前身・三井銀行と太陽神戸銀行の合併
1673年、三井高利氏は江戸本町一丁目に間口9尺の店を借りて越後屋呉服店を開き[1]、同時に京都室町へ仕入店を置いた。正札の現金決済による『現銀掛値なし』、店頭で待って売る『店前売り』、反物を必要な丈だけ切って売る『小切売り』[2]の商法をとり、町人層の小口需要を取り込んだ。京都と大坂で仕入れた反物の代金を江戸の売上から決済する遠隔地の資金移動が日常となったため、1683年5月、越後屋の駿河町移転に合わせて高利氏はその隣に三井両替店を開き[3]、銀貨と金貨の両替、両替手形の振出、遠隔地の為替を自ら担った。1691年には幕府御用為替の請負を許され[4]、大坂で徴収した年貢代金を江戸へ送る公金為替を扱った。
明治維新にあたり三井組は資産をあげて新政府の国費調達に応じ、1868年に会計局御為替方、1871年に新貨幣為換座御用を申し渡され[5]て官金の出納を引き受けた。1871年から1872年にかけては大蔵省正金兌換証券680万円と開拓使正金兌換証券250万円の委託発行[6]を担い、三井札と呼ばれた紙幣を出して中央銀行に近い業務まで扱った。1871年7月には三井組バンクの創立許可を得て東京海運橋畔に三井組ハウスを着工した[7]が、政府が国立銀行制度の採用へ方針を変えたため計画は止まった。1873年6月、三井組は小野組との共同出資で第一国立銀行を設立し[8]、建設中の三井組ハウスをこれに譲った。
1874年5月、三井組は駿河町の両替店を拡張して為換バンク三井組として開業し、1876年3月に私盟会社三井銀行の設立認可を得た[9]。同年7月1日、資本金200万円、営業店30か所で開業した[10]。国立銀行条例によらず銀行を名乗ることを許されたのはこの三井銀行が最初[11]で、政府は明治維新以来の軍資金の調達・献金・紙幣発行の功績を理由に例外を認めた。ただし有限責任の株式組織は認められず、無限責任を意味する『私盟』の語を冠することが設立の条件[12]となった。開業時の業務は官金出納、為替、荷為替、貸付、預り金、両替、地金銀売買[13]にわたる。
開業後の三井銀行は三井の事業全体へ資金を供給する機関銀行と採算で貸す商業銀行との間で揺れ、1891年に井上馨氏の推薦で入行した中上川彦次郎氏は不良貸金の整理を通じて前橋紡績所や芝浦製作所を三井の傘下に収め[14]、産業資本本位の機構を組んだ。1901年に中上川氏が没すると、三井家同族会管理部理事の益田孝氏は採算本位の商業銀行へ戻す方針を立て[15]、有価証券と不動産の処分を進めた。1893年7月に合名会社、1909年10月に資本金2000万円の株式会社へ改組し[16]、同時に倉庫業務を東神倉庫として分離した。1911年には担保付社債信託業を兼営し、1913年から外国為替業務へ進出して[17]上海・ロンドン・ボンベイ・スラバヤ・大連へ支店を置いた。ニューヨーク支店の開設は1922年3月で[18]、戦前の日本の為替銀行のなかでは最も遅い進出だった。
1933年7月に資本金を1億円へ増やし、五大銀行の一つとして昭和初期の電力外債募集の大部分を受託[19]した。安田・第一・三井・三菱・住友の五大銀行が全国預金に占める比率は、1919年の25%から1931年に38%へ上がった[20]。同じころ、のちの合併相手にあたる二つの銀行が別々に生まれ、1936年12月、一県一行主義を掲げる政府方針に応じて兵庫県の三十八・神戸岡崎・五十六・西宮・灘商業・姫路・高砂の七行が合併し、資本金2253万1600円・135か店の神戸銀行が設立された[21]。1940年12月には東京都の無尽会社を統合する母体として資本金100万円の大日本無盡が設立され[22]、これが日本無盡、日本相互銀行を経て太陽銀行へ変わった。政府が主導した集約は、1920年に1300行あった銀行を1930年に782行へ、普通銀行の数を終戦時に61行まで絞り込んだ[23]。
