全国65営業所を独立採算の「企業内企業」にした組織改革
拡大する営業網の官僚化を避けるため、田鍋健社長はなぜ本社の権限を手放したのか
更新:
- 概要
- 1978年、積水ハウスは全国65カ所の営業所を独立採算の「企業内企業」とし、65人の「経営者」を置いて評価と権限を現場に移す組織改革を進めた経営判断であった。
- 背景
- 田鍋健社長は1963年の社長就任以来、社員による直接販売・責任施工体制を敷き、1975年時点ですでに「社長と営業所長と営業マンしかない」戦時機動型の指揮系統を語っていた。過当競争下で同業の倒産も相次いでいた。
- 内容
- 各営業所を「1人当たり付加価値」で評価する独立採算の「企業内企業」とし、本社機能を資金配分・会計処理・工場の生産管理などの支援業務に絞った。稟議を経ず、営業所長は社長への直通電話で即決裁を得る仕組みを敷いた。
- 含意
- 中央集権的な大組織が低成長期に硬直化する懸念に対し、権限を現場へ委ねて社員一人一人に経営者の自覚を持たせる先進事例として日経ビジネスに取り上げられ、値崩れの防止と高水準の収益力を両立させた。
権限を手放した経営はどこまで続くか
この経営判断の核心は、急成長のさなかにありながら、あえて権限を営業の最前線へ委ねた点にある。田鍋健氏が1975年の時点ですでに稟議を後回しにする即断即決の指揮系統を敷いていたことを踏まえると、1978年の企業内企業構想は思いつきの制度ではなく、社長個人の意思決定様式を組織全体の設計原理へ広げた到達点とみることができる。65カ所の営業所を独立採算の「経営者」とみなし、1人当たり付加価値という単純な物差しで評価した仕組みは、拡大する組織にありがちな官僚化を避ける装置として働いたとうかがえる。
もっとも、この体制が成り立ったのは、田鍋氏自身が全営業所を直接把握できる規模と、直販・責任施工という自社完結型の事業モデルがあったことも大きいとみられる。本社をあえて小さく保ち「指示すれど管理せず」を貫く経営は、トップの目が末端まで届くという前提の上に成り立っており、会社の規模がさらに拡大したのちにこの分権思想がどう変容していくかは、当時はまだ見えていなかった。それでも、大組織の硬直化という当時の経営課題に対し、現場に「商人」の自覚を求める仕組みを早い段階で確立した点は、積水ハウスのその後の組織運営を考えるうえで示唆に富むといえる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
「社長・営業所長・営業マンしかない」指揮系統
積水ハウスは、1963年6月に社長へ就任した田鍋健氏の下で、社員による直接販売・責任施工方式を柱に営業所網を広げていた。1975年当時、営業所は全国47カ所に達し、田鍋氏は自社の指揮組織を北大西洋条約機構になぞらえ、社長・営業所長・営業マンの三層しかない簡素な系統だと説明した。ピラミッド型の大組織のように命令が幾段階ものステップを経て下に届く仕組みではなく、社長が全営業所を直接把握する体制であった[1]。
田鍋氏は、現場の営業所長から「社長、こうしたい」と提案が上がれば、稟議を経る前にまず実行させ、書類はあとから回すという意思決定の様式を語った。中間段階の裁可を待たせていては現場の機動力が失われるという判断で、権限を営業の最前線に委ねるこの様式は、この時点ですでに1978年の組織改革の土台になっていた[2]。
過当競争のなかで問われた組織の耐久力
1970年代後半の住宅産業は、景気刺激策の追い風を受ける一方、業界内では過当競争が続いていた。1978年2月には後発の中堅メーカーが倒産するなど、値崩れ防止に苦しむ企業が目立った。そうしたなかで積水ハウスは、1978年7月中間決算で経常利益80億円、前年同期比15%増という業績を確保していた[3]。
誌面はこの時期、企業規模が拡大するほど組織はコミュニケーションを欠き反応が鈍くなるとし、高度成長期には威力を発揮した中央集権的なピラミッド組織が、低成長期には方々でほころびを見せ始めたと解説した。子会社を分離独立させる動きは大企業の間にも相次いでいたが、その多くは前向きな哲学を欠く「敗戦処理型の別会社化」にとどまるとの識者の見方も紹介された[4]。
決断
65カ所の営業所を独立採算の「企業内企業」に
積水ハウスは、全国に散らばる65カ所の営業所を、それぞれ独立採算の「会社」として運営し、65人の「経営者」を置いた。法的に独立した株式会社ではなかったが、経理面での独立採算に加え、人事や商品企画、販売など事業活動のほとんどの責任を各営業所に持たせた点に特徴があった[5]。
評価は常に「1人当たり」で行った。各営業所の業績は、売上高から自社工場からの住宅の仕入れ価格を差し引いた粗利益を求め、そこから本社からの借入金の金利などの経費を差し引き、これを所属人員で割った「1人当たりの付加価値」で測る仕組みとした。大量の人員を投じても業績向上とはみなさず、少人数で高い付加価値を上げることを求める評価方式であった[6]。
「指示すれど管理せず」――最小限の本社機構
本社機能は最小限に抑えた。稟議システムは持たず、営業所長は社長への直通電話で決裁を仰ぎ、了承を得ればただちに仕事へ取りかかる仕組みとした。本社は各営業所の資金配分、会計処理、工場の生産管理などを引き受けるスタッフ機能に徹し、営業所と本社が直結する組織の平面化を進めた[7]。
田鍋氏は「営業所が一番大切な部門で、会社の利益を生むのも営業所です。そこに権限と責任を持ってもらうことにしたのです」と述べ、営業所を独立採算の「企業内企業」にしたのは自ら望んで作った組織というより「お客さんがつくった組織」だと語った。本社機能を絞り込む考え方は徹底し、田鍋氏に住宅の値引きを頼んだ知人が営業所から断られた逸話も、社長本人が明かした[8]。
結果
値崩れなき高収益
積水ハウスの経常利益は、1970年代を通じて大和ハウス工業・ミサワホーム・ナショナル住宅建材といった同業他社を上回る水準で推移した。1978年7月中間決算では経常利益80億円、前年同期比15%増を記録し、過当競争と一部同業の倒産が相次ぐ業界の中でも堅調な業績を保った[9]。
通期でみても、1978年1月期(単体)の売上高は2615億円、経常利益は182億円、当期純利益は85億円に達し、前期(1977年1月期の経常利益168億円)から伸びた。「企業内企業」の仕組みのもとでは、1人当たりの付加価値を下げる値引きには応じられないという意識が営業所単位で徹底され、同業他社に比べて値崩れが少ないという評判につながった[10][11]。
- 日経ビジネス 1978年11月20日号「組織革新の決定打 企業内企業のすすめ」(実例Ⅰ 積水ハウス)
- 日経ビジネス 1975年5月26日号「戦国式経営『やってみい、禀議書はあとから』——田鍋健氏(積水ハウス社長)が語る前線直結主義」
- 積水ハウス 会社年鑑(1986年版)