小野田セメント三井物産合名会社との製品一手販売契約の締結と販売機能の全面委託
販路を自前で抱えるか、商社へ預けるか——欠損を計上した小野田セメントが製造に専念するまで
- 概要
- 1901年12月21日、小野田セメントが三井物産合名会社との間で製品の一手販売契約を締結し、販売を全面的に委ねて製造に専念する体制へ改めた経営判断。宗像事件で払込資本金の23%に当たる欠損を計上し、笠井順八社長が私財の全部を差し出して辞任した直後の決断であった。
- 背景
- 日清戦後恐慌でセメント市況が崩れ、1900年から翌年にかけて売掛金・未収金・支払手形・借入金が累積した。ディーチュ窯を備えた新工場が巨費で完成した直後であり、不況と不熟練から稼働も上がらない。1901年5月には、神戸出張所裏書の約束手形10万7615円を取引先に私用された宗像事件が発覚した。
- 内容
- 契約期間は3年で、期限のたびに修正を加えて更新された。1904年の改訂では営業店の廃止を定めた条項が削除され「門司打切販売」の規定が加わり、担保に供するセメント価格が1樽2円50銭から2円へ引き下げられた。販売交渉は河北勘七専務、1906年からは福原栄太郎専務が担い、製造は技師長の笠井真三氏が統轄した。
- 含意
- 輸出シェアは内地向けシェアを上回り、50%を超えた年も数度あった。日露戦争の市況難でもフル操業を保った一方、国内では契約から6〜7年を経ても三井物産の営業地盤は広がらず、東京の卸売先は二、三軒にとどまった。1909年の第1回セメント打合会議では「販売細則」を定め、報告の義務で市場情報の遮断を補った。
危機を切り抜けた手段が残したもの
払込資本金の23%を一度に失った会社が次に手放したのは、工場ではなく販売であった。1901年12月21日の一手販売契約で、小野田セメントは製品を売る仕事ごと三井物産へ渡し、製造だけを手元に残す。神戸出張所の裏書手形が10万7615円の穴を開け、売込み競争が旅費と交際費を積み上げていた直後である。自前の販路を守るより、稼働を落とさずに製品をさばく相手を確保するほうが先だと判断したとみられる。
ただし、委ねた側が得たものは一様ではなかった。輸出では三井物産の店舗網が働き、輸出シェアが50%を超えた年もあった一方、国内では契約から6〜7年を経ても営業地盤は広がらず、東京の卸売先は二、三軒にとどまった。市場の動きから遠ざかる不利は、1909年の「販売細則」で報告を義務づけて補うほかなかった。危機を切り抜けた手段が、そのまま国内販売の弱さを長く抱える条件にもなったといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
日清戦後恐慌と短期負債の累積
日清戦後の企業勃興が反動へ転じると、セメント業界は戦後ブームのなかで進めた新増設をそのまま抱え込んだ。需要が減り、価格が崩れ、安売競争が広がる。小野田セメントでも1900年から翌年にかけて生産と販売が伸び悩み、売掛金と未収金が膨らみ、その資金繰りのために支払手形と借入金が急増した。折悪しく、ディーチュ窯を中心とする新工場を巨費で建設し終えた直後であり、機械類の償却費が重いうえ、操業にも不慣れであった[1]。
販売を増やそうとする努力は、旅費と交際費をふくらませただけに終わった。1899年上期には借入金と約束手形を合わせて30万円の負債を抱え、勧業銀行からの借入は滞貨融資に近い性格を帯びた。1900年12月26日、創立以来の後援者であり大株主でもあった井上馨氏は、東京へ呼び寄せた取締役4名を5時間にわたって問いただし、あわせて取締役の田島信夫氏あてに10カ条の質問状を送って、笠井順八社長と笠井真三氏の父子をはじめ重役の責任を問うた[2][3]。
宗像事件と第1の危機
改善策を練るさなかに事件が起きた。1901年5月18日、神戸出張所の主要取引先であった大阪市江戸堀の宗像商店が突如廃業し、店主の宗像半之輔氏が失踪する。調べたところ、宗像氏は長年の取引で保管を任されていた小野田セメント神戸出張所裏書の約束手形を私用し、大阪の各銀行から現金を詐取していた。金額は委任状のある分が4万4610円、ない分が6万3005円、合わせて10万7615円にのぼった[4]。
小野田セメントは自ら振り出した手形ではないとしながらも、裏書がある以上は徳義上の債務と認め、債権者の銀行と交渉して社債への振替を懇請した。調査で判明した損害金は16万3311円17銭3厘に達し、1901年下期の決算に計上された。同年11月の臨時株主総会は借入金と約束手形を社債40万円へ借り替えることを決め、笠井順八社長は辞任して私財の全部を損失補塡に差し出した。百年史は、払込資本金の23%に当たるこの欠損を第1の危機と呼んでいる[5][6]。
