小野田セメント株主の金禄公債を抵当に据えたセメント製造会社の設立
政府の拝借金が見積の半ばに届かないなか、笠井順八氏は残る資金をどこから調達したか
- 概要
- 1881年5月3日、山口県令の原保太郎氏が「セメント製造会社規則」を聞き届け、山口県厚狭郡西須恵村小野田にセメント製造会社(後の小野田セメント)が成立した。わが国最初の民営セメント製造会社であり、資金は政府からの拝借金2万5000円と、発起人39名が拠出した7分利付金禄公債証書の額面8万8000円で組み立てられた。
- 背景
- 開港以来、欧米の工業製品が流入して国際収支は連年の赤字となり、決済に充てる金貨が国外へ流れ出ていた。セメントも輸入品が主で、国産の工場は工部省直轄の東京深川工作分局しかなかった。1877年5月に山口県吏を辞していた笠井順八氏は、1879年春に平岡通義氏の話を伝え聞き、1880年1月に深川で大技長の宇都宮三郎氏から教示を受けて創立を決意した。
- 内容
- 1880年5月の「就産金拝借願」が見積もった事業資金は6万1600円であったが、同年8月5日に内務卿の松方正義氏が認可した拝借金は2万5000円にとどまった。不足分は株主の現金出資ではなく金禄公債で埋め、公債の所有権は株主に残したまま、抵当として使う運用権だけを会社に委任するという規則を置いた。
- 含意
- 1883年6月に湿式法と徳利窯で製造を始め、1884年には神戸鉄道局の試験で深川の製品より上位と評され、1886年には農商務省分析課と横浜鎮守府から外国品に劣らないと認定された。1884年1月の株主147名のうち85.7%は10株以下の中小株主で、家禄に代わる公債が広く薄く事業資本へ振り向けられた。
制度がもたらした証券を、事業資本へ
政府が認めた拝借金2万5000円は、笠井順八氏らが積み上げた見積6万1600円の半ばにも届かなかった。残りを埋める道は、現金を集めるか、士族が家禄に代えて受け取った公債に頼るかしかない。笠井氏が採ったのは後者で、公債の所有権は株主に残し、会社は抵当として使う権利だけを預かった。国立銀行が同じ公債を現物出資として吸い上げていた時代にここまで譲ったのは、前例のないセメント事業へ萩や山口の士族を引き入れるには、そこまで下りる必要があったからだとみられる。
ただし、この譲歩は見かけほど株主に有利ではない。規則第8条第2節は損失が出れば預かった公債で償却すると定めており、証書は名目上株主のものでありながら、危険は株主が負っていた。所有権を残すという建て前も、1886年10月の臨時総会で公債の売却が決まった時点で消える。創立から5年で手放された仕掛けをそれでも記録に残す価値があるとすれば、商法もない時代に、手元の現金ではなく制度が配った証券を事業資本へ組み替えた点にあるといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
背景
金貨の流出と、県吏を辞した士族
1853年のペリー来航を機に開港すると、欧米の工業製品が続々と流入し、維新後の日本の国際収支は連年の赤字を呈した。外資を排除していた当時、赤字は正貨で決済するほかなく、金貨が国外へ流れ出た。セメントもその一つで、国産の工場は工部省直轄の東京深川工作分局を数えるのみにとどまった。萩藩で財政関係の役職を歴任し、廃藩後は山口県の勧業局や出納課に勤めた笠井順八氏は、1877年5月に県吏を辞し、従事すべき事業を探していた[1][2]。
1879年春、事業の当てがついた。山口県出身で営繕の職にあった平岡通義氏が帰省し、東京深川では工部省の直轄でセメントを製造しており、原料は隅田川尻あたりの泥土と石灰であると語った。笠井順八氏はこの話を人づてに伝え聞き、そのとき「動脈ガ鼓動スルカノ感ジ」がしたと後年振り返った。笠井氏はただちに知人の荒川佐兵衛氏へ話を持ちかけ、二人で手探りの実験を試みた[3]。
深川での教示と、創立に掲げた二つの動機
1880年1月、笠井順八氏は大理石と有帆川尻の泥土を携え、荒川佐兵衛氏とともに上京した。工部卿の井上馨氏に相談すると、深川工作分局でよく研究するよう助言され、同局でセメント製造の指導にあたっていた大技長の宇都宮三郎氏を紹介された。両名は、小野田には石炭があり石灰石は対岸の恒見で採れると説明し、宇都宮氏から賛意と技術上の教示を得た。創業を決意したのはこの1880年1月であったと、『セメント製造会社第壱回報告』は記す[4][5]。
1880年5月に山口県庁へ提出した「就産金拝借願」には、創立の動機が二つ記されていた。一つは出資者が自ら働いて生計を立てる道に就くこと、いま一つはセメントの輸入を防ぐことにあった。笠井順八氏は後者を、「わが国の泥土をもって外国の金貨を輸入し、国民たるの義務を尽くそう」と言い表した。秩禄処分で家禄に代えて金禄公債を交付された士族の救済と、輸入を止めて金貨を節約するという主張とが、一つの事業計画に重ねられていた[6][7]。
