非繊維部門の拡充——繊維専業商社から総合商社への転換
繊維取扱高で世界一を誇った伊藤忠は、なぜ越後正一の社長就任と同時に社運を非繊維へ振り向けたか
更新:
- 概要
- 1960年に伊藤忠商事の第5代社長に就任した越後正一が、以後14年の在任を通じて非繊維部門の拡充を最重要目標に掲げ、繊維専業に近かった事業構成を重化学・資源・海外へと広げて総合商社へ転換させた面的な経営戦略。1962年3月期には非繊維部門の取扱いが売上の過半を超えた。
- 背景
- 戦後の再発足以来、伊藤忠は繊維貿易を軸に業容を広げ、繊維取扱高では世界一を保っていた。しかし繊維に偏った事業構成は市況変動の影響を受けやすく、昭和30年代から重化学部門の拡充にも着手して、総合商社への転換が課題となっていた。
- 内容
- 越後社長は「組織の和と能力主義」を基本理念に据え、思い切った人員配置換えで重化学部門を拡充し、海外へ急速に進出した。あわせて1961年の不況直前に資本金を100億円台へ倍額増資し、1964年には日本の商社で初めて欧州でドル建転換社債1250万ドルを発行して、拡大の原資を確保した。
- 含意
- 在任14年で売上高は10倍、資本金は6.5倍に伸び、非繊維が過半を占める世界的総合商社の骨格が定まった。もっとも石油・重化学分野の多角化は一部が重荷にも転じ、繊維からの脱皮がもたらした光と影は、その後の伊藤忠の経営に引き継がれた。
強みを残して弱みを埋めるという転換
この判断の核心は、世界一という繊維の看板を掲げたまま、あえて手薄な非繊維へ社運を振り向けた点にある。強みが際立つ会社ほど、その成功体験に縛られて次の柱を育てそこねる。越後正一氏が就任と同時に非繊維部門の拡充を「最重要目標」と言い切り、人員の配置換えと不況直前の資本増強までを一続きの戦略として進めた運びには、強みに安住しない規律がうかがえる。繊維を捨てずに非繊維を伸ばす二正面の経営を14年やり切ったことが、総合商社・伊藤忠の骨格を形づくったとみることができる。
ただ、広げた事業のすべてが果実になったわけではない。石油や不動産をはじめとする重化学分野の多角化は、のちに大きな損失の源にもなり、非繊維化の勢いは新たな重荷と表裏であった。繊維依存を脱するために踏み込んだ領域が、次の世代の課題を生む——その循環は、のちに岡藤時代の伊藤忠が「非資源で稼ぐ」という別の解を掲げるまで続いた。強みからの脱皮をどこまで、どの分野で進めるべきか。越後社長が開いた問いは、総合商社の事業構成をめぐる論点として、今日にも通じているとみられる。
Yutaka Sugiura, 2026年7月
背景
繊維で世界一、ゆえの偏り
1960年5月、越後正一氏は小菅社長の後を受けて伊藤忠商事の第5代社長に就いた。59歳であった。伊藤忠は戦後の再発足以来、繊維貿易を軸に業容を広げ、繊維の取扱高では世界一を保っていた。朝鮮動乱の特需、神武景気、岩戸景気と続く追い風を受けて売上を伸ばしてきたが、繊維に深く傾いた事業構成は、市況の変動をまともに受けやすい弱さも抱えていた。強みの一本足が、そのまま危うさでもあった[1]。
繊維への偏りを正す動き自体は、越後社長の就任前から始まっていた。伊藤忠は1955年に大洋物産を、1961年に森岡興業を合併するなどして重化学工業部門の拡充を図り、国内外のネットワークを増やしていた。総合商社への脱皮という方向は既に見えていたが、繊維から出発した会社にとって、他部門を売上の柱に育てるには時間と痛みが避けられなかった。越後社長は、この未完の課題を最優先に引き受けた[2]。
非繊維を最重点に据える