決断
販売を丸ごと商社へ預ける
1901年12月21日、小野田セメントは三井物産合名会社との間で製品の一手販売契約を締結し、販売を全面的に委ねて製造に専念する体制へ改めた。三井物産との取引そのものは1883年に製造を始めてまもなく始まっており、相手は新顔ではない。変えたのは委ねる範囲で、売込みをめぐって販売員が東奔西走し旅費と交際費を積み上げていた自前の売り方を、商社の販売網ごと預ける方式へ切り替えた[7][8]。
契約期間は3年で、期限のたびに若干の修正を加えて更新された。最初の改訂となった1904年の契約では、営業店の廃止を定めた第3条が削除され、同年1月に調査委員報告が提案した「門司打切販売」の規定が加わる。運転資金の借入にあたって担保に供するセメント価格も、市価の下落を受けて1樽2円50銭から2円へ引き下げられた。主文の内容は原則として変わらず、条件だけが市況に応じて改められた[9]。
製造に専念する経営陣の組み替え
契約と前後して、経営の担い手も入れ替わった。笠井順八社長の退任後は取締役社長の職を空席とし、1901年11月に就任した河北勘七専務取締役と村田増太郎取締役が経営の中心に立つ。両名の就任には、債権者である毛利家の意向が強く影響したと伝えられる。再建が軌道に乗った1906年1月に河北氏が辞任を申し出ると、熊谷取締役が「三井ニ旧縁モアリマスカラ宜シイカト存ジマス」と推した福原栄太郎氏が後任の専務に選ばれた[10]。
生産の側は、1904年1月に取締役へ選ばれた笠井真三氏が担った。ヨーロッパ留学から帰った後は技師長として生産計画の立案と技術改良を陣頭指揮した人物で、本社工場を実質的に統轄する。対外的な販売交渉は専務、製造は技師長という分担ができ、販売を商社へ預けた分だけ経営陣の関心は品質と技術へ集まった。百年史は、この体制のもとで品質・技術向上の意識が全社に浸透し、後世にも引き継がれたと総括している[11][12]。
結果
輸出で出た効果と、大阪築港工事
効果がはっきり表れたのは輸出であった。日本ポルトランドセメント同業会の集計から算出したシェアをみると、小野田セメントの輸出シェアは内地向けシェアを大きく上回り、50%を超えた年も数度ある。日露戦争で市況が沈み、同業各社が減産や工場の一時休転に追い込まれるなかでも、フル操業を保って生産量を落とさなかった。他社が採算に苦しむなかで製造力を減らさずに済んだ理由を、後年の関係者は海外への輸出に求めた[13][14]。
国内では、経営が最も苦しい時期に得た大阪築港工事の納入権が販売を支えた。1899年から1902年にかけての経営危機の間、国内向け出荷の2〜4割がこの工事へ供給された。納入価格は1901年12月契約の1樽4円14銭を最高に、平均でも3円68銭、納入総額は87万3408円に達した。市価が3円前後まで下げていた時期であり、価格の条件でも他の取引にまさった[15]。
国内販路に残った限界
委託がすべてを解決したわけではない。契約から6〜7年を経ても、三井物産が国内に独自の営業地盤を広げるには限界があった。支店別で相当の取引高を記録したのは東京・大阪・門司・三池・神戸で、三井鉱山の需要による三池を除けば、いずれも小野田セメントが既に出張所を置いて売っていた土地である。品質がまだ不安定で需要者の銘柄志向が強く、運送費の高さから東日本では競争力が弱く、樽の造りの粗さが不評を買ったことも重なった[16]。
小口の卸売も広がらなかった。1909年当時の東京では、卸している販売店が二、三軒にとどまり、ほとんど小売に近い売り方だったと報告されている。二百や三百の小売は大所帯の商社になじみにくい商いであり、福原専務は打合会議の席で、下売人をもう少し増やしてほしいと三井物産へ求めなければならなかった。品質と容器の改良、運送面の改善が、その障害を取り除く前提として残った[17]。
その打合会議は、1909年7月24日と26日に三井物産大阪支店で開かれた第1回のもので、ここで「販売細則」が決まった。小野田セメントは各支店に対し、売約の成否を問わず見積明細と結果表を通知すること、毎月1回以上受払報告書を作ることを要請した。販売を委ねた分だけ市場の動きから遠ざかる不利を、報告の義務で補う仕組みである。三井物産からは半期ごとに「セメント考課状」も送られた[18][19]。
- 小野田セメント百年史(小野田セメント, 1981年)
- 日本産業史(日経文庫) 第1巻 通史「財閥の形成」