住友大阪セメント磐城セメントの住友グループ加入と、住友セメントへの商号変更

配当30%を続ける会社が、なぜ創業以来の社名を自ら手放したのか

時期 1963年5月
意思決定者(推定) 斎藤次郎 社長
論点 資本系列と商号
概要
1963年、月産能力で業界3位・配当30%を続けていた磐城セメントが、斎藤次郎社長の申し入れによって住友グループに加わり、10月1日付で1907年以来の社名を住友セメントへ改めた経営判断。翌1964年6月には住友グループの社長会である白水会に加盟した。
背景
石炭の斜陽化に直面した住友石炭鉱業が福島県でのセメント工場新設を準備しており、実現すれば三菱・三井・住友の旧財閥系がセメント業界に出そろう。斎藤社長は競争の激化を避け、原料と販路を同時に確保する道を探した。
内容
1963年5月29日の第95回定時株主総会で、商号変更・本社の東京移転・取締役の増員・代表取締役2名制を一括決議した。旧来の経営陣から5名が退き、住友グループから常勤3名・非常勤3名の計6名が役員に入った。
含意
財務の窮迫による身売りではなく、好業績のさなかに自ら系列を選んだ点に特徴がある。住友系6社の持株比率は1964年3月末で34.88%に達し、販路・燃料・設備の各面で結びつきが日々の実務にまで及んだ。
筆者の見解

好調なうちに、自ら差し出したもの

配当30%を続け、月産能力で業界3位にあった会社が、外から迫られたわけでもなく1907年以来の社名を手放した。斎藤社長が挙げた理由のうち最も重いのは、磐城セメントを身内に渡すほどの資本家ではない、という自己認識であった。手元の持株で会社を守る道を早々に諦め、経営と資本が分かれた旧財閥の側へ自社を置き直している。この順序は当時としては珍しく、受け手の側では堀田頭取が申し入れの真意を疑い、白水会からは早過ぎるという声も出た。

加入の2年後、セメント業界は市況の悪化に沈んだ。キルン稼働率は59%まで落ち、斎藤社長はセメント協会会長として設備自粛の取りまとめに回っている。住友の看板が市況を支えたわけではない。効いたのは、住友商事の販路、住友石炭鉱業の燃料、和歌山セメントの合併から生まれた赤穂工場という、個別の取引と設備であった。社名の変更それ自体よりも、変更を先に済ませたことで動かしやすくなった実務の側に、この判断の実質があった。

Yutaka Sugiura, 2026年8月

背景

最後発から業界3位へ

磐城セメントの設立は1907年11月で、資本金100万円、本店を横浜市に置き、福島県四倉町に最初の工場を建てた。初代社長は吉永仁蔵氏である。セメントの国産化では小野田・浅野といった先発組に四半世紀ほど遅れた最後発だったが、大正期から昭和初期にかけて日の出セメント・鈴木セメント・富国セメント・豊国セメントなどの合併を重ね、戦時の企業整備では浅野・小野田・秩父・大阪窯業・宇部・産業セメント鉄道と並ぶ7社の一角に残った[1][2]

1963年3月期の業績は、売上高319億9,280万円・税引前利益57億4,100万円・配当30%であった。同年3月31日には福島セメント・住友石灰工業の2社を吸収合併し、月産能力のシェアは12.77%から16.06%へ上がっている。過当競争と設備過剰を抱えるセメント業界のなかで、磐城セメントは屈指の競争力をもつ会社と目されていた。資本や販路を他社に頼らねばならない事情は、財務のどこにも見当たらない[3][4]

住友石炭鉱業のセメント進出計画

1950年代後半からのエネルギー源の石炭から石油への転換は、石炭産業の斜陽化を招いた。住友石炭鉱業は石炭の自家使用と雇用対策を兼ねてセメント事業への進出を企図し、全国で石灰石鉱区を取得したうえ、1960年以降は福島県相馬郡の鉱区を使う新工場の準備に入った。住友グループにはセメント会社がなく、この構想を後押しする気運がグループ内に高まっていた。同じ福島県の田村郡で新工場を計画していた磐城セメントにとっては、県内での重複投資と過剰生産を招きかねない話であった[5]

斎藤次郎社長がこの計画を知ったのは1960年ごろで、動きは速かった。住友がセメントに入れば三菱・三井・住友の旧財閥大手が並び立ち、業界が混乱すると読み、1961年にかけて住友銀行の堀田庄三頭取に自ら接触して提携を申し入れている。三菱系は1954年設立の三菱セメントが伸びており、三井系も1963年6月に三井セメントを設立する。磐城セメントが選んだのは、住友の参入を押しとどめる道ではなく、自社が住友の側に回る道であった[6][7]

決断

1963年5月29日、第95回定時株主総会の一括決議

1963年5月29日の第95回定時株主総会は、福島セメントなど2社の合併報告と第95期決算の承認に続けて、4つの議案を一括で決議した。10月1日をもって商号を住友セメント株式会社に改めること、1964年4月1日から本社を栃木県葛生町から東京都台東区へ移すこと、取締役を12名以内から17名以内・監査役を2名以内から3名以内へ増やすこと、代表取締役を1名から2名にして副社長を置くことの4点である。社名と本社と取締役会を、一度に組み替える決議であった[8]

