塩野義製薬導入品依存からの転換と、独創品開発に向けた新研究所の建設

「人真似の歴史」と自ら断じた塩野孝太郎 氏は、売上の拡大を止めてまで何に投じたか

時期 1962年3月
意思決定者(推定) 塩野孝太郎 社長
論点 技術導入依存からの脱却と研究開発体制の確立
概要
1950年代後半から1962年にかけて、塩野義製薬が外国からの技術導入に頼る製品構成を改め、自社創製の独創品と研究所への投資を経営の軸に据えた経営判断。1961年に新研究所が完成し、1962年3月には社長の塩野孝太郎 氏が社内へ「人真似の歴史」からの転換を宣言した。
背景
戦後の塩野義は米ロッシュ・米リリー・仏ローンなどとの技術提携で優秀技術の導入に努め、製品には技術導入によるものが多かった。塩野孝太郎 氏は後年、当時を「薬らしい薬はなかった」と回想し、毎年外国へ出向いて良い品を探していたと語っている。ペニシリンの国産化には失敗していた。
内容
売上の拡大を止めてでも研究所を建てるという選択がとられた。当時を伝えるダイヤモンド臨時増刊は、世間から売り上げも拡張せずに何をやっているのかと言われたが、国際競争を目指すには完備した研究所が必要だとしてその建設を断行した、と記している。あわせて販売現場の「プロパー」を「ディテールマン」へ改称した。
含意
1958年に自社創製の持続性サルファ剤シノミンが生まれ、1960年にはロシュ社と技術輸出契約を結んだ。導入する側から出す側へ立場が入れ替わる転換であり、以後の抗生物質、さらには感染症に特化する現在の事業構成の源流がここに置かれた。
筆者の見解

自社の来歴を否定できる経営者

「過去のシオノギも、決してこれらの例外であったとは申せません」——1962年の訓示で塩野孝太郎 氏が置いたこの一文が、この判断のいちばん強い部分にあたる。人真似で安く売ることを業界の常道と呼び、自社もその一員であったと社員の前で認めたうえで、そこから出ると宣言している。売上の拡大を止めて研究所を建てるという選択に社内が納得するには、まず自社の商売のどこが借り物であったかを名指しする必要があった。ペニシリンの失敗も4工場の休止も済ませた後であればこそ、拡張を選ばない説明が通ったのだとみられる。

ただ、決断が果実を生むまでの時間は長かった。1958年のシノミンの後、独自開発の大型新薬は1981年末のシオマリンまで現れず、日本経済新聞は年間100億円強を投じてなお有望な新薬に恵まれなかったと書いている。そのシオマリンが売上の半分を抗生物質で占める偏りを生んだことも含めて、独創品で立つ道が平坦でなかったことは記録に残っている。それでも、導入する側から技術を出す側へ立場を替えた1960年の契約がなければ、後年に自社創製の薬をロイヤリティで世界に出す発想は生まれにくかったといえる。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

導入品と製剤技術で組み立てた戦後

戦後の塩野義製薬の製品構成は、外国から持ち込んだ技術の上に載っていた。米ロッシュ社とサルファ剤サルファジン、米リリー社と抗生物質アイロタイシン、フランスのローン社と冬眠薬ウインタミン、ピレチアジンについて技術提携を結び、優秀技術の導入に努めたと当時の記録は書き残している。社長の塩野孝太郎 氏は後年、この時期を振り返って「薬らしい薬はなかった」と述べ、毎年外国へ行っては「いいものはありませんか」と尋ねて回っていたと語っている[1][2]

自力で新しい薬をつくる試みが実らなかったわけでもない。ただ、その代表例は失敗として記憶された。塩野孝太郎 氏は「ペニシリンの製造は完全に失敗」[3]と語っており、1968年に会社が編んだ社史も「ペニシリンの失敗」「工場の売却」という章題でこの時期を扱っている。生産の面では、1949年7月と1950年9月に和歌山、淀川、神崎川、泉尾の4工場を休止し、機械と人員を杭瀬、浦江、赤穂の3工場へ集めた。規模を広げるより体力を一点に寄せる選び方が、この会社には先にあった[4]

外からも見えていた弱さ

導入依存は社外の評価にも現れていた。1957年10月、読売新聞は塩野義について、製品には技術導入による分が多く、優秀なものもあるが、それだけにかえって自主的に伸びる力があるかどうか疑問視されている、と書いた。同紙は今後は国産化の推進など自力を養うことが必要だとも指摘している。良い薬を持ってくる力と、良い薬を生む力は別物であるという見方が、この時点で外部から突きつけられていた[5]

経営の側でも代替わりがあった。1953年12月、二代社長の塩野義三郎 氏が逝去し、塩野孝太郎 氏が跡を継いだ。市場そのものは追い風であった。1961年には国民皆保険制度が始まり、保険財源に支えられた処方薬市場は各社に安定した投資機会を与えている。国内工場を積み増せば売上が伸びる時代に、その伸びを取りにいかない道を選べるかどうかが、この会社の分かれ目となった[6][7]