1943年4月、国家的要請により三井銀行は第一銀行と対等合併し、資本金2億円の帝国銀行が発足した[24]。本店は旧第一銀行本店に置かれ、会長には明石照男氏が就き、当時わが国最大の普通銀行となった[25]。翌1944年8月には十五銀行を合併して資本金2億2000万円となった[26]。規模の大きさはそのまま取引先の重なりを意味し、弱電機では日立製作所と東京芝浦電気の両方を、紡績では十大紡のうち三社を主取引先として抱えた[27]。のちに頭取を務めた佐藤喜一郎氏は『両社が合併してできた帝国銀行は、日本の産業界のほぼ四分の一という取り引き先を背負っていたといえるだろう』[引用元]と書き残している。
1948年1月、帝国銀行は旧第一銀行系と旧三井・十五銀行系の二行へ自主的に分離することを決めた[28]。同年9月に営業を新両行へ分割譲渡して解散し、10月に第一銀行が資本金10億2000万円、旧三井・十五系が資本金9億5000万円で新発足した[29]。財閥解体では帝国・三菱・住友・野村・安田の各行が制限会社に指定された[30]が、銀行は分割の必要がないという決定が1948年7月に出ており、分割されたのは帝国銀行だけだった[31]。佐藤喜一郎氏は理由に第一銀行出身者が元へ戻ることを熱望していたこと[32]と、『帝国銀行の取り引き層の間口が広く、やがて起こってくるであろう戦後の膨大な資金需要に応じ切れない』[引用元]ことの二つを挙げた。
第三の理由は集中排除法の適用を否定する観測で、佐藤喜一郎氏は『それなら帝銀だけでも自ら分割を買って出れば、他の銀行に類を及ぼさなくてすむかもしれない』[引用元]と書いた。分割にあたっては商号も難題となり、佐藤氏は『GHQが第一はいいが三井は使ってはいけないと言い出したので非常に困った。やむなく私の方は帝国銀行の名を使うことでやっと司令部を承諾させた』[引用元]と述べている。財閥系の銀行はいずれも旧称を使えず、三菱は千代田、住友は大阪、安田は富士、野村は大和へ改称した[33]。旧三井系だけが合同時代の商号をそのまま名乗り、1954年1月に三井銀行の商号へ戻った[34]。
1955年3月末の預金は三井銀行1431億円・99か店、第一銀行1505億円・96か店[35]で、分割から7年を経た両行はほぼ同じ体格から出発した。佐藤喜一郎氏は20年後、『支店の設置にしても、分割した結果、第一も三井も同じ割り当てを得られ』[引用元]たとし、両行合計の預金高が1966年時点で2兆円に及ぶ[36]ことを挙げて『私はいまでも自分の判断はあまり間違っていなかったと、ひそかに自負している』[引用元]と書いた。1953年4月に資本金を20億円へ増やし[37]、1968年4月には東都銀行を合併して[38]店舗網を補った。
大蔵省が店舗の新設を横並びで割り当てる行政をとったため[39]、三井銀行と上位行との店舗数の差は縮まらなかった。1968年6月に金融機関の合併及び転換に関する法律が制定され、同年12月には日本相互銀行が普通銀行の太陽銀行へ転換[40]した。1971年10月1日には第一勧業銀行が、1973年10月1日には神戸銀行と太陽銀行の合併で太陽神戸銀行が発足[41]している。1969年元旦に報じられた三菱銀行と第一銀行の合併構想は、第一銀行会長の井上薫氏が『戦中の三井銀行との合併銀行である帝国銀行時代の苦い経験から、事実上の吸収合併になる』[引用元]として反対運動を起こしたため実らなかった。
1980年4月、三井銀行は第12次長期経営計画『フェニックス計画』を始めた[42]。最終年度の1983年は三井両替店の創業から300年[43]に当たる。計画には資金量や利益の全行目標を置かず、支店には地域の一番店になること、本部各部には直上位行を追い抜くことを課した[44]。常務の末松謙一氏は目標数値を置かない理由を『そんなものは環境条件次第ですぐ変わってしまう。この見通し難の時代にはあまり意味をなさない』[引用元]と説明した。