同じ総会で、従来の経営陣から常務・取締役合わせて5名が退任し、住友グループから常勤3名・非常勤3名の計6名が新たに役員となった。常勤の3名は住友石炭鉱業専務の古賀進氏、住友商事常務の谷津真氏、住友原子力工業常務の秋谷伊織氏で、古賀氏が副社長、他の2名が常務取締役に就いた。翌1964年5月には住友銀行常務の安濟良一氏が加わり、住友グループ出身の常勤取締役は4名となる。経営が行き詰まった会社が支援と引き換えに役員を受け入れる例は多いが、ここでは配当30%を続ける会社が自ら席を空けた[9]

斎藤次郎氏が挙げた理由と、受け入れ側の当惑

加入の意義を、斎藤社長は1963年5月23日付の日本経済新聞の対談で自ら語っている。住友石炭鉱業の進出を確実とみたこと、旧三大財閥の競争になれば業界が混乱すること、住友と組めば有力な競争相手が一つ減り原料も確保できること、そして「私は磐城セメントを身内に渡すほどの資本家ではない」(日本経済新聞 1963/5/23)という一節である。経営者は経営と資本の分離に慣れた人がよく、その点で旧財閥は両者が分かれている、という持論もあわせて述べていた[10]

受け入れる側の反応は、歓迎一色ではなかった。住友銀行の堀田庄三頭取は後年、磐城セメントの隆々たる業績から申し入れの真意を疑ったと述べ、住友の側には社名まで変えさせる意図がなかったと明かしている。住友に入ったからには名実ともに住友でありたいという斎藤社長の主張が、社名変更を決めた。白水会でも、1963年10月に磐城セメント側から改称と即時加入の希望が伝えられた際、少し早過ぎるのではないかという意見が出ている。加盟が認められたのは、商号変更から8か月後の1964年6月であった[11][12]

結果

白水会加盟と、資本・販売・購買の結びつき

商号変更から8か月後の1964年6月、住友セメントは住友グループ中核企業の親睦連絡機関である白水会に加盟し、16社目の会員となった。1964年3月末の大株主上位10位のうち6社が住友系で、その持株比率は合計34.88%、上位60位までを合わせると44.48%に達している。本社は1964年4月1日に東京都台東区北稲荷町へ移り、1950年12月以来14年ぶりに東京へ戻った。社名も資本構成も本拠も、1年余りのあいだに入れ替わった[13][14]

グループ加入は、日々の商流にも及んだ。営業面では住友商事が「住友セメント」と商標の変わった製品を取り扱い、住友建設などグループの建設会社が同社製品を使い始め、あるいは使用の比重を高めた。購買面では、小倉工場の石炭を住友石炭鉱業の杵島炭に、他工場が使う重油の一部を同社を通じた出光興産からの購入に切り替えている。出光興産とは、それまで取引関係がなかった。装置産業であるセメントで、燃料と販路の両端が同時に系列の内側へ入った効果は小さくない[15]

和歌山セメントの合併と赤穂工場

効果は設備の面にも及んだ。1963年12月、浦賀重工業・川崎重工業・住友機械工業の3社出資で和歌山セメントが設立されたが、用地の変更が重なるうえ、単一工場の運営には困難が予想された。同社は、工場建設の技術面を当初から住友セメントに頼ってきたこと、原料を出す秋芳鉱山がもともと住友セメントの所有であることなどを理由に合併を決め、1965年3月、住友セメントは和歌山セメント・西浜開発・西浜商事・赤穂海水工業の4社を合併して兵庫県赤穂市の塩田跡地234万平方メートルを取得した[16]

赤穂工場は1965年2月に着工し、1966年9月25日に1号キルンが稼働して、同社11番目にして初の臨海工場となった。もっとも、市況の方は厳しい。キルン稼働率は1960年の81.5%から1965年には59%へ落ち、東京のトン当たり価格も6,338円から5,383円へ下がって、業界には無配・減配が相次いだ。斎藤社長は1965年5月にセメント協会の第10代会長に就き、設備の新増設を3年間自粛する申合せを業界でまとめている。同社の業績は1966年度から回復し、1968年度には税引前利益50億7,000万円を計上した[17][18]

出典・参考
  • 住友セメント八十年史(住友セメント, 1987)第6章・第7章
  • 私の住友昭和史(津田久 編著, 東洋経済新報社, 1988)「住友石炭救済と磐城セメントの加入」
  • 企業の歴史 : 明治百年(経済春秋社, 1968)「住友セメント」
  • 日本産業史 第1巻 化学(日本経済新聞社、1994年)「セメント・ガラス-延々とカルテル」
  • 日本経済新聞 1963年5月23日 斎藤次郎社長の対談記事(住友セメント八十年史 第7章が引用)

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