積水ハウス 代理店販売の廃止と直販への転換 販売と施工を自社で担う体制への切り替えと、高級化路線の採用

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時期 1963年6月
当時の社長 田鍋健
論点 経営再建と販売方式の転換
何をなぜ決めたか
概要

1963年、設立から3年で累積赤字を抱えた積水ハウス産業に、積水化学工業専務から転じた田鍋健社長が就任し、代理店販売を廃して社員による直接販売・責任施工へ改め、社名を積水ハウスに変え、"プレハブは安物"のイメージを覆す高級化路線へ転換した経営判断。

背景

1960年に積水化学工業のハウス事業部を母体に発足したが、プレハブ住宅は在来工法より割高で売れ行きは低調だった。売上高は1961年7月期2億6000万円、63年12億4000万円と伸び悩み、累積赤字を抱えていた。

内容

1963年6月に田鍋健社長が就任し、10月に社名を積水ハウスへ変更。積水化学からの出向社員を移籍させ、責任の所在が曖昧な代理店販売を廃して社員による直接販売・責任施工へ切り替え、デラックスタイプ"F型"など高級住宅を投入した。

含意

販売を自社の社員に一本化し、値段の安さでなく質で選ばせる高級化に振ったことが、1964年の黒字化と、その後15年連続の増収増益・1970年の株式上場につながった。田鍋健社長はのちに積水ハウスの中興の祖と呼ばれる。

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筆者の見解
筆者の見解

値段でなく質で選ばせるという選択

この経営判断の核心は、売れない原因を製品や市場のせいにせず、売り方と商品の位置づけの両方を同時に変えた点にある。代理店任せの販売を社員による直接販売・責任施工へ改めたことは、コストの上昇を承知のうえで、顧客との接点と品質の責任を自社に取り戻す選択だった。同業他社が量産・量販に不利とみて避けた道を、田鍋健社長はあえて選んだ。

もう一つの選択が、高級化だった。"プレハブは安物"という評価が定着していた時期に、あえてデラックスタイプを主力に据えたことは、価格競争から距離を置き、質で選ばれる会社をめざす宣言でもあった。累積赤字を抱えた発足3年目の会社を1年で黒字に変え、以後15年の連続増収増益と株式上場へ導いた田鍋健社長は、のちに積水ハウスの中興の祖と呼ばれる。売れない事業をたたむか、売り方から作り替えるか——この決断は、後者を選んだ経営者の判断として振り返る価値がある。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

業績の推移
同じ問いに直面した会社

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販路の転換1977年三菱電機生産志向でつくられてきた事業部編成の解体と、市場を起点とする体制への組み替え事業編成と販売体制
1998年ニッセイ同和損害保険料率自由化を前にした支店制への移行と代理店網の選別自由化への対応と販売網の再構築
1930年ニップン三井物産への製品一手販売の委託と、日清製粉を含む共同販売体制の構築過剰能力下の販売体制と価格の維持
2017年三陽商会Sanyo Innovation Plan 2017 の始動と、2年で修正に追い込まれた定量計画主力ブランド喪失後の事業構造改革と経営再建
1901年小野田セメント販売機能を自前で持たず外部へ全面的に委ねる体制への切り替え経営危機下の販売機能の委託と再建
経営再建1963年横浜ゴム首位を明け渡した後の巻き返しと、島崎敬夫社長による経営刷新首位陥落からの再建と自立
1969年パルコ百貨店業からの撤退と、専門店に場所を貸す商売への転換業態転換と経営再建
1970年ケンコーマヨネーズ家庭用の売り場を大手2社に委ねた業務筋への絞り込みと、キユーピー出身の工場次長による再建の引き受け弱小メーカーの再建と市場の選び方
1952年ダイキン砲弾でつかんだ資金を元手とする、化学と冷熱機器への業態の組み替え軍需依存からの脱却と事業ドメインの転換
1946年シチズン時計軍需会社からの再転換とミシン・農具案の不採用敗戦後の事業選択と時計事業への復帰
参考文献
出典・参考
  • 日本会社史総覧(1995)
  • 実業の世界 1972年10月号
  • 証券アナリストジャーナル 1972年10月号
  • 日本経済新聞「私の履歴書」田鍋健(1985年10月連載、『私の履歴書 経済人23』日本経済新聞社, 1987 所収)
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号

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