1981年3月時点の店舗数は175店で、太陽神戸銀行や第一勧業銀行のおよそ半分[45]、同じ旧財閥系の三菱・住友と比べても約40店少なかった。三井グループ企業の総借入額に占める三井銀行のシェアは9.8%で、三菱銀行の11.8%、住友銀行の12.8%を下回った[46]。副社長の草場敏郎氏は『せめてあと40店あれば住友とだって対等にやれるのだが』[引用元]と語り、三井物産常務の鬼原誠一氏は『資金がないから、企業に対して言いたいことも言えない、といったところが本当なのでしょう』[引用元]と述べた。この劣位は『戦後の帝国銀行時代、第一銀行を分離した時にスタートした』[引用元]ものとみなされていた。
会長の小山五郎氏は、非力さの原因を店舗不足に帰す見方に対し『むしろ、自分の方からあきらめてしまう甘え、ひ弱さに、そんなイメージの生まれる原因がある』[引用元]と述べた。新宿西口支店長の松下宏文氏は『確かに私の経験でも、三井銀行はこれまで、育ちのよいお坊っちゃん銀行だった。このお坊っちゃんが髪ふり乱し、目を血走らせ始めたことが、かえって取引先に受けているようです』[引用元]と語った。1981年3月期の実質預金伸び率7.04%は都銀13行中で首位に立ち、預金1億円当たり経費344千円は住友に次ぐ低さ[47]だった。
1986年4月、三井銀行は審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体した[48]。部長のポストを従来の3倍へ増やし、それまで役員が持っていた決裁権限[49]をほぼそのまま新任部長へ移している。会長の草場敏郎氏はこれを『革命』と呼んだ[50]。本部組織としての審査部はなくなり、本店では各営業部長に青天井の決裁権限を、リテール部門では地域部長に大幅な決裁権限を与えた[51]。取締役資本市場企画部長は旧来の銀行業務を『与信リスクをどう管理するかという仕事だった。これは100戦100勝じゃなければ駄目だ』[引用元]と説明し、価格変動を扱う証券業務は『6勝4敗でいい』と対比した。
旧組織のままでは、証券部門のディーリングの損切りまで経営会議にかけていた[52]。経常収益は1986年3月期の1兆1778億円から1988年3月期に1兆5404億円へ、営業利益は485億円から1590億円へ増えた[53]。中小企業と個人を対象とする融資残高は2年で32%増え、総貸出金に占める比率は53.1%から61.3%へ上がった[54]。社長の神谷健一氏は『専管の役員の顔色を見るくらいなら、客の顔を見て仕事をしろ』[引用元]と現場を督励した。ただしこの2年は他の都銀もそろって収益を伸ばした時期で、改革を主導した部長自身が『環境に恵まれ』た[55]結果だと前置きしていた。
1989年夏、三井銀行と太陽神戸銀行は合併を決めた[56]。三井銀行は三菱・住友という他の財閥系銀行に比べてグループ内での位置がそう高くなく、合併に動きやすい環境にあった[57]。大蔵官僚出身の太陽神戸銀行頭取・松下康雄氏と三井銀行社長・末松謙一氏の古くからの個人的関係も働いた[58]。名誉会長の小山五郎氏は合併を大願成就と呼び、『これで本当に僕の仕事は終わったという感じだ』[引用元]と語って、新本店へは行かないと告げた。一度合併した太陽神戸銀行がふたたび合併する例は珍しかった[59]。
1990年4月1日、太陽神戸三井銀行が発足した[60]。行員2万4000人は第一勧業銀行を5000人上回り、店舗は600店近く、役員66人・8本部制[61]の組織となった。本部長8人は旧太陽神戸4人・旧三井4人で分け、等級は1級・2級・3級に一本化し[62]、合同役員室と本部長協議会を置いた。会長の松下康雄氏は『実は、この合併の最大のメリットは、人材が行内で確保できたということではないかと、思い始めているところです』[引用元]と述べ、地価高騰で新規出店が難しいなかで支店網を一挙に得た[63]意義を挙げた。松下氏は『世界のトップクラスの銀行になる』[引用元]という目標があったから順調な合併を実現できたとも述べた。