決断
見積の半ばに満たなかった拝借金
「就産金拝借願」が見積もった事業資金は6万1600円で、深川工作分局の経験から算出された。願書は1880年5月25日、山口県令の関口隆吉氏から内務卿の松方正義氏へ上申される。同年8月5日、松方氏は請求額のうち2万5000円の貸下を認可した。1880年7月から1885年6月まで5年を無利子で据え置き、以後は年利4%で15カ年賦とする返済条件は、当時としてきわめて有利であった。ただし額そのものは、見積の半ばにも満たない[8]。
不足する3万6600円をどこから調達するかが、事業の成否を分ける問題として残った。笠井順八氏は萩をはじめ各地を回り、荒川佐兵衛氏や笠井氏自身を含めて39名の同志を得たものの、現金を出せる者は乏しかった。そこで「セメント製造会社規則」第2条は、資本を7分利付の金禄公債証書の額面8万8000円と定め、当面は5万7150円を募集すると記した。額面50円を1株とし、株券は公債証書の預り券とされた[9][10]。
所有権は株主に残したまま、抵当だけを会社へ
この資本の組み方には、当時の常識から外れた仕掛けがあった。各地で設立された国立銀行では、株主が公債証書で出資すると所有権は銀行へ移り、一種の現物出資となっていた。規則第2条第3節は、募集する公債証書は政府拝借金の抵当や借用の質物に充てるのみで、銀行の株主のように証書を会社の所有物へ譲り渡すわけではなく、社長に対し質物へ差し入れる権限を委任するにすぎないと定めた。商法も公布されていない時代に、公債の所有権は株主の手に残された[11]。
もっとも、この仕組みは有価証券の貸付に徹していたわけではない。同規則第8条第2節は、営業上のつまずきや輸送の事故で損失が生じたときは、抵当として差し入れた公債証書で償却しなければならないと定めており、基本的な性格は現物出資に近かった。笠井順八氏は後年、この社則を今から見れば類のない変則だったと振り返った。社史は、株主が所有権の移転を嫌った事情と、経営の先行きが危ぶまれるなかで譲歩なしには出資者を集められなかった事情の二つを、変則の理由に挙げる[12][13]。
結果
徳利窯での操業開始と、外部試験による品質の公認
1881年5月3日、山口県令の原保太郎氏が規則を聞き届け、わが国最初の民営セメント製造会社が成立した。工場の建設は翌1882年に本格化したが、大阪砲兵工廠と神戸工作分局へ発注した機械の納期が大幅に遅れ、1882年末になっても機械の据付と窯の築造は終わらなかった。全設備が整ったのは1883年3月で、同年6月に石灰石と煽石の購入を始めて製造に入った。不慣れから失敗を重ね、製品を得たのは7〜8月頃とみられる[14][15]。
製法はイギリス由来の湿式法で、焼成には徳利窯と俗称された竪窯を用いた。品質は早くから外部の試験で確かめられた。1884年、神戸鉄道局へ提出した見本品は同局係官の精密な試験ですこぶる良好な成績を示し、粘著力・伸開力ともに東京深川の製品より稍々上等と位置する評価を得て、以後は同局から継続的な注文を受けた。1886年には農商務省分析課の化学分析と横浜鎮守府の物理試験を願い出て、いずれからも外国品に劣らざる優秀品と認定する証明書を得た[16][17]。
147名の株主と、預かった公債の売却
出資の形態は、株主の顔ぶれにも表れた。1884年1月の株主名簿によると株主総数は147名で、10株以下の中小株主が126名と85.7%を占め、20株以上はわずか6名にすぎない。80株を持つ笠井順八氏が他に抜きん出た筆頭株主で、山口県官吏の勝間田稔氏が21株、取締の野上謙三氏が20株と続いた。家禄に代わる公債を握ったまま一株を投じられる仕組みが、萩や山口の士族を広く薄く集めた[18]。
会社が預かった公債そのものの寿命は短かった。1886年10月の株主臨時総会は、資本として預かった公債の売却を議決した。抵当に差し入れられていた証書は現金へ換えられ、所有権を株主に残すという創立時の建て前は、操業が軌道に乗った時点で役割を終えた。笠井順八氏はその後も中小株主の持株を引き取って持分を増やし、1901年まで社長の任にあった[19][20]。
- 小野田セメント百年史(小野田セメント, 1981年)第1章「セメント製造会社」の創業
- 『日本産業史』第1巻 中小・在来工業(日本経済新聞社・日経文庫)「在来工業-苦境から新秩序へ」
- セメント製造会社第壱回報告(1882年12月31日付)※小野田セメント百年史所収
- セメント製造会社規則(1881年3月議決)※小野田セメント『創業五十年史』(1931年)所収