越後社長がまず手をつけたのは、経営の枠組みづくりであった。相談役制を設け、二代伊藤忠兵衛氏ほか二人の先輩に就任を願った。そのうえで会社経営の基本方針を定め、「組織の和と能力主義」を基本理念に掲げて、具体的な最重要目標に非繊維部門の拡充を据えた。この目標は、越後社長が語る時点まで一貫して変わらなかった。強みの繊維に安住せず、あえて手薄な分野へ社運を振り向ける宣言であった[3]。
非繊維へ社運を振り向ける決意の裏には、繊維に偏った事業構成への強い危機感があった。越後社長は、非繊維部門の拡充にこれほど心血を注がねばならなかったのは、その面における伊藤忠の弱さゆえだったと振り返っている。繊維から出発した会社が他部門を売上の柱に育てるのは、言うほどたやすくない。それでも最重要目標として掲げ続けた背景には、一本足の事業構成を放置できないという判断があったとみられる[4]。
決断
重化学と海外への配置換え
方針を実行に移すため、越後社長は思い切った人員の配置換えを断行した。繊維に厚く配していた人材を重化学部門へ振り向け、あわせて主に海外への急速な進出を進めた。その結果、1962年3月期には非繊維部門の取扱いがわずかながら売上の半分を超えた。就任からおよそ2年を要した転換であった。繊維から出発した会社にとって他部門への進出は容易でなく、失敗もあったが、営業の形態は目に見えて改善されていった[5]。
転換の勢いは数字にも表れた。非繊維部門は越後社長の就任前と比べて2.3倍に膨らみ、総合経営の色合いが一段と濃くなった。さらに越後社長は、総合化の次の軸として国際分業の理念に基づく海外活動を掲げ、各国の資源開発へ乗り出した。海外拠点を広げて世界6大州にわたる数十の事業を築き、投資額も巨額に膨らんだ。繊維商社から、資源と重化学を束ねる総合商社への輪郭が固まっていった[6]。
不況の先を読む資本政策
拡大には資金が要る。越後社長は、事業の配置換えと並行して、資本の手当てを不況の一歩手前で先回りして打った。1961年夏に強い金融引き締めが始まり、社長として初めての大不況に直面したが、その直前の7月に、思い切って資本金を100億円台へと一挙に倍額増資していた。翌年には倒産が1800件近くに達するなかで、増資による厚みが会社を支えた。市況の反転を読んで資本を厚くする判断が、拡大戦略の土台になった[7]。
資金調達では、海外の低利マネーにも早くから手を伸ばした。1964年、伊藤忠は日本の商社として初めて欧州でドル建転換社債1250万ドルを発行し、低利の外資を確保した。1965年からの構造不況に際しても、この前年に仕込んだ外資が備えになった。国内の資金だけに頼らず、海外市場から直接に資本を引くやり方は、海外進出を進める総合商社の資金戦略として先駆けであったとみることができる[8]。
結果
総合商社の骨格が定まる
14年に及ぶ越後社長の在任を通じて、会社の姿は一変した。売上高は10倍、資本金は6.5倍、人員は2.7倍に伸び、グループ会社は125社へと2.5倍に増えた。非繊維部門が過半を占める一方、繊維も切り捨てることなく拡大方針を続け、世界一の取扱高を保った。繊維専業に近かった商社は、資源・重化学・海外を束ねる世界的総合商社の実体を備えるに至った。強みを残しながら弱みを埋める転換であった[9]。
もっとも、急いだ多角化は光ばかりではなかった。越後社長の退任後、1978年の日経ビジネスは、国内の重化学工業化はほぼ達成されており、今後の総合商社が生き残る道は組織化力をどこまで発揮できるかにかかると論じた。同じ記事は、いまの伊藤忠に必要なのは将来のビジョンの確立だと注文をつけている。非繊維へ広げた事業構成が新たな課題を生み出していたことを、この論調は映していたとみることができる[10]。
- 日本経済新聞「私の履歴書」(越後正一、1975年)
- 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社)
- 日経ビジネス 1978年10月9日号「伊藤忠の憂鬱」