大正製薬ホールディングス特約株主制度による株式会社化と、取引先小売店を株主とする直販網の構築

卸・問屋に販路を委ねるか、小売店を株主にするか——資本と販路を一枚の株主名簿に重ねた設計

時期 1928年4月
意思決定者(推定) 石井絹治郎・上原正吉 社長・提案
論点 販路の確保と株式会社化
概要
1928年、個人経営であった大正製薬所が株式会社大正製薬所として法人化し、取引先の小売販売店に自社株を持たせる「特約株主」制度を発足させた経営判断。資本金は100万円、うち払込資本金は25万円であった。上原正吉氏が石井絹治郎社長に提案し、卸・問屋を通さない直接取引の販路を、株主名簿と重ねる形で組み立てた。
背景
1923年の関東大震災を機に地方へ販路を広げようとした大正製薬所は、卸商と問屋が販路網を握る実態に突き当たった。1920年から続く慢性不況で代金回収も滞り、1924年には大阪支店を閉じている。1925年ごろに石井社長が発案した「特約店連盟」制度が、直接取引を一挙に広げる最初の試みであった。
内容
4分の1払込済みの石井社長の持株を取引先に買ってもらい、5株を最低の株主単位、配当は最高1割を限度とする。それを超える利益は株主である取引先の販売実績に応じて払い戻し、取引先株主には各種の特恵待遇を与える。1928年4月1日に旧大正製薬所を24万8,767円39銭で買収して営業を開始し、5月5日の株券発行日を創立の日と定めた。
含意
卸売制度の強固な薬品業界で、直販制度と株式会社化を結び付けた方策であった。業界誌には、幾多の城壁と因襲を抱える薬業界でチェーンシステムに変更した石井社長の態度を「敬服すべき逸話」とする同時代の評も載った。1946年の上原正吉氏の第3代社長就任も、株主の圧倒的多数を占めた特約株主の支持に支えられた。
筆者の見解

株主名簿の上で片づけた二つの課題

取引先に株を持たせるという上原正吉氏の案は、資金を集める手立てと販路を押さえる手立てを、一枚の株主名簿の上で同時に片づけるものであった。加盟金100円を預かる特約店連盟は、山竹東京支店長が見抜いたとおり資金集めの算段でもあった。それを株式に置き換えれば、預かった金は返す必要のない資本になり、相手は配当と割戻を受け取る取引先として残る。卸を通さなければ売れない業界で、卸と争わずに小売店と直接つながる関係を資本の側から作った設計であったとみることができる。

もっとも、この仕組みは最初から思うように働いたわけではない。1928年の募集は販売員の手を取られて当座の売上を削り、最低5株の100円は地方の薬局には重く、発足から数年で株主の増勢は止まった。動き出したのは、1935年に減資と増資を組み合わせて12円50銭払込の新株まで最低単位を下げてからであった。制度そのものより、売る側の懐具合に合わせて条件を組み直したことが効いた。提案した上原氏が1946年に株主の支持で社長へ押し上げられたのも、その組み直しの延長にあったとみられる。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

卸商と問屋が握っていた販路

1923年9月の関東大震災で東京と横浜の得意先の多くが被災し、売掛代金の大部分が未収となった。大正製薬所は東京周辺の復興を待たず、全国を3つに分けて中堅社員3名を販路拡張のために送り出した。埼玉から宮城までを回った上原正吉氏がそこで痛感したのは、地方の販路網が卸商と問屋筋にしっかり握られ、そこを通さなければ商売が成り立たないという実態であった。東京市内では小売商との直接取引も動いていたが、地方で同じことを増やすのは容易ではなかった[1]

問屋と卸商に任せれば販売経費も手間も省けるが、不況が深まれば代金の回収が滞る。当時の日本経済は1920年から11年続けて物価が下がる慢性不況のただ中にあり、不況への備えは重い課題であった。大正製薬所でも、1918年に開いた大阪支店を、体素の問屋であった土岐浅太郎商店の倒産などにより1924年に閉じている。卸に頼る販路は、経費が軽い代わりに取引先の破綻がそのまま自社の損失になる仕組みでもあった[2]

「特約店連盟」という先例

直接取引を一挙に広げる仕組みは、1925年ごろの「特約店連盟」制度として最初の形をとった。石井絹治郎社長の発案で、会員から100円の加盟金を預かり、会員章にあたる20円ほどの行灯式点滅灯看板を店頭に付けてやり、会員には特別の割戻をする。これで相当な資金が集まるかと社長に諮られた山竹東京支店長は、店の信用も貧弱で、無名の駄売薬を売るのに保証金を出せと言っても通らないとして反対した[3]

上原氏は、困難ではあるが金を預かることには理論が成り立ち相手を説得できる、割戻の条件次第で相当な金額は集まると主張した。所員会議は徹宵の議論になり、結論は「よし、そんならやってみよう」で一致した。石井社長がこの構想をどこから得たのかについて、80年史は1911年創立の星製薬の特約店制度を挙げている。創業者の星一氏はアメリカでドラッグチェーンの知識を得ており、大正初期の新聞広告には同社の特約店募集が頻出していた[4][5]

