小野田セメント セメント聯合会への不参加 第3次関東州・朝鮮への別法人設立
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何をなぜ決めたか
- 概要
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1934年11月20日、小野田セメントは関東州小野田セメント製造と朝鮮小野田セメント製造を設立し、大連・鞍山・平壌・川内の4工場の設備を両社へ賃貸した。その9日後に商工省が重要産業統制法をセメント産業へ発動し、第3次セメント聯合会の協定が非加盟者にも及ぶことが決まる。外地の生産を統制の外へ置く措置であった。
- 背景
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満州事変後の需要急増で同業各社が競って増産に走り、過剰な能力が業界の不況を招いた。13社は増産中止協定と第3次聯合会の結成へ動いたが、小野田セメントは商工省の裁定案を拒んだ。業界困難の禍根は最近の巨大増産にある、というのが理由であった。
- 内容
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両社とも資本金50万円(払込済25万円)で、株主は小野田セメント(84%)と役職員15名(16%)に限られた。訣別声明書は、製造業者の利益保護に傾いた統制を批判し、需要者の利益もあわせて考えることを新聯合会への参加条件に掲げた。
- 含意
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1935年11月のセメント懇話会結成後、内地・朝鮮・満州を巻き込む乱売合戦となり、仁川沖着値段は1年で30%弱下がった。1936年7月の笠井・金子協定で終息し、外地工場の生産高比は1937年に64.0%、全社シェアは19.3%から25.6%へ回復した。
いつ何が起きたか 7件
筆者の見解
統制の外で守ったものと、壊したもの
セメント聯合会を1924年に作り、初代議長を出したのは小野田セメントであった。その会社が10年後、第3次聯合会に加わらず、法の発動の9日前に外地4工場を別法人へ移して統制の枠の外へ出した。訣別声明書が掲げた需要者の利益という論拠は、商工省に各地の基準価格を引き下げさせてもいる。拒んだのは製造業者だけを守る統制であって、統制そのものではなかった。
代償は価格であった。仁川沖着の値段は1年で30%弱下がり、平壌・川内の両工場は限産の声明を掲げながらフル操業で内地へ売り込んだ。需要者の利益を論拠にした会社が、業界全体の値崩れを招いた当事者でもある。守られたのは外地の増設計画で、外地工場の生産高比は1937年に64.0%へ達した。もっとも、その庇護は長く続かず、同じ年の2月には統制法が朝鮮へも及んで、統制の外という位置そのものが失われた。
Yutaka Sugiura, 2026年8月
業績の推移
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参考文献
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第6章第3節 1.第3次セメント聯合会への不参加
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第6章第3節 2.乱売競争/3.紛争の終息
- 小野田セメント百年史(小野田セメント、1981年)第6章第4節 朝鮮・満州での増産計画
- 日本産業史 第1巻(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」