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「需要は待つな、創れ」——石油危機下の需要創造経営

1976年実施

住宅需要が急減するなか、田鍋健社長は自社ローンと「売り建て」でどう受注を掘り起こしたか

時期 1976年3月
意思決定者 田鍋健(社長)
論点 低成長下の需要創造
概要
1970年代、第1次石油危機でプレハブ住宅の需要が急減するなか、積水ハウスが業界初の自社ローン、保有土地を活かした「売り建て」方式、中古住宅仲介の積和不動産、商品の「家のデパート化」を次々に打ち、外的要因で需要が細っても受注を自ら掘り起こす需要創造の経営を進めた経営判断。
背景
1973年11月の石油危機以降、プレハブ住宅の建設戸数は1973年のピーク20万戸台から1975年には15万戸へ急減した。高度成長末期に参入したカネボウや大林ハウジングなど後発組が撤退・戦線縮小に追い込まれた。
内容
銀行との提携ローンに加え業界初の自社ローンを創設し、値上げ幅を同業平均30%の半分の15%に抑えた。造成地を一括で買い取り住宅とセットで売る「売り建て」方式、買い換え需要をつかむ積和不動産の育成、木質・コンクリート系まで広げた「家のデパート化」を重ねた。
含意
需要は所与のものとして待つのでなく、金融・土地・仲介・品ぞろえの工夫で自ら掘り起こす発想が15年連続増収増益を支えた。1979年1月期には経常利益207億円と、大成建設を抜き最大手の鹿島建設に迫った。
筆者の見解

需要は所与か、創り出すものか

この経営判断の核心は、外的な需要の増減を所与のものとして受け入れず、金融・土地・仲介・品ぞろえという複数の面から需要を自ら掘り起こした点にある。石油危機で住宅需要が細り、後発の大資本が撤退するなかで、積水ハウスは自社ローンで資金の壁を下げ、「売り建て」で土地の壁を越え、積和不動産で買い換えの壁を取り払い、「家のデパート化」で好みの多様化に応えた。いずれも、注文を待つのでなく、受注そのものを掘り起こす発想で貫かれていた。

値上げを他社の半分に抑えると読み切った採算判断や、土地取得の金利で赤字が出ても本業で回収するという読みは、いずれも田鍋健社長の相場観に支えられていた。積極経営は自己資本比率や金利負担を一時的に悪化させ、リスクと隣り合わせでもあった。それでも、需要は待つのでなく創るものだという構えが、石油危機という逆風のなかで15年連続増収増益と、大手ゼネコンに迫る利益水準を実現した。低成長を理由に伸びないと決めつける前に打てる手はある——積水ハウスのこの時期の経営は、業種を越えてその問いを投げかけている。

Yutaka Sugiura, 2026年7月

背景

石油危機とプレハブ需要の急減

積水ハウスは、社員による直接販売・責任施工を土台に、1960年代後半から高成長を続けてきた。しかし1973年11月の石油危機は、住宅産業の前提を揺るがした。金融引き締めによる住宅ローンの圧縮が需要に水を差し、プレハブ住宅の建設戸数は1973年のピークだった20万戸台から1975年には15万戸へ急減した。1978年になっても回復の足取りは重かった[1]

「自動車に次ぐ花形産業」ともてはやされたプレハブ住宅の熱気は冷め、大資本を背景に高度成長の末期に参入した後発企業ほど打撃を受けた。カネボウや大林ハウジングなど、この時期に撤退や戦線縮小に追い込まれた企業も出た。需要そのものが細るなかで、各社は受注の確保に苦しんだ[2]

決断

業界初の自社ローンと「売り建て」方式

こうした環境で、積水ハウスは需要を所与のものとして待つのでなく、自ら掘り起こす手を次々に打った。まず、銀行との提携ローンに加えて業界初の自社ローンを創設し、資金の調達先を地方銀行・相互銀行、さらに信用金庫にまで広げ、株式市場では時価発行増資で資金を集めた。顧客にローンを付けて住宅を売る一方、住宅資材が高騰するなかでもプレハブ住宅の値上げ幅を、同業平均の30%の半分にあたる15%に抑えた。役員が値上げ幅の修正を迫るなか、田鍋健社長は「資材価格はすぐに落ち着くから、今の価格で十分もうかるんや」と押し通し、この読みが的中して他社に差をつけ始めた[3][4]

土地の面でも新しい売り方を編み出した。1975年後半、住宅ローン資金は金融緩和で潤沢になった一方、安くて良質の宅地が得にくいことが受注のネックになった。そこで積水ハウスは、大手デベロッパーから造成地を一括で買い取り、それを比較的安く提供する代わりに、その上に建てる住宅を自社に発注してもらう販売方式を進めた。従来の「建て売り」に対し、同社はこれを「売り建て」方式と呼んだ。1979年1月期末の土地保有高は995億円に達した。田鍋健社長は、土地取得の金利で多少の赤字が出ても、本業の住宅が売れれば会社全体では十分に採算が取れると読んでいた[5][6]

積和不動産と「家のデパート化」

買い換え需要にも手を伸ばした。都市部で住宅を買う人の約半分は、いまの住まいを売った資金を元手に新しい家を買う「買い換え需要者」だったが、中古住宅の流通市場はほとんど整っていなかった。1976年、積水ハウスは中古住宅仲介の積和不動産を大阪で設立し、その後、東京・名古屋にも同名の会社を設けた。仲介そのものが新しい事業になったうえ、いまの家の売却を引き受ける代わりに新しい家は積水ハウスへ、とセールスマンが持ちかけられる利点も生んだ[7]

商品の幅も広げた。積水ハウスの売上の9割は創業以来の鉄骨系プレハブだったが、ミサワホームが得意とする木質系や、コンクリート系、ツーバイフォー工法、さらに一般の注文住宅にまで手を広げ、業界では「プレハブの枠を越えた家のデパート化」と評された。1戸当たりのプレハブ化率をあえて下げ、コストの上昇を承知で、利用者が自由な設計や間取りを楽しめるようにした。消費者の好みの多様化に応じた品ぞろえが、需要の掘り起こしを支えた[8]

結果

15年連続増収増益と「プレハブ会社から脱皮」

一連の手が受注につながり、業績は伸び続けた。1979年1月期の売上高は3040億円と前期比11%増、経常利益も207億円と13%増え、1964年以来15年連続の増収増益となった。大手建設会社と比べると、大成建設(1978年3月期の経常利益110億円)を1978年決算で上回り、最大手の鹿島建設(1978年11月期の経常利益265億円)に迫った。積極経営は自己資本比率や金利負担を一時的に悪化させたが、同社は挑戦して成果を上げた[9]

田鍋健社長は「うちはプレハブ会社から脱け出し、大手の建設会社に仲間入りした」と語った。もっとも、全住宅産業に占める同社のシェアはなお2%程度で、地元の工務店が65%を握る市場で「7~8%のシェアを取りたい」という目標の達成は先の話だった。住宅産業から総合建設業への脱皮という、次の課題も残された[10]

出典・参考
  • 日経ビジネス 1979年3月19日号「積水ハウス 自社ローン、売り建てで需要創造経営」
  • 日本会社史総覧(1995)