決断

売上を止めて研究所を建てる

選ばれたのは、売上の拡大より研究設備への投資であった。1967年のダイヤモンド臨時増刊は、塩野義は売り上げも拡張せずに何をやっているのかと世間から言われたが、国際競争を目指すためには完備した研究所が必要だとしてその建設を断行した、と当事者の言葉を伝えている。同誌は塩野義の研究所について、これが私企業の研究施設かと思うほど近代的で完備している、とも記した。新研究所は1961年に完成している[8][9]

国際水準を目標に置く発想は、この会社では敗戦の日にさかのぼる。1945年8月、社内に向けて、いままでの窮屈な統制時代は去ってわれわれは自由になる、ただ覚悟しなければならないのは今後は世界が相手になることだ、国際水準を目標に努力し精進しなければ生き残ることはできない、と語られていた。ダイヤモンド臨時増刊はこの考え方が次の世代にも受け継がれたと評している。研究所の建設は、その約20年後に置かれた出費の伴う実行であった[10]

「人真似の歴史」からの決別と、売り方の建て直し

1962年3月、塩野孝太郎 氏は社内に向けて過去を名指しで否定した。シオノギの歴史も、日本の製薬業の歴史も、いや日本の産業の歴史も人真似の歴史であったといっても過言ではない、人の真似をして安く売るのが商売の常道であった、過去のシオノギも決してこれらの例外であったとは申せません——自社の来歴を業界の悪癖と並べて置いた物言いであった。そのうえで、輸出産業として成長するには独創品とその技術輸出が鍵になると説いている[11][12]

転換は研究の側だけにとどまらなかった。同じ場で、今日からプロパーの名称を廃してディテールマンとする、内容を新たにする覚悟でこの名を受け取ってほしい、と販売現場の呼称変更が告げられた。従来のプロパガンダはペコペコして相手に取り入る立場であったが、ディテールは相手が聞いてよかったと思い、もっと聞こうとさせるものである、という説明がそれに続く。価格だけで安売り競争をしてはならない、という一線も同時に引かれた。作る側を変えるなら売る側も変える、という組み立てであった[13][14]

結果

導入する側から、出す側へ

宣言より先に、成果は出ていた。1958年、塩野義は持続性サルファ剤シノミンを自社で創製し、これを足がかりに1960年にはロシュ社と技術輸出契約を締結した。かつてサルファ剤の技術を受け取った相手に、今度は自社の技術を渡す立場になっている。製剤技術、とりわけ顆粒の製造技術はアメリカの会社に提供するほどの水準に達したとも記録された。導入で足りない分を埋める会社から、渡すものを持つ会社へと位置が入れ替わった[15][16]

外部の評価も変わった。1967年のダイヤモンド臨時増刊は、最も医薬品会社らしい会社といわれているのが塩野義製薬であるとし、周囲の動向に左右されることなくつねに自己の信じるところを貫いていると書いている。ただし、業界全体を見れば見方は厳しかった。1962年の読売新聞は、輸出面で好成績をあげている製品を除くとわが国の医薬業界の国際競争力はきわめて弱く、各社とも研究所の整備・拡充に思い切った資金をつぎ込んでいるものの目下難航中である、と伝えている[17][18]

次の大型新薬までの20年

独創品で立つと決めた会社を、その後に待っていたのは長い空白であった。1982年の日本経済新聞は、堅実経営で知られる塩野義製薬は新薬開発のため年間100億円強の金を注ぎ込んでいるとしたうえで、それでも永年、有望な新薬に恵まれなかったと書いている。1981年末に月商30億円を見込める第3世代の抗生物質シオマリンが誕生し、同紙はこれを独自で開発したものとしては22年ぶりの大型新薬と位置づけた。研究所を建ててから20年が過ぎていた[19]

そのシオマリンが、今度は別の偏りを生んだ。1989年の日経産業新聞は、塩野義は売上高2,160億円のほぼ半分を抗生物質で占めると報じている。同紙は抗生物質が薬効別で首位にあるものの販売競争が激しく薬価は改定のたびに大きく引き下げられるとし、医薬品市場における比率は漸減する傾向にあると指摘した。独創品を出せば売上が一品目に寄り、その一品目の環境悪化が会社ごと揺らす——研究で立つ会社が構造的に抱える振れ幅が、ここで顔を出している[20][21]

出典・参考
  • 読売新聞 1957年10月23日「塩野義製薬」
  • 読売新聞 1962年3月1日「独創品展開で輸出振興へ」
  • ダイヤモンド臨時増刊 1967年2月25日「着実な歩みを続ける塩野義製薬」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968年)
  • 会社銀行八十年史 2篇 日本会社史(1955年)「塩野義製薬」
  • 塩野孝太郎(追想録・非売品、1990年)
  • 日本経済新聞 1982年6月12日「企業収益"戦略格差"の時代」
  • 日経産業新聞 1989年6月20日「抗生物質・塩野義優位揺るがず」
  • 塩野義製薬 有価証券報告書【沿革】

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