1973年の旧太陽銀行と旧神戸銀行の合併は『表看板だけ一緒で内部は全く別々の銀行だった』[引用元]と業界関係者に言われており、太陽神戸三井銀行はその反省を人事の運用へ持ち込んだ。統合店では支店長のもとに旧三井と旧太陽神戸の出身者を副支店長として各1人置き、2年ごとに支店長の出身行を交代させる方針[64]をとった。支店統合推進チームは旧両行のメンバー32人で構成し、8人ずつ4チームに分かれて統合する支店に約2カ月半ずつ常駐[65]した。
第1次店舗統合は1991年9月末までの1年半で36店を18店に集約した[66]にとどまった。1991年9月末の国内店舗は本支店510・出張所84の計594で、東京都231・兵庫県123・神奈川県56・大阪府55と偏りがあり、地域が重なる店舗はなお約90残った[67]。東京都新宿区の四谷支店と新宿御苑前支店の距離は30メートル[68]しかなかった。旧神戸銀行の本拠地である兵庫県では地方公共団体の公金取扱機関に指定された店が多く[69]、統合は難しかった。1993年3月をめどとする第2次統合は約40店を対象とした[70]。
勘定系システムは旧三井がIBM、旧太陽神戸が富士通で、富士通への統一が決まっていた[71]。1991年10月から旧三井の支店へ新システムを導入する作業を始め、移行が完了する1992年10月までの1年間、首都圏での店舗統合は棚上げとなった[72]。システム統合の事務量は1973年の太陽・神戸合併時の10倍にのぼった[73]。統合の際は店の規模に応じて人員を20%から30%減らし、1991年4月8日に統合した茨城県の取手支店では74人だった行員を62人まで減らした[74]。ただし余剰人員はほかの支店や本部の営業支援部門へ配置転換したため、人件費の削減にはつながらなかった[75]。
1991年3月期の営業経費4581億円は、資金量がほぼ同じ第一勧業銀行の3602億円を1000億円近く上回った[76]。うち人件費は2381億円で、賃金水準を高い旧三井へそろえた[77]ことが費用を押し上げた。同期の業務純益987億円は都銀上位6行で最も低く、国内総資金利ざやは0.09%で首位の住友銀行の0.652%と開いた[78]。1991年3月末のBIS基準による自己資本比率7.3%は、都市銀行で唯一8%を下回った[79]。頭取の末松謙一氏は『新銀行のために役に立つか立たないか、いいか悪いかを唯一の基準として考えていく』[引用元]と述べた。
1992年4月、太陽神戸三井銀行は商号をさくら銀行へ改めた[80]。平仮名の行名の登場は、銀行が消費者・預金者を重視する時代に入ったことを示した[81]。合併で得た600店近い支店網は、第一勧業銀行や住友銀行の400店弱と比べて200店ほど多かった[82]。ただし店舗の廃止で生じた出店枠を成長地域へ振り向ける動きは鈍く、不動産融資が盛んだったころは1年たたずに黒字化した店舗も、1991年の時点では3年から4年を要した。出店に要する費用は1店あたり20億円から30億円といわれた[83]。各行が中小企業や個人を対象とするリテール分野に力を入れるなかで、店舗網は競争の要となった[84]。
1994年6月、橋本俊作氏が頭取に就いた[85]。橋本氏は1953年に神戸銀行へ入行し、1973年の太陽銀行との合併では合併事務局次長、1990年の太陽神戸三井銀行の発足時には業績管理を担う業務本部長[86]を務めている。旧太陽神戸の出身者が合併行の頭取に就いた[87]ことで、対等の原則は人事の頂点にも及んだ。当時の行員数2万2000人は銀行界で最も多かった[88]。橋本氏は頭取就任の記者会見で合併を経営の革新と呼び、顧客に向けたキャッチフレーズを『あなたに近いさくらです』[引用元]から『あなたと歩むさくらです』[引用元]へ改めた[89]。
