化が完了するには時間がかかると書き添えた。当時の優位は、制度が変わる遅さにも支えられた[23][24]。
- 日経ビジネス 1996年8月5日号「型破りの営業でタブー揺るがす」
- 日経ビジネス 1995年6月12日号「松井証券 推奨販売なしの営業戦略」
- 週刊東洋経済 2001年8月4日号「1部上場松井証券 老舗の弱小証券会社が大手を凌駕しえた理由」
- 週刊東洋経済 2020年6月13日号「スペシャルインタビュー 松井証券社長 松井道夫 社長業30年の自負は古いものを捨てたことだ」