決断

取引先に株を持たせるという提案

特約店連盟をさらに進めたのが、上原氏の提案した「特約株主」の構想であった。大正製薬所を株式会社にしたうえで、取引先の小売販売店に株を持ってもらう。小売店は株主として配当金を受け取り、さらに販売高の実績に応じて割戻金の払戻しを得る。会社の側は安定した資本を確保し、同時に小売店とより密接な関係を結ぶ。売る相手と株主名簿を重ねる構想であった[6]

上原氏は繰り返し石井社長を説得し、賛同を得た。決まった細目は4点である。資本金は100万円とし、4分の1払込済みの石井社長の持株を取引先に買ってもらう。5株を最低の株主単位とし、配当は最高1割を限度とする。それを超える利益が出た場合は、株主である取引先の販売実績に応じて払い戻す。取引先株主には各種の特恵待遇を与える。配当と割戻という二重の見返りを条件に、小売店を資本の側へ招き入れる設計であった[7]

1928年の株式会社化

株式会社大正製薬所の創立総会は1928年に開かれ、取締役に石井絹治郎氏、高木好彦氏、上原正吉氏、大西岩次氏、監査役に赤羽根由松氏が選ばれた。資本金は100万円、うち払込資本金は25万円であった。4月1日の取締役会で石井氏を初代社長に選ぶと同時に、旧大正製薬所を24万8,767円39銭で買収することを決め、同日から営業を開始した。会社の登記を終えたのち、5月5日に株券を発行し、この日を創立の日と定めた[8]

役員のうち上原氏を除く全員が石井社長の親戚であり、従業員から選ばれたのは上原氏ひとりであった。80年史は、特約株主制による株式会社化への貢献が評価されたものとみている。ただし、募集は当座の売上を削りもした。1928年9月の営業報告書は、4月・5月の末まで組織変革による特約株主募集のために販売員の活動力を減殺したこと少なからず、と記している。募集をいったん打ち切って販売に力を注ぐと、売上率は上昇に転じた[9][10]

結果

100円の壁と、大正共成会への組み直し

制度は発足から数年で伸びが止まった。1934年秋、大阪支店長となっていた上原氏が奈良、和歌山、三重、岐阜、滋賀の各県下を長期出張で回ると、各地の薬局・薬店の多くが、最低5株にあたる100円を出す余裕を持たないことがわかった。上原氏はこの状況を改めるために新しい案を練り、石井社長に提言した。100円という最低単位を下げないかぎり、株主による販路は地方へ届かないという見立てであった[11]

新案は、払込を進めたうえで資本金100万円を50万円へ減資して全額払込済みとし、あらためて50万円を増資して額面50円・12円50銭払込の新株を発行するものであった。この新株を持つ1株株主の得意先で「共成会」という販売網を組み、会員だけの専売品を供給する。専売品は卸売業者には出さない。1935年2月14日の臨時株主総会で承認され、3月末に616名であった株主数は9月末に2,344名、1937年3月には3,492名に達した[12]

全国へ広がった株主網と、戦後の代替わり

株主は全国へ広がった。1937年3月末の株主地域分布では、株式会社化の当初はほぼ皆無であった西日本が約3分の1を占めた。各地に共成会の支部が置かれ、毎月定期的に会合して会の方針や製品への意見を述べ合った。1939年1月までに支部は全国で72、会員は4,500店に達した。業界誌『薬業往来』1938年1月号では、日本商励会社の松香雄三氏が、幾多の城壁と因襲を抱える薬業界でチェーンシステムに変更し株式会社に改革した石井社長の態度を「敬服すべき逸話と感じている」と書いている[13][14]

株主の顔ぶれは、戦後の代替わりでも意味を持った。1946年3月末の株主名簿では、株主総数4,005名のうち50株未満が3,953名を占め、その持株合計1万1,654株は総数2万3,800株の5割近くに達していた。同年6月、復員した石井輝司前社長が代表取締役を退き、専務であった上原正吉氏が第3代社長に選ばれた。80年史は、この交代の背景に特約株主の支持があったとみている。1963年に東京証券取引所第二部へ上場した時点で、取引店は約28,000店を数えた[15][16]

出典・参考
  • 大正製薬80年史(大正製薬, 1993年)
  • 上原正吉「故山竹東京支店長追慕特輯号」大正製薬 社内報『かたばみ』1941年12月号(大正製薬80年史 所収)
  • 株式会社大正製薬所 営業報告書(1928年9月期)(大正製薬80年史 所収)
  • 松香雄三「薬店に於ける最近に目立つ連鎖店組織の再吟味」薬業往来 1938年1月号(大正製薬80年史 所収)
  • 証券 1963年10月号「新規上場会社紹介(第二部・化学工業)大正製薬株式会社」

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