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| 1673〜1954年呉服商の為替を内製化し、私立銀行第一号から帝国銀行の分割まで | 三井銀行創業——三井高利氏の越後屋「現銀掛値なし」から1876年の私立銀行第一号・三井銀行へ 1673年(延宝元)、伊勢松坂の商家に育った三井高利氏が、江戸本町一丁目に越後屋呉服店を、京都室町に仕入店を同時に開き、三都を結ぶ店舗網で出発した。『現銀掛値なし』『店前売り』『小切売り』の商法で町人層を顧客に取り込み、1683年には江戸本両替町へ三井両替店を開いて呉服三都店間の為替を内製化した。1876年7月には三井組を母体に私立銀行第一号として三井銀行を設立し、近世の両替商から近代銀行へ移った。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 隣接地に三井両替店を開業 | ★ | |||
| 三井組が明治政府の会計局御為替方(官金取扱)を命ぜられ、官金の出納を引き受けた | ★ | |||
| 私盟会社三井銀行として開業 | ★★ | |||
| 株式会社三井銀行に改組 | ★ | |||
| 外国為替業務に参入 | ★ | |||
| 第一銀行との対等合併により帝国銀行が発足 | ★★ | |||
| 十五銀行を吸収合併 | ★ | |||
| 帝国銀行が第一銀行系の営業を分割譲渡して解散 | ★★ | |||
| 東京証券取引所に上場した(5月16日) | ★ | |||
| 三井銀行に商号変更 | ★ | |||
| 1949〜1988年店舗数の劣位を意識改革で埋めようとした戦後の40年 | 東都銀行を合併 | ★ | ||
| 日本相互銀行が合併転換法により普通銀行の太陽銀行へ転換 | ★ | |||
| 神戸銀行と太陽銀行が合併し太陽神戸銀行が発足した(のちの合併相手方) | ★ | |||
| 第12次長期経営計画「フェニックス計画」を開始 | ★ | |||
| 支店ごとに地域一番店を課す目標設定に転換 | ★ | |||
| 審査・業務・国際・証券経理の4本部制を解体 | ★ | |||
| 部長職を3倍に増やして決裁権限を委譲 | ★ | |||
| 1989〜1994年対等合併で600店を得て、さくら銀行になるまで | 太陽神戸銀行との対等合併と、さくら銀行への商号変更 1990年4月1日、三井銀行が太陽神戸銀行と対等合併し、太陽神戸三井銀行が発足した。行員数2万4000人、店舗は600店近くを数え、預金量で国内最大級の銀行が生まれた。三井銀行側の主導者は末松謙一社長で、合併行は1992年4月にさくら銀行へ商号を変更した。 詳細を読む | ★★★ | ||
| さくら銀行に商号変更 | ★ | |||
| 1995〜2001年不良債権の処理に追われ、住友銀行との合併で幕を閉じるまで | 岡田明重 | 末席の代表取締役だった岡田明重氏が8人抜きで頭取に就任 | ★★ | |
| 岡田明重 | 三井グループ各社への総額約3000億円の緊急増資要請 1998年8月31日、さくら銀行の岡田明重頭取が記者会見を開き、三井物産・三井不動産・トヨタ自動車など三井グループ各社に対して総額約3000億円の増資引き受けを要請していると発表した経営判断。公的資金の受け入れに先立ち、グループとの資本関係から自己資本を積み増そうとした。 詳細を読む | ★★★ | ||
| 岡田明重 | 公的資金8000億円の注入を受け入れ | ★★ | ||
| 岡田明重 | さくら銀行と住友銀行の合併・三井住友銀行の発足(2001年成立) 2001年4月、住友グループの住友銀行と三井グループのさくら銀行が合併し、三井住友銀行が発足した。総資産で世界有数の規模となった大型行合併である。 詳細を読む | ★★★ |
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事実根拠:出所(さくら銀行)